論語を現代語訳してみました。
述而 第七
《原文》
子曰、述而不作、信而好古。竊比於我老彭。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、述〔の〕べて作〔つく〕らず、信〔しん〕じて古〔いにしえ〕を好〔この〕む。窃〔ひそ〕かに我〔われ〕を老彭〔ろうほう〕に比〔なぞら〕う。
子 曰〔のたま〕わく、述〔の〕べて作〔つく〕らず、信〔しん〕じて古〔いにしえ〕を好〔この〕む。窃〔ひそ〕かに我〔われ〕を老彭〔ろうほう〕に比〔なぞら〕う。
《 はじめに 》
述而第七を現代語訳するにあたり、まずは "孔子" という人物について、少しだけ紹介させていただきます。
孔子 紀元前551年~紀元前479年
名は丘〔きゅう〕、字は仲尼〔ちゅうじ〕といい、父は叔梁紇〔しゅくりょうこつ〕。母は顔徴在〔がんちょうざい〕。紀元前551年の9月28日、魯国の昌平郷陬邑で生まれ、春秋末期の思想家で、儒教の始祖と云われています。
そもそもとしまして、現代語訳ならびにこうした過去の人物を語る前提として最も大切なことがあります。それは、その時代を生きた人々の "気持ち" だったり "精神性" を知る、ということです。
生意気な言い回しですが、このことを否定する人はいないはずだと思われますし、また、2500年以上も前に生きた人々の気持ちや精神性を知る、ということは並大抵のことではありません(とくにシナ大陸に行ったこともなく、また、古典などに対する知識など備わっていない私にとっては)。しかもそれは、文明が発達されればされるほど、より困難さを極め、古えに生きた人々の想いというものが、我々のような「いま現代を生きる人間」の記憶から、益々消え去られていくのです。
というよりも、自分たち(現代人)にとって都合のいいように解釈する風潮が際立つことにでもなれば、それはもはや "憎悪" というより他ありません。
さて "孔子" という人物について、私なりの観方としては、聖人・君子というよりも、 "すぐれた学者" というイメージが強くあり、個性豊かな弟子たちや、それ以外にも上・下関係がない多くの人たちとの交わりのなかで "学ぶ" ということはどういうことなのか、といった『抑々学(=本学)』を生涯を通して追求してきたんだ、というのが私なりの観方です。
そして、そんな『抑々学(=本学)』を追求することによって、道理や真理という高い壁にぶちあたります。また、混乱した世にあっては大道や大義という壁にもぶちあたることにもなります。しかし孔子は、自分自身がそのような高い壁を乗り越えるだけの能力を有していないことを痛感していながらも、さらに学問を励むことにより、次第に自分がやるべきことを悟るようになっていきます。(十有五にして学を志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る)
述而 第七
《現代語訳》
孔先生が、次のように仰られました。
わたしは、これまで学んだ古人の教えを、忠実に述べるのみであり、自分にとって都合よくすることもなく、古人の名誉をただひすらに守ることのみぞ。
大口をたたくつもりはないが、我自身が老いてなお、盛んな気持ちでいられるのは、このためである、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
一度、この道に進むことを決心したからには、後戻りは絶対にできない、そんなふうな覚悟というのは、はじめは辛いが、次第に心地よいものへと変わっていく…。まこと、不思議だね~。
さて、この語句を語訳するにあたっては『老彭』を「老いてなお盛ん」とする意味にしてみました。このことをもって、孔子自身の古典を学ぶことの意義というものが、よくよく理解できるのではないでしょうか。
自分の父母・祖先に真心を尽くすが如く、古えの人に対しても真心を尽くす、ということの孝行心は、物事を考えるときには絶対に自分本位であってはならないとする、孔子の自分自身への戒めだったのかもしれませんし、さらには『窃かに』のなかに、孔子のそうした想いというものが、詰まっているのやもしれません。
※ 関連ブログ 述べて作らず
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考
※ イラストは『かわいいフリー素材集 いらすとや』さんより