論語を現代語訳してみました。
泰伯 第八
《原文》
子曰、恭而無禮、則勞。愼而無禮、則葸。勇而無禮、則亂。直而無禮、則絞。君子篤於親、則民興於仁。故舊不遺、則民不偸。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、恭〔きょう〕にして礼〔れい〕 無〔な〕ければ、則〔すなわ〕ち労〔ろう〕す。慎〔しん〕にして礼 無ければ、則ち葸〔し〕す。勇〔ゆう〕にして礼 無ければ、則ち乱〔らん〕す。直〔ちょく〕にして礼 無ければ、則ち絞〔こう〕す。君子〔くんし〕 親〔しん〕に篤〔あつ〕ければ、則ち民〔たみ〕 仁〔じん〕に興〔おこ〕る。故旧〔こきゅう〕 遺〔わす〕れざれば、則ち民 偸〔うす〕からず。
《現代語訳》
孔先生がまた、次のようにも仰られました。
〈美を意識せず、やみくもに徳を積もうと考えてしまうと、たとえそれが、〉長上に対して手厚く接していようとも、そこに仁礼の心("美" と為すもの)がなければ、単なる諂〔へつら〕いでしかない。
また、己の言動に対して慎み深くすることがあっても、そこに仁礼の心がなければ、単なる奴隷根性でしかない。
これとは逆に、己の言動が積極的で勇気あるものであっても、そこに仁礼の心がなければ、やがては大いに乱してしまうことにもなる。
そして、一心不乱〔いっしんふらん〕に尽くしたとしても、そこに仁礼の心がなければ、単なる自己主張でしかなく、やがては融通〔ゆうづう〕が利かなくもなってしまう。
〈よって泰伯のような美徳を有する〉君子というのは、まず親しい人を篤〔あつ〕くすることによって、民は自らがそれを見習い、人の道に従い生きようと努めることにもなる。
〈そのような流れが起これば、〉古くからの教えをきちんと聞くようにもなり、やがては多くの民が、他人〔ひと〕に対する情を篤くするようにもつながっていくのだよ、と。
〈おわり〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
泰伯のことを想うと、生まれ親しみ、かつ祖先が祀られている地(国)から離れなければならない心境というのは如何ほどのものであったろうか。しかしそれ以上にもまして、父の気持ちに逆らうことと、兄弟同士が争うことの愚かさというものを、一番に考えたのかもしれません。
さて、今回の語句を語訳するにあたっては、『礼』を「仁礼」と訳してみたわけですが、まことの「美」とは、見た目や形にこだわるものではなく、その心の内にあるものと捉え、あえて「仁=まことの心」すなわち「真心」とし、そのうえで礼を尽くすという内容にしてみました。
よって真心のない(=美徳を有しない)「恭・慎・勇・直」というものを意識しながら語訳してみた次第です。
※ 関連ブログ 礼無ければ ・ 君子、親に篤ければ
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考