論語を現代語訳してみました。
泰伯 第八
《原文》
子曰、大哉、堯之爲君也、巍巍乎。唯天爲大、唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、大〔だい〕なるかな、堯〔ぎょう〕の君〔きみ〕たる、巍巍〔ぎぎ〕 乎〔こ〕たり。唯〔ただ〕 天〔てん〕もて大なりと為〔な〕し、唯 堯 之〔これ〕に則〔のっと〕る。蕩蕩〔とうとう〕 乎として、民〔たみ〕 能〔よ〕く名〔な〕づくる無し。巍巍 乎として、其〔そ〕れ成功〔せいこう〕 有〔あ〕り。煥乎〔かんこ〕として、其れ文章〔ぶんしょう〕 有り。
《現代語訳》
孔先生はまた、かなり興奮したようすで、次のようにも仰られました。
大いなるかな、堯の天子としての器は、まさに天高き山を見上げるようじゃ。
もっとも、天が地が覆〔おお〕い、その天の子である堯は、その恩恵〔おんけい〕を民に施すだけなのだがな。けれども、その恩恵が広く民にゆきわたっても、堯はその報〔むく〕いさえも求めないでいる。
まさに天高き山を見上げるようで、これ以上の何を求めるというのだろうか。
〈弟子諸君よ。〉まこと明らかであろう、ほれ、そこに文〔ふみ〕が遺されておるではないか、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
俗にいわれる『五帝』のひとりである堯ですが、古代シナの神話として、代々語り継がれている聖人であります。
さて、今回の語句を語訳していてですが、さらに新しい孔子像を見つけた気がします。それは最後の『煥乎、其有文章』を「まこと明らかであろう、ほれ、そこに文が遺されておるではないか」と訳したことによって、古い経典に対する孔子の好奇心が旺盛な "さま" が目に浮かんできます。
そして『煥乎』を「明らかであろう」と訳した背景としては、そんな好奇心旺盛だった孔子が、その経典を読んだことによって何かしらの光明となるものを見つけ、そのことで興奮してやまなかったのだと、そんなことを思い浮かべながら、訳してみた次第ですが、なんだか、ほっこりさせられる内容となりました。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考