論語を現代語訳してみました。
述而 第七
《原文》
葉公問孔子於子路。子路不對。子曰、女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾。
《翻訳》
葉公〔しょうこう〕 孔子を子路〔しろ〕に問〔と〕う。子路 対〔こた〕えず。子 曰〔のたま〕わく、女〔なんじ〕 奚〔なん〕ぞ曰〔い〕わざる、其〔そ〕の人〔ひと〕と為〔な〕りや、発憤〔はっぷん〕して食〔しょく〕を忘〔わす〕れ、楽〔たの〕しみて以〔もっ〕て憂〔うれ〕いを忘れ、老〔お〕いの将〔まさ〕に至〔いた〕らんとするを知〔し〕らず云爾〔しかり〕、と。
《現代語訳》
葉〔しょう〕の地の長官が、子路さんに対して、「あなたがたの先生とはどのようなお方か」と尋ねられました。
しかし子路さんは、なにも答えずにその場を去り、その話をきいた孔先生は、次のように仰られました。
子路よ。お主はなにゆえ答えなかったのか、その人柄といえば、天命にしたがうための努力を重ねるあまり、食事をとることも忘れ、その結果、その身に得た真理や道理を楽しむあまり、悩みや憂いを忘れ、そして、老いが迫っていても、それにまったく気づかない、そういう人です、といえばよかったのじゃよ、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
為政第二のなかで孔子は、子路に対して『心得ていることは堂々と行なえ。心得ていなことは素直に知りません、といえ』と述べており、今回の語句との繋がりを考えてみたとき、孔子の子路に対する思いが深く伝わってきます。
このことからも、葉の地の長官に孔子のことを聞かれた子路は、何も答えずにその場を去ってしまったわけですが、孔子はそんな子路に対し「なにゆえ何も答えなかったのか、知らないことは素直に知らないといえばよかったのだ」という思いもがあったんではないでしょうか。
さらに孔子は為政第二のなかで「まずは、自分を知る、ということが大事なんだよ 」とも述べており、このことをもって孔子は「其の人と為りや」として、あえて自分自身の人柄を述べ、「自分を知るということはこういうことなんだよ」と、子路に伝えようとしたのではないでしょうか。
※ 関連ブログ 其の人と為りや
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考