論語を現代語訳してみました。
公冶長 第五
《原文》
子曰、已矣乎、吾未見能見其過、而内自訟者也。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、已〔や〕んぬるかな、吾〔われ〕 未〔いま〕だ能〔よ〕く其〔そ〕の過〔あやま〕ちを見〔み〕て、内〔うち〕に自〔みずか〕ら訟〔せ〕むる者〔もの〕を見〔み〕ざるなり。
子 曰〔のたま〕わく、已〔や〕んぬるかな、吾〔われ〕 未〔いま〕だ能〔よ〕く其〔そ〕の過〔あやま〕ちを見〔み〕て、内〔うち〕に自〔みずか〕ら訟〔せ〕むる者〔もの〕を見〔み〕ざるなり。
《現代語訳》
孔先生は、少しばかり残念そうな表情をされ、次のように仰られました。
それにしてもだな。〈これまで様々に人を論じてはきたが、〉私自身のこれまでの過〔あやま〕ち見て(知って)も、心の内から悔い改めさせてくれるだけの、人物に出会えたことがないのだからな、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句を語訳するにあたっては、一般的なものと異なった訳にしてみました。
そのことによって、この公冶長第五のなかで、孔子や論語をまとめた弟子たちは何を伝えたかったのか、とする意味合いみたいなものが感じられてきます。
つまりは、孔子のような毒舌を吐く人であっても、きちんと自分を正してくれる人の存在は有難いんだよ、と、そのような捉え方もできるのではないでしょうか。
※ 関連ブログ 内に自ら訟むる者を見ず
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考