論語を現代語訳してみました。
雍也 第六
《原文》
冉求曰、非不説子之道。力不足也。子曰、力不足者、中道而廢。今女畫。
《翻訳》
冉求〔ぜんきゅう〕 曰〔い〕わく、子〔し〕の道〔みち〕を説〔よろこ〕ばざるにあらず。力〔ちから〕 足〔た〕らざるなり、と。子 曰〔のたま〕わく、力 足らざる者〔もの〕は、中道〔ちゅうどう〕にして廃〔はい〕す。今〔いま〕 女〔なんじ〕は画〔かぎ〕れり、と。
冉求〔ぜんきゅう〕 曰〔い〕わく、子〔し〕の道〔みち〕を説〔よろこ〕ばざるにあらず。力〔ちから〕 足〔た〕らざるなり、と。子 曰〔のたま〕わく、力 足らざる者〔もの〕は、中道〔ちゅうどう〕にして廃〔はい〕す。今〔いま〕 女〔なんじ〕は画〔かぎ〕れり、と。
《現代語訳》
その話〈顔回さんに対する孔子の想い)を聞いていた冉求(=冉有のこと)さんが、次のように申されました。
先生の志〔こころざ〕される大道〔たいどう〕を説〔と〕かれましても、私にはその能力が足りておらず、行なうことすらできません、と。
孔先生は冉求さんに対して、次のように仰られました。
たしかに能力が足りていない者は、中途〔ちゅうと〕で諦〔あきら〕めてしまうわな。
今、お主は初めから、己自身に見切りをつけようとしているが、かく(画)ありたい、とも思っているのではないのかな、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
孔子自身の気持ちとしては、おそらくは冉求(=冉有)と同じだったのではないかな。というわけで、『今女畫』」という語訳については、一般の解釈と大幅に変えてみました。
孔子はそんな冉求の気持ちを察しながらも、答えるとすれば、「私もお主と思いは一緒なんじゃよ」と伝えたかったのではないだろうか。すなわち、「私も、かくありたい(顔回のような)、と思う者の一人じゃ。だから日々、学んでおるのじゃよ」と…。
この語句を語訳することで、改めて学びつづけることの大切さ、みたいなものを理解できた思いがします。
※ 関連ブログ 女は画れり
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考