論語を現代語訳してみました。
雍也 第六
《原文》
子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、祝鮀〔しゅくだ〕の佞〔ねい〕 有〔あ〕らざれば、宋朝〔そうちょう〕の美〔び〕 有るも、難〔かた〕いかな、今〔いま〕の世〔よ〕に免〔まぬか〕るること。
子 曰〔のたま〕わく、祝鮀〔しゅくだ〕の佞〔ねい〕 有〔あ〕らざれば、宋朝〔そうちょう〕の美〔び〕 有るも、難〔かた〕いかな、今〔いま〕の世〔よ〕に免〔まぬか〕るること。
《現代語訳》
孔先生はまた、〈冉有さんに対し〉次のように仰られました。
〈衛国の大夫である〉祝鮀のようなすぐれた弁才がなければ、いかに宋国の公子・朝が〈誰もがうらやむ〉美貌〔びぼう〕の人とはいえども、むずかしいわな。今の乱世を生き抜くには、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句の意味するところを深く考えたとき、孔子自身の、冉有や子貢といった仁徳者(=君子)に達していない弟子たちに対する、こころ遣いが感じられます。
冉有に述べた『女は画れり』の語訳のなかでも、孔子の冉有に対するこころ遣いが感じられるのですが、ここにきて、さらに具体的な内容をもって説かれているようにも思えてきます。
また、公子・朝のような、誰の目からみても色男と評される人物であっても、衛国の君主夫人との淫通によって醜聞にさらされ、最後はその身を滅ぼしてしまうことを考えたならば、冉有や子貢のように、「その才を活かしながら、現実社会のなかで必死で徳を広めようとすることは、決して無駄なことではないのだよ」と孔子は伝えたかったのかもしれません。
まさに、気落ちしている冉有への、孔子からのエールともとれる語句だといえましょう。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考