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(季節は異なるが・・・この方々はどのような顔で亡くなったのだろう。胸がつぶれそうになる。この方たちを殺した軍人たちは靖国神社にいる。)
何時ものことだが、8月になると戦争や原爆などが、政治・経済・報道・文芸や芸術などあらゆる分野で語られたり分析されたり、老若男女様々な人々が意見を表明し、行動している。
ここ数年、取り組んでいる俳句の世界は、「花鳥諷詠」を旨とする場合はもとより、歴史的な日本語を使用して表現すること、日本人の季節感を深い情感とともに表現する「季語」「季題」を使うことなどを通じて、「世界に二つとない美しい日本と、日本人の心を表現する」ことは、時として国粋主義、皇国史観、偏狭なナショナリズムなどに通じる側面を持っていることを考える必要がある。
俳句を詠んで間がない私は、まだまだ俳句の大きな流れや俳人たちの思想などに通暁している訳ではないから、議論を展開するだけの知識も思想も十分に持っている訳ではない。が、父母の戦争体験や終戦後間もないころに生まれた私の、戦争にまつわる体験などを下敷きにして私が受け止め、日本が直面してきた戦争を詠むことはできるし、そうした自分を起点にして過去の俳句を読んでみれば深い感動や思いに至ることも数多くある。
ロシアがウクライナに攻め込んでから、俳句誌などでも戦争や戦場を・・・(多分、テレビの画像などを見て、なのだろうが)詠んだ句を見かけるようになった。私にはとても出来ないことなのでこうした句を詠めることを驚きでもあった。一般的に遠景はいくらでも詠める、中景は悲しみや引きちぎられるような思いとともに詠むのだろう。だが、近景は言葉を失いかねない・・・その中で、たとえ心の中だけであったも決して自分の言葉を失くさないようにしなければならないが。
我々は、近景としてのウクライナ戦争を体験して俳句にすることは不可能。とすれば,中景としての戦争をどのように自分のものとして詠めるかなんだろう。
正直に言って、遠景の戦争を俳句にすることは「胡散臭い」。
今、ウクライナを詠む句は多い。では、少々前にあったミャンマーを詠む句は?今、スーダンをを詠む句は?ニジェールを詠む句は?
やはり今自分の中にしっかり落ちた「こと」を見つめていかなければならないなと思った。
以前、ある方の句についての感想で「思考停止」と言ったが、「思考停止」をしてはいけない。胡散臭いと言いたかったが・・・日本人的な忖度の用語として使ってしまった。反省!