2021.11.03(水・祝)に、利根川と江戸川の分流地点にある関宿と明治に開削された利根運河を回ってきた。
※関宿については ⇒ こちら です。
(関宿と利根運河の位置)
*
【利根運河とは】
● 東北地方や北海道からの米、木材、ニシン、カズノコ、昆布等の物資は、銚子から川舟に積み替えて利根川をさかのぼり関宿で江戸川に入って江戸へと運ばれた。この行程では10~14日を要したという。
● 銚子方面からの米穀、海産物、肥料、醤油など、茨城方面からの豆類、藁工品、薪炭等は瀬戸河岸(野田市)で陸揚げされ、野田河岸や流山河岸へ馬で江戸川まで運ばれた。
● 江戸方面からの物資は、流山~瀬戸河岸で陸送され、その後船で銚子や茨城方面に回送された。
● 人流も同様に船戸~流山間は陸路をたどり、利根川や江戸川では船を利用した。
● しかし、上流の関宿や下流の野田の利根川と鬼怒川の合流点あたりでは土砂が貯まったりして通船が困難になることが多々あった。また、洪水の際に江戸川への流水量を抑制するための関宿の「棒出し」も川幅を狭くするものだった。
● 明治14(1881)年茨城県会議員 広瀬誠一郎は、秋葉庸とともに運河建設を同県令人見寧(やすし)に建議。
● 一方、千葉県令の船越衛(まもる)考えは、運河開削の費用が過大となること、関宿など沿岸各地の民情への配慮などから鉄道敷設をというものだった。
● 人見県令や広瀬郡長は、香取郡長大須賀庸之助らの賛同を得て、船越県令に働きかけ、計画への了承を得た。
● 明治政府によって招かれたオランダ人土木工師ローウェンホルス・ムルデルが、明治18(1885)年に利根運河計画書を内務省土木局長に提出。
● 明治19(1886)年7月千葉・茨城・東京の3県知事の名で内務省に運河開削への補助金交付要請がなされた。しかし、内務省は、財政上の理由でこれを認めなかった。
● 運河建設に取り組んで来た人見茨城県令が退任、その後の島県令は急死、さらに後任の安田県令(のちに知事)は運河よりも鉄道整備推進論者だった。
● 広瀬は、県や国を頼りにするのをやめ、明治20(1887)年民間による「利根運河創立協議会」を開催し「利根運河株式会社」を設立。設立委員は6名、社長(人見寧)、筆頭理事(広瀬)。
● ムルデルの監督の下で明治21(1888)年5月に開削に着工、同23(1890)年5月完了(6月竣工式)。
総工費:57万円、延べ人数:220万人
運河の底幅:16.36m 水深:平均低水以下を1.6m(異常渇水時 1.15m)確保
この運河により、関宿経由よりも約38㎞も航路を短縮。
● 明治29(1896)年土浦線(現常磐線が開通)、道路改良が進むなど、物資輸送の主役は陸上交通に移った。
● 年間30~40日におよぶ渇水で舟運が途絶、たびたび発生する洪水や氾濫の被害により、運河の維持管理が困難になっていった。
● 昭和16(1941)年に台風で大被害を受け通行不能となり、翌17年国に買収され運河会社が解散。
● その後は、利根川の洪水を流す役割を持ちつつ、首都圏への生活用水を供給する野田緊急暫定導水路としてその役割を果たしてきた。
● 現在、行政と民間による利根運河協議会が組織され、利根運河エコパーク構想が実施計画策定のもとで推進されている。
<参考資料>
千葉県の歴史 通史編 近現代1(平成14年3月25日発行) 発行:千葉県
流山近代史(『流山市史 通史編Ⅱ』原著全五章)(2008年6月25日発行) 著者:山形 紘
新編 川蒸気 通運丸物語 利根の外輪快速船(2005年3月10日発行) 著者:山本鉱太郎
利根運河~利根川と江戸川をむすんだ川の道~ 発行:国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所
利根運河フットパスマップ(2021年5月版) 発行:利根運河協議会
千葉が誇る日本一 第30回 利根運河 発行:京葉銀行
*
正午過ぎに新町バス停から東武アーバンパークライン川間駅に移動し、次いで電車で運河駅に午後1時20分に到着。
すぐに利根運河交流館に向かった。
この交流館では、レンタサイクルを借りて運河沿いに利根川と江戸川間を走行する予定だった。
運河駅を出た先の小道に先ず感心してしまった。
そこには運河開削に貢献した人物の名前を冠した通りがあった。
(ムルデル記念通り:駅利用の住民はもとより学生たちが通行する通り)
(運河に架かる橋から利根川方角を見る。左の施設群は東京理科大学。)
(東武アーバンパークラインの鉄橋)
道脇のビリケン像に違和感を持ちながら先に進むと、小公園風に整備された運河に下りる広い階段状のところに着いた。
祝日で天気も良いためか大勢が憩いの時を過ごしていた。
案内板やガイドマップ、大きな石碑などが設置されていて、この運河に寄せる思いの強さがうかがえる。
(ムルデル記念碑)
(ムルデルのレリーフ)
(左は利根川の方角)
(右は江戸川の方角)
とにかく早く自転車を借りなければ・・・。
(利根運河交流館)
※国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所 運河出張所1階にあり、交流館は流山市が運営。
委託元:流山市流山本町・利根運河ツーリズム推進課 受託:NPO法人コミュネット流山
※協力:国、東武アーバンクラン関係駅、警察署、商工会議所、社会福祉協議会、民間企業、住宅団地など多数参加
運河交流館では女性お二人に親切に対応していただき、1台残っていた自転車を借用。
時間的にゆとりがあれば、じっくり話を伺いたかったが、午後5時までには返却しなければならないし、何より陽が落ちてしまう。
『利根運河フットパスマップ』などをいただき、すぐに利根川側の合流点に向かった。
(左がサイクリングロード)
まるでスーパー堤防の上を行くような感覚になる。
運河は、もともと低湿地のところをつなぐように開削されたという。
築堤にあたっては、運河のすぐ上脇には幅3尺の犬走り、その上方に幅1.8mの引舟道、さらに上には幅5.4~7.2mの馬踏が設けられたとのこと。(出典:『流山近代史』 山形紘著)
(じっくり観察したいと思わせる排水機場)
(水門)
(水門先の運河は濁った池のよう)
利根川との合流点の様子が知りたくて先を急ぐ。
(前方の大河が利根川)
(左の部分が利根運河への流出口)
(利根運河側)
(江戸川に続く方向を眺める。)
利根川と運河の間は閉鎖状態にあるため、通船などできない姿になっていた。
宮城県の貞山運河(木曳堀・御舟入堀・新堀)、北上運河、東名運河が今も航行可能になっていることはすばらしいことと思えた。
水門のあるところまで戻る。
この水門の上部を通り対岸側の道に移って江戸川方面に向かう。
(水門脇には六角形の東屋や案内板が置かれている。)
(運河の上部に架かる歩道橋)
(同)
(運河とサイクリングロード)
画像には人が写っていないが、それは人が入り込まないタイミングで撮っているから。
実際は結構な人数とすれ違っている。
(こういう休憩スポットがあるのもとても良い。)
(丸の人物と堰堤の高さを比較)
(左は排水機場、右は水道橋と歩道)
(江戸川との合流点)
こちら側は利根川口とは異なり常時開放されている。
(江戸川)
(江戸川上流方向)
しばしの間、川を眺めて休憩。
午後4時半近くになってしまった。
(歩道橋)
運河を越して人が歩ける橋は、何か所も整備されている。
(上の歩道橋のたもとに掲示されていた占用許可証)
(運河脇の下方にあった『運河大師八十八ヶ所再建記念碑』)
(若い女性がポーズをとって撮影?)
午後4時半過ぎに交流館に到着&自転車を返却できた。
応対していただいたお二人とはもっと話をしていたかったが5時閉館ということもあり、それは次回サクラ咲く季節の再訪時にとしてお別れした。
一日ががりの余裕をもってくることができたらどれほど良かったことだろう。
そう思う充実した短時間ながらの利根運河歩きだった。
<追記>
宮城県の貞山運河(木曳堀:全長約15㎞、御舟入堀:同約7㎞、新堀:同約9.5㎞)
開削は江戸初期~明治初期 大改修は明治16(1883)~23(1890)
北上運河:全長12.8㎞ 明治11(1878)~14(1881)年に開削
東名運河:全長3.6㎞ 明治16(1883)~17(1884)に開削
利根運河の紹介冊子『利根運河~利根川と江戸川をむすんだ川の道』(国土交通省江戸川河川事務所発行)には「日本でいちばん長い運河」とあったり、他の資料には「日本で最初の洋式運河」との記載があったりしているが、それは何か理由あってのことだろう。
宮城県でも一番長いとか言っている。
しかし、どこが一番かなどということにこだわるよりも、自分たちの地域にある運河の歴史を認識し、どれほど敬意と親しみをもって接しているかということのほうが、わたしには大切に思える。
※関宿については ⇒ こちら です。
(関宿と利根運河の位置)
*
【利根運河とは】
● 東北地方や北海道からの米、木材、ニシン、カズノコ、昆布等の物資は、銚子から川舟に積み替えて利根川をさかのぼり関宿で江戸川に入って江戸へと運ばれた。この行程では10~14日を要したという。
● 銚子方面からの米穀、海産物、肥料、醤油など、茨城方面からの豆類、藁工品、薪炭等は瀬戸河岸(野田市)で陸揚げされ、野田河岸や流山河岸へ馬で江戸川まで運ばれた。
● 江戸方面からの物資は、流山~瀬戸河岸で陸送され、その後船で銚子や茨城方面に回送された。
● 人流も同様に船戸~流山間は陸路をたどり、利根川や江戸川では船を利用した。
● しかし、上流の関宿や下流の野田の利根川と鬼怒川の合流点あたりでは土砂が貯まったりして通船が困難になることが多々あった。また、洪水の際に江戸川への流水量を抑制するための関宿の「棒出し」も川幅を狭くするものだった。
● 明治14(1881)年茨城県会議員 広瀬誠一郎は、秋葉庸とともに運河建設を同県令人見寧(やすし)に建議。
● 一方、千葉県令の船越衛(まもる)考えは、運河開削の費用が過大となること、関宿など沿岸各地の民情への配慮などから鉄道敷設をというものだった。
● 人見県令や広瀬郡長は、香取郡長大須賀庸之助らの賛同を得て、船越県令に働きかけ、計画への了承を得た。
● 明治政府によって招かれたオランダ人土木工師ローウェンホルス・ムルデルが、明治18(1885)年に利根運河計画書を内務省土木局長に提出。
● 明治19(1886)年7月千葉・茨城・東京の3県知事の名で内務省に運河開削への補助金交付要請がなされた。しかし、内務省は、財政上の理由でこれを認めなかった。
● 運河建設に取り組んで来た人見茨城県令が退任、その後の島県令は急死、さらに後任の安田県令(のちに知事)は運河よりも鉄道整備推進論者だった。
● 広瀬は、県や国を頼りにするのをやめ、明治20(1887)年民間による「利根運河創立協議会」を開催し「利根運河株式会社」を設立。設立委員は6名、社長(人見寧)、筆頭理事(広瀬)。
● ムルデルの監督の下で明治21(1888)年5月に開削に着工、同23(1890)年5月完了(6月竣工式)。
総工費:57万円、延べ人数:220万人
運河の底幅:16.36m 水深:平均低水以下を1.6m(異常渇水時 1.15m)確保
この運河により、関宿経由よりも約38㎞も航路を短縮。
● 明治29(1896)年土浦線(現常磐線が開通)、道路改良が進むなど、物資輸送の主役は陸上交通に移った。
● 年間30~40日におよぶ渇水で舟運が途絶、たびたび発生する洪水や氾濫の被害により、運河の維持管理が困難になっていった。
● 昭和16(1941)年に台風で大被害を受け通行不能となり、翌17年国に買収され運河会社が解散。
● その後は、利根川の洪水を流す役割を持ちつつ、首都圏への生活用水を供給する野田緊急暫定導水路としてその役割を果たしてきた。
● 現在、行政と民間による利根運河協議会が組織され、利根運河エコパーク構想が実施計画策定のもとで推進されている。
<参考資料>
千葉県の歴史 通史編 近現代1(平成14年3月25日発行) 発行:千葉県
流山近代史(『流山市史 通史編Ⅱ』原著全五章)(2008年6月25日発行) 著者:山形 紘
新編 川蒸気 通運丸物語 利根の外輪快速船(2005年3月10日発行) 著者:山本鉱太郎
利根運河~利根川と江戸川をむすんだ川の道~ 発行:国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所
利根運河フットパスマップ(2021年5月版) 発行:利根運河協議会
千葉が誇る日本一 第30回 利根運河 発行:京葉銀行
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正午過ぎに新町バス停から東武アーバンパークライン川間駅に移動し、次いで電車で運河駅に午後1時20分に到着。
すぐに利根運河交流館に向かった。
この交流館では、レンタサイクルを借りて運河沿いに利根川と江戸川間を走行する予定だった。
運河駅を出た先の小道に先ず感心してしまった。
そこには運河開削に貢献した人物の名前を冠した通りがあった。
(ムルデル記念通り:駅利用の住民はもとより学生たちが通行する通り)
(運河に架かる橋から利根川方角を見る。左の施設群は東京理科大学。)
(東武アーバンパークラインの鉄橋)
道脇のビリケン像に違和感を持ちながら先に進むと、小公園風に整備された運河に下りる広い階段状のところに着いた。
祝日で天気も良いためか大勢が憩いの時を過ごしていた。
案内板やガイドマップ、大きな石碑などが設置されていて、この運河に寄せる思いの強さがうかがえる。
(ムルデル記念碑)
(ムルデルのレリーフ)
(左は利根川の方角)
(右は江戸川の方角)
とにかく早く自転車を借りなければ・・・。
(利根運河交流館)
※国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所 運河出張所1階にあり、交流館は流山市が運営。
委託元:流山市流山本町・利根運河ツーリズム推進課 受託:NPO法人コミュネット流山
※協力:国、東武アーバンクラン関係駅、警察署、商工会議所、社会福祉協議会、民間企業、住宅団地など多数参加
運河交流館では女性お二人に親切に対応していただき、1台残っていた自転車を借用。
時間的にゆとりがあれば、じっくり話を伺いたかったが、午後5時までには返却しなければならないし、何より陽が落ちてしまう。
『利根運河フットパスマップ』などをいただき、すぐに利根川側の合流点に向かった。
(左がサイクリングロード)
まるでスーパー堤防の上を行くような感覚になる。
運河は、もともと低湿地のところをつなぐように開削されたという。
築堤にあたっては、運河のすぐ上脇には幅3尺の犬走り、その上方に幅1.8mの引舟道、さらに上には幅5.4~7.2mの馬踏が設けられたとのこと。(出典:『流山近代史』 山形紘著)
(じっくり観察したいと思わせる排水機場)
(水門)
(水門先の運河は濁った池のよう)
利根川との合流点の様子が知りたくて先を急ぐ。
(前方の大河が利根川)
(左の部分が利根運河への流出口)
(利根運河側)
(江戸川に続く方向を眺める。)
利根川と運河の間は閉鎖状態にあるため、通船などできない姿になっていた。
宮城県の貞山運河(木曳堀・御舟入堀・新堀)、北上運河、東名運河が今も航行可能になっていることはすばらしいことと思えた。
水門のあるところまで戻る。
この水門の上部を通り対岸側の道に移って江戸川方面に向かう。
(水門脇には六角形の東屋や案内板が置かれている。)
(運河の上部に架かる歩道橋)
(同)
(運河とサイクリングロード)
画像には人が写っていないが、それは人が入り込まないタイミングで撮っているから。
実際は結構な人数とすれ違っている。
(こういう休憩スポットがあるのもとても良い。)
(丸の人物と堰堤の高さを比較)
(左は排水機場、右は水道橋と歩道)
(江戸川との合流点)
こちら側は利根川口とは異なり常時開放されている。
(江戸川)
(江戸川上流方向)
しばしの間、川を眺めて休憩。
午後4時半近くになってしまった。
(歩道橋)
運河を越して人が歩ける橋は、何か所も整備されている。
(上の歩道橋のたもとに掲示されていた占用許可証)
(運河脇の下方にあった『運河大師八十八ヶ所再建記念碑』)
(若い女性がポーズをとって撮影?)
午後4時半過ぎに交流館に到着&自転車を返却できた。
応対していただいたお二人とはもっと話をしていたかったが5時閉館ということもあり、それは次回サクラ咲く季節の再訪時にとしてお別れした。
一日ががりの余裕をもってくることができたらどれほど良かったことだろう。
そう思う充実した短時間ながらの利根運河歩きだった。
<追記>
宮城県の貞山運河(木曳堀:全長約15㎞、御舟入堀:同約7㎞、新堀:同約9.5㎞)
開削は江戸初期~明治初期 大改修は明治16(1883)~23(1890)
北上運河:全長12.8㎞ 明治11(1878)~14(1881)年に開削
東名運河:全長3.6㎞ 明治16(1883)~17(1884)に開削
利根運河の紹介冊子『利根運河~利根川と江戸川をむすんだ川の道』(国土交通省江戸川河川事務所発行)には「日本でいちばん長い運河」とあったり、他の資料には「日本で最初の洋式運河」との記載があったりしているが、それは何か理由あってのことだろう。
宮城県でも一番長いとか言っている。
しかし、どこが一番かなどということにこだわるよりも、自分たちの地域にある運河の歴史を認識し、どれほど敬意と親しみをもって接しているかということのほうが、わたしには大切に思える。
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