「編集」とは「資料をある方針・目的のもとに集め、書物・雑誌・新聞等の形に整えること。」(広辞苑)とある。また、同じ辞書で「取材」とは「ある物事や事件から作品・記事などの材料を取ること。」とある。
ところで、今回の岩手・宮城内陸地震に関する新聞での取り上げではひどい体験をした。それへの憤りは、いまなおいっこうに治まらない。
最近の新聞記事を読んでいると、カッコ書きでくくられた誰ソレさんとかのコメントがやたら目につく。「心やさしく、みんなに好かれたひと」「地域の振興に一所懸命に取り組んだひと」などなど。
わたしは、“コメントされた方”にも“コメントした方”にも悪い気持を微塵にも抱いていない。
厭なのは、一見慎み深そうな顔や親切心を表にして近づき、こちらが条件付きで話したことなどを、前後の関係を無視し、自分の都合の良いところを切り張りして、まことしやかに仕立て上げていくその行為のことである。
事が人の手によるのだから、書き手の人格によって、大いに内容や質が変わっていってしまう。しかもその「成れの果」なるものは、大勢の人々に配信されていき、こちらとしては手の出しようもなくなってしまう。
書かれたことが事実かどうかを問われれば、それは事実と言うしかない。しかし、その時の言葉は、ある条件設定の中で発せられたもの。その条件を外せば、発せられるものではなったのだ。「条件」はすべて無視され、都合のいい言葉だけが残されていく。
きっと、彼らは言うだろう。「話を聞く」のが「取材」であり、「仕立て上げていく」のが編集と。しかし、こうした行為で傷けられる人々はどれくらいいるだろうか。彼らには、そういうことへの思いは薄い。
ゴシップ記事満載の三流週刊誌のごとくカッコ書きのコメントが散らされた新聞を見て、マスコミに対し強い警戒心を持つようになってしまった。
「油断めされるな!! けっしてマスコミ人の話しかけには応じてならぬ!!」
ところで、今回の岩手・宮城内陸地震に関する新聞での取り上げではひどい体験をした。それへの憤りは、いまなおいっこうに治まらない。
最近の新聞記事を読んでいると、カッコ書きでくくられた誰ソレさんとかのコメントがやたら目につく。「心やさしく、みんなに好かれたひと」「地域の振興に一所懸命に取り組んだひと」などなど。
わたしは、“コメントされた方”にも“コメントした方”にも悪い気持を微塵にも抱いていない。
厭なのは、一見慎み深そうな顔や親切心を表にして近づき、こちらが条件付きで話したことなどを、前後の関係を無視し、自分の都合の良いところを切り張りして、まことしやかに仕立て上げていくその行為のことである。
事が人の手によるのだから、書き手の人格によって、大いに内容や質が変わっていってしまう。しかもその「成れの果」なるものは、大勢の人々に配信されていき、こちらとしては手の出しようもなくなってしまう。
書かれたことが事実かどうかを問われれば、それは事実と言うしかない。しかし、その時の言葉は、ある条件設定の中で発せられたもの。その条件を外せば、発せられるものではなったのだ。「条件」はすべて無視され、都合のいい言葉だけが残されていく。
きっと、彼らは言うだろう。「話を聞く」のが「取材」であり、「仕立て上げていく」のが編集と。しかし、こうした行為で傷けられる人々はどれくらいいるだろうか。彼らには、そういうことへの思いは薄い。
ゴシップ記事満載の三流週刊誌のごとくカッコ書きのコメントが散らされた新聞を見て、マスコミに対し強い警戒心を持つようになってしまった。
「油断めされるな!! けっしてマスコミ人の話しかけには応じてならぬ!!」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます