旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

岩手・宮城内陸地震被災地“栗原市栗駒”に行く

2008-07-13 22:35:40 | 地域魅力

                         (荒砥沢ダム上流の崩落)

7月12日午前、先月の地震発生後初めて郷里に行った。紅葉の時期には、「錦織り成す」という表現さえ色あせる見事な風景を見せる川台渓谷が、今は崩落の大きな傷を晒している。


                         (川台渓谷の崩落)

かつては清流の川も、大量の泥水が駆け下る。栗駒ダム上流の、それもずっと上流のところの土砂崩れが、いかに甚大なものであったか。地震後一月が過ぎようとしているのに、そのことを泥流が突きつけている。
                          

ここは栗駒ダム下流部の上田地区。昭和12年に建てられた『大原開拓記念』碑がある。この碑の正面には、『川台水路新設記念』と刻まれている。「苗圃(びょうほ)」の名のごく、植林用の杉苗が育てられ、少しの田んぼと畑が点在する山裾の静かな集落。先人の苦難の歴史がここにある。


                            (大原開拓記念碑)

                          (川台水路開削記念碑)

栗駒ダムは、アイオン台風による大きな被害後に建設された。亡き母から聞いたことがある。この地区の下流部(畳石)でも、洪水で人命が失われたと。


ここは栗原市道「馬場駒の湯線」(古道『羽後岐街道』のあった道)を栗駒山に分け入った大峰森開拓地。ここまでの途中には、仙台藩の『木鉢(きばち)番所跡』がある。


                             (大峰森開拓地)

この開拓地は、わが同級生が住んでいたところ。一度、中学生時代にクラスの皆と野外学習の一環として訪れたことがあった。「こんなにも山奥の場所だったのか。彼女は、こんなにも寂しい道を、真冬も通っていたのか。」と、ただただその苦労が偲ばれた。一部道路に亀裂が認められるものの、幸いにもこの地区は被害なし。ここから先の栗駒山に向かう道は閉鎖中。


次は、大峰森開拓地の隣りにある駒堂開拓地を抜けて文字地区へ移動。日本のグランドキャニオンなどとまで言われるようになった荒砥沢の大崩落地をこの目で見たかった。

ここ文字地区は、秋田県皆瀬村に通じる街道がとおり、『仙台藩文字柿ノ木番所』がおかれていたところでもある。長屋門を構える大きな屋敷が点在するとても美しい農村景観を今に伝えている。


                        (仙台藩文字柿ノ木番所跡)

           (番所脇ある民家の庭先にある藤づる:アナコンダか?)

荒砥沢ダムの堰堤に立って北方に眼をやれば、大崩落の凄まじさが飛び込んでくる。その向こうの北東(丑寅)の方角には、残雪が白く浮かぶやや紫がかった緑色の栗駒山。穏やかな稜線のその山の東端から流れ出た土石流が、多くの人命を奪った。無念!! 無念!!


               (荒砥沢ダム上流崩落遠望。後方の青い山は栗駒山。土石流発生は右側の方向にある。)

茶色に濁ったダム湖には、船が一艘。

「ジオ・パークとして売り出してやる!」 「ついでに、船も浮かべてやろう!」 憤りとともに、そんな思いを一層強くした。すれ違った見物人は幾組もいたのだから。

堰堤からの下流の眺望は、晴天のもと何事も無かったような穏やかさで広がっている。紅葉の季節は、ことさら美しいはず。


                           (荒砥沢下流の眺望)

※次の項目をクリックすると関連ページが開きます。

アイオン台風(Wikipedia)

カスリン・アイオン台風ヨリ60年(国土交通省岩手河川国道事務所)

昭和23年9月洪水(アイオン台風)(宮城県土木部河川課)

羽後岐街道

秋田越え Ⅱ 「羽後岐街道を尋ねて」(栗駒町史談会会員・西村元吾氏)

秋田越えⅠ「羽後岐街道を尋ねて」



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