昨年末に千葉県木更津市の方から電子メールが届いた。
その内容は、「雄島(宮城県松島町)にある餐霞亭主墓碑(さんかていしゅぼひ)に刻んである内容等について、教えて欲しい。」といったもの。
選擇寺(せんちゃくじ)のご住職 山本さんからのもので、貞山運河事典の中で紹介している「霊場 雄島」のページを見ての問合せだった。
▲餐霞亭主墓碑(宮城県宮城郡松島町雄島)
ご住職によれば、「餐霞亭主墓」と刻まれているお墓が、友人3人と遊学の旅の途中松島で亡くなった同寺檀徒の稲次家8代当主眞年(まとし)である事が分かったとのこと。
▲齋譽眞年居士墓(千葉県木更津市の選擇寺境内)
この眞年という人物は、年少にして詩を賦し、文にすぐれ、書道にも通じ、草書、隷書まで能くかけたと木更津市史では紹介している。
幸いにも、当方で松島町史の関連部分のコピーを持っていたので、それを郵送することができた。
*
私もこの「餐霞亭主墓(さんかていしゅぼ)」には興味を持ち、掲載したのだった。
雄島の東端あって少し傾いてはいるが、とても趣きと存在感のある石碑だからだ。
今回のことで碑の建立経緯を知ることができ、そして山本住職の「年が改まったら墓参に松島を訪れたい」というご意向を伺い、つい“縁”というものの奥深さを思ってしまった。
なお、この碑は、眞年が病没したとき、荼毘(だび)に付して遺骨は郷里に持ち帰っていることから、松島の雄島に供養碑として建てたものと解される。
せっかくの機会なので、碑に刻まれている内容を紹介します。
*
餐霞亭主墓碑 ※以下の内容は、読みやすいように加工してあります。
姓は稲次、諱(いみな)は眞年(まとし)、字(あざな)は子音、通称 作左衛門、南総の君去津(=木更津)の人、寛政八年(1796年)生まれ、文政十三年(1830年)奥の松島を訪れたときに病没、享年35歳、尾島(=雄島)の松吟庵の傍らに葬る
木更津邑
餐霞亭主墓
藍屋
難面もかくれし月や啼蛙 雪空舎南悠
行春と思へと尽ぬ名残かな 欣多楼爽章
一羽かもて帰りはかなし鴈(がん)の声 孤坐亭一架
春の葉も易くて消つ分れ霜 畔戸斎一川
文政一三年庚寅閏三月
*
その内容は、「雄島(宮城県松島町)にある餐霞亭主墓碑(さんかていしゅぼひ)に刻んである内容等について、教えて欲しい。」といったもの。
選擇寺(せんちゃくじ)のご住職 山本さんからのもので、貞山運河事典の中で紹介している「霊場 雄島」のページを見ての問合せだった。
▲餐霞亭主墓碑(宮城県宮城郡松島町雄島)
ご住職によれば、「餐霞亭主墓」と刻まれているお墓が、友人3人と遊学の旅の途中松島で亡くなった同寺檀徒の稲次家8代当主眞年(まとし)である事が分かったとのこと。
▲齋譽眞年居士墓(千葉県木更津市の選擇寺境内)
この眞年という人物は、年少にして詩を賦し、文にすぐれ、書道にも通じ、草書、隷書まで能くかけたと木更津市史では紹介している。
幸いにも、当方で松島町史の関連部分のコピーを持っていたので、それを郵送することができた。
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私もこの「餐霞亭主墓(さんかていしゅぼ)」には興味を持ち、掲載したのだった。
雄島の東端あって少し傾いてはいるが、とても趣きと存在感のある石碑だからだ。
今回のことで碑の建立経緯を知ることができ、そして山本住職の「年が改まったら墓参に松島を訪れたい」というご意向を伺い、つい“縁”というものの奥深さを思ってしまった。
なお、この碑は、眞年が病没したとき、荼毘(だび)に付して遺骨は郷里に持ち帰っていることから、松島の雄島に供養碑として建てたものと解される。
せっかくの機会なので、碑に刻まれている内容を紹介します。
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餐霞亭主墓碑 ※以下の内容は、読みやすいように加工してあります。
姓は稲次、諱(いみな)は眞年(まとし)、字(あざな)は子音、通称 作左衛門、南総の君去津(=木更津)の人、寛政八年(1796年)生まれ、文政十三年(1830年)奥の松島を訪れたときに病没、享年35歳、尾島(=雄島)の松吟庵の傍らに葬る
木更津邑
餐霞亭主墓
藍屋
難面もかくれし月や啼蛙 雪空舎南悠
行春と思へと尽ぬ名残かな 欣多楼爽章
一羽かもて帰りはかなし鴈(がん)の声 孤坐亭一架
春の葉も易くて消つ分れ霜 畔戸斎一川
文政一三年庚寅閏三月
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これまた深い話ですね。この件にも興味がわいてきました。掘り下げてみたくなりました。
松吟庵は文政の頃この地より南側に位置していましたので、この石碑は移された可能性があります。
木更津邑 餐霞亭主が扇屋に滞在していたことがわかります。
また扇屋の自宅は仙台市に移築されて現存しております。