旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

葉山山頂「葉山宮」「月山宮」の由来に

2016-06-05 22:11:08 | 山形県の山

葉山神社に手を合わせたものの、その由来を読んで複雑な気持ちになってしまった。

  2016.06.03葉山(長井)[山形県]は → こちら



(画像の左が月山宮 右が葉山宮)


(葉山宮の内壁に貼られた縁起)



『葉山山頂「葉山宮」「月山宮」の由来と式年お建替のお礼』は、次のような書き出しで始まる。
     *
葉山山頂「葉山宮」「月山宮」の由来と式年お建替のお礼

西暦五九三年崇峻天皇暗殺のためその第三皇子の「能除太子」が聖徳太子の計らいで出羽の国へ逃げ延び、羽黒山、月山、湯殿山等を開山、神鎮し、旭、葉山も神鎮した。葉山には、「弥陀」を安置し、それからこの山を「弥陀ヶ嶽」と呼ばれておりました。
一千六十二年(康平五年)兇徒、安倍貞任、宗任等を征伐するため、源義家を総督に下し十二年間、遂に倒伐するも仏体を流されその後三百三十四年間草昧の地となりました。
(以下略)
     *
わたしが解せなかったのは、この兇徒という表現だった。
支配下に置こうとした朝廷軍から蝦夷の地を守りぬこうと戦った英雄を、なぜ蝦夷の地の人たち自ら“兇徒”と呼ぶのだろうか。

同じ思いを、達谷窟(たっこくのいわや 岩手県西磐井郡平泉町にある毘沙門天をまつった堂)前の案内板でも持ったことがある。

『達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺』ホームページの「達谷窟毘沙門堂縁起」には次のように掲載されている。
“一千二百年の昔、悪路王(あくろおう)、赤頭(あかがしら)、高丸等(たかまるら)の蝦夷(えぞ)がこの窟に塞を構へ、女子供を掠(かす)めるなど暴虐の限りを盡(つく)し、国府もこれを制することが出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命ぜられ、蝦夷征伐の勅(みことのり)を下された。對する悪路王等は達谷窟より三千餘の族徒を率いて駿河国清美關(きよみがぜき)まで進んだが、大将軍が京を發するの報を聞くと、武威に恐れをなし窟に引き返し守りを固くした。
延暦廿年(八〇一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨(ふら)す蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎(は)ね、ついにこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模(ま)ねて九間四面の精舎を創建し、百八躰の毘沙門天を祀り、國を鎮める祈願所とし、窟(いわや)毘沙門堂(別名を窟堂)と名付け桓帝御願(かんていぎょがん)の御寺(みてら)とした。(以下略)“

ここにいう悪路王とは阿弖流為(あてるい)のことと推定され、それならばやはりみちのく蝦夷の英雄なはず。
たしかに毘沙門堂は、坂上田村麻呂の寄進によるものだから、征服者側の論理のあらわれととらえるしかない。

しかしながら、達谷窟前の案内板でもここ葉山神社の由来板でもそうだが、訪れ見る人すべてに“東北人自らがおとしめてまで”紹介する必要はないだろうと思えてならない。
東北各地に残る坂上田村麻呂伝説や源義家伝説が示しているのは、被征服者に対して、悪行から解放してやったのだという認識を骨の髄にまで浸透させた征服者のたくみさということか・・・。

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