最終更新:2016.11.20
南京大虐殺についての当時の情報の流れを整理する。
《南京からの情報の流れ》
現場の記録は主に3種類。
1)南京安全区国際委員会
2)欧米人の日記(ヴォートリン、ラーベ、他)
3)日本軍(紅卍字会埋葬記録、軍法務部)
現場から派生した情報が主に3種類。
4)欧米の新聞(ニューヨークタイムズ、シカゴデイリーニュース、他)
5)ティンパーリ著『戦争とは何か』
6)『南京安全地帯の記録』(安全区国際委員会記録からの写し)
ティンパーリの『戦争とは何か』に登場する「戦死を含めて4万人」は、紅卍字会の埋葬記録の「埋葬4万3071体」が元ネタであろうと思われる。
また「市民犠牲者1万2千」は根拠無しと考える。なぜなら、紅卍字会の埋葬記録には兵士か市民かの区分がない。さらには、事件例の出典元になった『南京安全地帯の記録』には市民の犠牲者は53人しか無い。従って、「1万2千」は現場になんのつながりもない数字。「(埋葬された遺体の)30%は純粋な民間人だった」と主張するベイツの話を元に、紅卍字会の遺体埋葬記録の約4万体に30%を掛けて1万2千と算出したに過ぎないと考える。
そして、問題のレポート。
7)ベイツレポート
これは、ベイツが陥落2日後の15日に、南京を去る欧米記者たちに渡したレポートである。但し、これには日本軍の悪逆非道を描写してあるものの、犠牲者数についてのまとまった数字は記述されていない。
『南京安全地帯の記録』の13、14日の殺人事件は0件なので、ベイツ自身も市民殺害は目撃していないはず。
しかし、14日から第七連隊による安全区内での敗残兵掃蕩が開始されているので、これに伴う敗残兵処断は目撃したと思われる。但し、東京裁判の松井司令官への判決文では「市民の保護を怠った」としか書いてないので敗残兵処断は有罪にされていない。
つまり、南京大虐殺とは、「ベイツが創作した悪逆非道なイメージ+実在する少数の事件例(市民殺害犠牲者53人、他)+合法的敗残兵処断」を抱き合わせにした日本貶め宣伝工作として始まったと言ってよいと考える。
8)スマイス統計調査
さらに、上記以外の現場の数字としては、南京戦直後にスマイス博士が調査した「兵士の暴行による市民の犠牲者2,400人」などの統計調査結果がある。(関連記事)
しかし、東京裁判の20万人、戦後の30万人の数字は、このスマイス統計調査の結果をも無視し、上図のいずれの数字にもつながらない。従って、これらの数字は根拠のない捏造だろうと判断する。基本的に、事件の現場である南京につながらない数字には意味が無い。
《「南京戦」から「南京大虐殺」へ》
犠牲者数の規模や戦闘の経過から見れば通常の戦争と受け取られてもおかしくなかった南京戦が、陥落から東京裁判へ向けて「南京大虐殺」と化していく流れの萌芽は、上述のように陥落直後から始まっていた。
近年の史料発掘と研究からは、以下に示すように南京戦を欧米に情報発信した主要な3名がいずれも国民党側の人物であったことが判明している。
さらに、蒋介石の妻・宋美齢も南京陥落後に渡米し、米国内の反日世論の形成に向けて精力的に活動を行っている。
また、南京陥落後に中華民国の臨時首都となった重慶で国民党宣伝部の顧問を務めたセオドア・ホワイトはこう書いている。
これらの流れが、米国での反日世論を引き起こし、太平洋戦争への圧力となり、そして東京裁判で日本の戦争犯罪の代表格として南京戦が糾弾される動きにつながっていく。
主要参考文献:
南京事件の核心―データベースによる事件の解明(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562361
《関連記事》
「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1
改版履歴:
2016.11.20 図をアップデートし、併せて本文も修正。
南京大虐殺についての当時の情報の流れを整理する。
《南京からの情報の流れ》
現場の記録は主に3種類。
1)南京安全区国際委員会
2)欧米人の日記(ヴォートリン、ラーベ、他)
3)日本軍(紅卍字会埋葬記録、軍法務部)
現場から派生した情報が主に3種類。
4)欧米の新聞(ニューヨークタイムズ、シカゴデイリーニュース、他)
5)ティンパーリ著『戦争とは何か』
6)『南京安全地帯の記録』(安全区国際委員会記録からの写し)
ティンパーリの『戦争とは何か』に登場する「戦死を含めて4万人」は、紅卍字会の埋葬記録の「埋葬4万3071体」が元ネタであろうと思われる。
また「市民犠牲者1万2千」は根拠無しと考える。なぜなら、紅卍字会の埋葬記録には兵士か市民かの区分がない。さらには、事件例の出典元になった『南京安全地帯の記録』には市民の犠牲者は53人しか無い。従って、「1万2千」は現場になんのつながりもない数字。「(埋葬された遺体の)30%は純粋な民間人だった」と主張するベイツの話を元に、紅卍字会の遺体埋葬記録の約4万体に30%を掛けて1万2千と算出したに過ぎないと考える。
そして、問題のレポート。
7)ベイツレポート
これは、ベイツが陥落2日後の15日に、南京を去る欧米記者たちに渡したレポートである。但し、これには日本軍の悪逆非道を描写してあるものの、犠牲者数についてのまとまった数字は記述されていない。
『南京安全地帯の記録』の13、14日の殺人事件は0件なので、ベイツ自身も市民殺害は目撃していないはず。
しかし、14日から第七連隊による安全区内での敗残兵掃蕩が開始されているので、これに伴う敗残兵処断は目撃したと思われる。但し、東京裁判の松井司令官への判決文では「市民の保護を怠った」としか書いてないので敗残兵処断は有罪にされていない。
つまり、南京大虐殺とは、「ベイツが創作した悪逆非道なイメージ+実在する少数の事件例(市民殺害犠牲者53人、他)+合法的敗残兵処断」を抱き合わせにした日本貶め宣伝工作として始まったと言ってよいと考える。
8)スマイス統計調査
さらに、上記以外の現場の数字としては、南京戦直後にスマイス博士が調査した「兵士の暴行による市民の犠牲者2,400人」などの統計調査結果がある。(関連記事)
しかし、東京裁判の20万人、戦後の30万人の数字は、このスマイス統計調査の結果をも無視し、上図のいずれの数字にもつながらない。従って、これらの数字は根拠のない捏造だろうと判断する。基本的に、事件の現場である南京につながらない数字には意味が無い。
《「南京戦」から「南京大虐殺」へ》
犠牲者数の規模や戦闘の経過から見れば通常の戦争と受け取られてもおかしくなかった南京戦が、陥落から東京裁判へ向けて「南京大虐殺」と化していく流れの萌芽は、上述のように陥落直後から始まっていた。
近年の史料発掘と研究からは、以下に示すように南京戦を欧米に情報発信した主要な3名がいずれも国民党側の人物であったことが判明している。
ジョン・ラーベ(ドイツ人):独シーメンス社の中国駐在員であり、安全区国際委員会の委員長を務めた。
→1937年当時のドイツまだ日独伊三国同盟の締結前であり、蒋介石率いる中華民国政府に武器を輸出していたドイツとは深い関係にあった。
マイナー・シール・ベイツ(アメリカ人):南京の金陵大学教授で、安全区国際委員会の一員であった。
→中華民国政府の顧問であった。1938年すなわち『戦争とは何か』を分担執筆した年と、1946年すなわち東京裁判で証言をした年に、中華民国政府から勲章を授与されている。
ティンパーリ:上海で『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』を著したマンチェスター・ガーディアン記者。
→彼は中国国民党中央宣伝部の顧問に雇われ、抗日宣伝のためにこの本を書いた。証拠に、中国国民党中央宣伝部国際宣伝部長曾虚白の「自伝」に「カネを渡して書いてもらった」と書いてある。
→1937年当時のドイツまだ日独伊三国同盟の締結前であり、蒋介石率いる中華民国政府に武器を輸出していたドイツとは深い関係にあった。
マイナー・シール・ベイツ(アメリカ人):南京の金陵大学教授で、安全区国際委員会の一員であった。
→中華民国政府の顧問であった。1938年すなわち『戦争とは何か』を分担執筆した年と、1946年すなわち東京裁判で証言をした年に、中華民国政府から勲章を授与されている。
ティンパーリ:上海で『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』を著したマンチェスター・ガーディアン記者。
→彼は中国国民党中央宣伝部の顧問に雇われ、抗日宣伝のためにこの本を書いた。証拠に、中国国民党中央宣伝部国際宣伝部長曾虚白の「自伝」に「カネを渡して書いてもらった」と書いてある。
さらに、蒋介石の妻・宋美齢も南京陥落後に渡米し、米国内の反日世論の形成に向けて精力的に活動を行っている。
また、南京陥落後に中華民国の臨時首都となった重慶で国民党宣伝部の顧問を務めたセオドア・ホワイトはこう書いている。
「米国の新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……米国を説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」
これらの流れが、米国での反日世論を引き起こし、太平洋戦争への圧力となり、そして東京裁判で日本の戦争犯罪の代表格として南京戦が糾弾される動きにつながっていく。
主要参考文献:
南京事件の核心―データベースによる事件の解明(冨沢 繁信)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886562361
《関連記事》
「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1
改版履歴:
2016.11.20 図をアップデートし、併せて本文も修正。