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《南京事件》グラフで見る城内掃討

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.12.21



12月13日の南京陥落後の、主に14〜16日に城内に潜伏した敗残兵の掃討あるいは摘出が行われた。その際の人的被害の規模について、一連の考察を通して判明している数値に基づいて考察を行ってみる。



《要点》

・陥落後の城内掃討における市民犠牲比率は34%。
・陥落後の城内掃討における安全区外の市民犠牲比率は44%に達する可能性。
・良民証の発行時に捕らえた捕虜まで含めると城内掃討全体における市民誤認率は29%。
・ベイツが書いた「城内と城門付近の遺体の30%はかつて兵隊になったことがない人々」はおそらく事実。
・ヴォートリン日記の「市内埋葬の80%が市民」と「市外埋葬の25%が市民」はおそらく事実。数字のマジック。




《A. 城内の遺体》

陥落後の城内掃討における市民犠牲比率を算出するため、城内収容遺体の内訳を整理する。数値は一連の考察で算出したものである。




工兵が撤去した遺体は、城門付近に集中しているから、それらは全て戦死体と解釈する。

すると、残りの紅卍字会の埋葬担当分では、市民比率 55%になる。




《B. 城内掃討での犠牲者》

城内掃討での犠牲者総数を算出するために、以下のように補正をかける。

1)前項のグラフに、「12月14-16日に第7連隊が摘出し、処断した敗残兵6,670人」を加える。他に城門外での処刑もあるようだから、ここでは少し上乗せして7千と置く。
2)一連の考察に基づいて「敗残兵と誤認された市民」を2,000と算定しているから、それも加味する。(前項の7千のうち2千を市民と置く)
3)日本軍が城内掃討する前の市民犠牲者数が約900(600+250+50)あるから、それを埋葬分の市民数から除外する。

すると、次のようになる。




これが、「陥落直後の城内掃討戦での犠牲者の内訳」の近似値である。

このグラフ上では、掃討戦全体での市民犠牲比率が34%となる。

このくらいの数字になると、戦史上の他の地上戦における市民犠牲比率(沖縄戦 50%、ベルリン陥落 47%、イラク戦争 75%など)に近い数字。

また、このグラフでは埋葬に占める市民犠牲比率は44%になる。

もし敗残兵摘出(=揚子江または城門外に連行してから処刑)は全て安全区内から、埋葬(=城内での殺害)は全て安全区外であると言って良いのであれば、これも意味のある数字になる。

というのも、城内“虐殺”のケーススタディで考察したように、安全区外を掃討した38連隊には歩兵第三十旅団命令として「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」という命令が出ている。

同時に、「南京城内には避難民相当多数ありたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し」との認識も戦闘詳報に記されている。

つまり、掃討区域内で成人男性を見かけたら、それは軍服を脱ぎ捨てた敗残兵に違いないから有無を言わさず掃討せよ、という意味になる。

他の城内掃討部隊の戦闘詳報が確認できないので(おそらく存在しない=戦災で消失)確定はできないが、他の部隊でも同様の指示が出ていた可能性はある。

従って、結果的に「城内の安全区外での掃討によって殺害した成人男性の約44%が実は市民だった可能性」を指摘できる。




《C. 掃討戦での市民誤認率》

犠牲者数についての分析は上述の通りだが、12月25日頃から行われた「良民証」発行時にも敗残兵2,000を捕らえ、これを捕虜にしている。
(これ以降は、まとまった数の敗残兵摘出はないはず)

従って、城内掃討戦全体での「市民誤認率」を算出するなら、これも加味する必要がある。




「良民証」発行時の敗残兵2,000における市民誤認はゼロだと言っているわけではないが、「敗残兵と誤認された市民」2,000は前項のグラフで既に織り込み済みである。

従って、城内掃討戦全体での市民誤認率は 29%となる。




《D. ベイツが見た30%》

ティンパーリ著『戦争とは何か』に掲載されている手紙の中でベイツはこう書いている。

「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近い非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかつて兵隊になったことのない人びとである。」


「4万人」とは紅卍字会の埋葬記録によるものだろうと推測するが、それはさておき、ここでは、「30%」がどこに起因してるのかについて考察する。


城内戦死:陥落日までの城内戦死、および陥落後の城内掃討での中国兵の戦死。
便衣兵 :陥落から数日間の城内掃討で捕縛され、城門外や揚子江岸で処断された敗残兵。
城内市民:城内で発生したであろう市民犠牲者。(=陥落までの城内犠牲者、陥落後の掃討時の巻き添え、敗残兵と誤認されて犠牲となった市民)

※グラフに用いた数値はこの一連の考察で算定したものだが、犠牲の発生日は必ずしも定かではないので、わかる範囲で大まかに割り振っている。


このグラフは《B. 城内掃討での犠牲者》を時系列推移で表現したものに近いが、陥落日以前に生じた犠牲者数も含んでいる点が異なる。

グラフにあるように、陥落翌日の14日の時点で既に城内犠牲者に占める市民の比率は28%に達している。その後の城内掃討を経て最終的には35%に至る。

したがって、城内の状況としては14日頃にざっと見た印象であろうが、あるいは陥落から日数が経ってから聞きかじった情報であろうが、ベイツのいう「市民犠牲者30%」はあり得る数字どころか、ベイツ本人の認識としては真実を書いたのではないかと思われる。




《E. ヴォートリン日記の数字の謎》

ヴォートリンが日記に次のことを書いている。

『ミニー・ヴォートリンの日記』 1938年4月15日
DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN
卍会の本部を訪れた時の会合の後、彼らは私に以下のデータを示してくれた---彼らが、遺骸埋葬が可能だった間、即ち1月中旬から4月14日までの間、彼らの会は、市内に1793体の遺骸を埋葬しており、このうちの約80%が市民だった。市の外には、この間に彼らは39,589体の男性、女性および子供を埋葬しており、このうち約25%が市民だった。
After the meeting when calling at the headquarters of the Swastika Society, they gave me the following date --- From the time they were able to encoffin bodies, i.e. about the middle of January to April 14, their society had buried 1793 bodies found in the city, and of this number about 80% were civilians outside the city during this time they have buried 39,589 men, women, and children and about 2_1/2% of this number were civilians.


上記は次の記事からの借用です。

電脳日本の歴史研究会blog

http://blog.livedoor.jp/ichiromatsuo/archives/70150196.html


ヴォートリンの記述の要点は次の2点である。紅卍字会の記録と照合すれば、1,793体の「市内」は「城内」と読み替えていいはず。

(1) 市内埋葬1,793体の80%が市民
(2) 市外埋葬の39,589体の25%が市民


第一印象的には城内遺体の80%が市民とは「酷い」とか「あり得ない」と思えるが、実はそうではないことが判明した。

冒頭の《A. 城内の遺体》のグラフを、ヴォートリンがいう「(1) 市内埋葬1,793体の80%が市民」に合わせて改造してみる。円グラフの一番外側に付け足したのが、兵士/市民の区分および埋葬場所としての城内/城外の数字である。

一般に紅卍字会の城内埋葬数は「1,793」という数字が知られている。ただし、それはあくまで「埋葬場所」であって、「収容場所」ではない。そのような、「城内収容」を集計すると計4,757体である。例えば、紅卍字会の埋葬記録には「12月22日」に「中華門外望江磯」に109体を埋葬したと記録されているが、備考欄には「城内各処で収容」と書いてある。




そうすると、「市内埋葬1,793体」の残りの『城内と城門付近で収容して城外に埋葬した遺体』に占める市民の比率がヴォートリンが書き残したように、まさに25%になった。手元の計算では25.9%である。工兵撤去分を「兵士かつ城外埋葬」にするとそうなるのである。グラフの数字を電卓で検算すればすぐわかる。

したがって、ヴォートリンは「(2) 市外埋葬の39,589体の25%が市民」と書いているが、より正確には「城内と城門付近で収容して、城外に搬出して埋葬した遺体の25%が市民」であって、おそらく紅卍字会の埋葬記録に基づいているであろう39,589体全体にも当てはまるだろうと推測して日記に記したのではないだろうか。前項のベイツも「4万人近い非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され」と書いているので、ヴォートリンも同様の認識だった可能性がある。

ここからわかることは、ヴォートリンは城内南側の建物密集地区で収容されて中華門外に搬出されて埋葬された遺体数や、挹江門や太平門などで日本軍が独自に搬出して処理した遺体数なども紅卍字会を通してかなり正確に把握していたであろうということである。
それだけでなく、現存する紅卍字会の埋葬記録(東京裁判提出版)には「男/女/子」の区分しかないから、市民と兵士の集計はできないが、ヴォートリンが訪れた紅卍字会の本部では兵士と市民が区分された集計値も持っていた可能性が高いということである。

さらに言えば、私のこの一連の独自の遺体数算定も、これでまたヴォートリンによって裏付けができたと言えると思う。偶然でこれほど数字がぴったり整合するとは思えない。




《欧米人の憤慨》

上述のような状況だとすれば、安全区国際委員会の欧米人たちはこのように憤慨したであろう。

安全区を作って市民たちを保護した。日本軍も安全区への攻撃を控えてくれていた。だから、戦争中は市民にほとんど犠牲は出なかった。なのに、陥落して戦争が終わったと思ったら、侵入してきた日本軍が荒らしまわって市民にも大量の犠牲者が出た。どういうことなのか。


上記は私の忖度作文だが、実際に陥落2日後の12月15日に、南京を去る欧米記者たちにベイツが渡したレポートにはこう書いてある。

(ベイツレポート抜粋)

日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を怖れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分にたいした損害も与えずに出て行ったのです。
しかし、二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。



また、「安全地帯の記録」に掲載されている手紙にも同種の文面がある。

(第九号 日本大使館への手紙 1937年12月17日)(抜粋)

言い換えると貴国部隊が本市に入城した十三日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたが、そこでは流れ弾の砲弾による被害は殆どなかったし、全面退却中であっても中国兵たちによる掠奪もなかった。貴方たちがこの地区を平和裡に掌握し、安全地帯以外の南京市の残りの地域の治安が確保されるまで、その中で日常生活を平穏裡に続けさせる舞台は貴方たちのためにしっかりと出来上がっていた。そして南京市は完全に普通の生活を始めると思われた。この時本市に滞在してた西洋人二十七人全てと中国人住民は十四日、貴国兵士たちが至る所で行った強盗、強奪、殺人の横行に全く驚かされたのであった。我々の抗議の書状で求めているのは、貴方たちが部隊の秩序を回復し、本市の通常生活をできるだけ早く元に戻すことである。


これが、当時の城内視点での“大虐殺”イメージの出発点ではないかと考える。

なお、城内掃討の具体的事例としては、次の記事で検証した。

《南京事件》城内“虐殺”のケーススタディ
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8dfb8b0916aa84dc46215f2c7b3543d5




《なぜこうなったか》

城内掃討戦での市民犠牲比率が34%というのは、戦史上の他の地上戦よりは若干低いものの、南京戦全体平均(=9.8%)からすれば高い。さらに、誤認、反抗、逃亡その他状況は不明であるにしても「城内の安全区外での掃討によって殺害した成人男性の約44%が実は市民だった可能性」というのは数値としてやや高いと言える。

これにはいくつもの要因が重なっている。

1)戦前に国際委員会が「市民のほぼ全部をこの地帯(=安全区)の中に集めた」と日本軍に文書で通知。
2)20万人は安全区に避難したが、実は約5万人は安全区外で陥落を迎えた。*
3)南京防衛軍の司令長官・唐生智が陥落前日(12日)に徹底抗戦を指示したまま部下を見捨てて南京から脱出した。
4)唐生智脱出を知った南京防衛軍は瓦解し、数千人の敗残兵が軍服を脱ぎ捨てて城内のどこかに潜伏した。
5)陥落後の掃討戦において日本軍は「安全区外には市民はほとんどいない」と認識していた。(38連隊戦闘詳報)
6)掃討戦において「各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず」という命令が出ていた。(30旅団命令)
7)さらには(おそらく)軍服を脱ぎ捨てた敗残兵の多くが安全区に潜伏し、安全区外にはあまりいなかった。

このような要因が重なって、安全区外に残っていた市民約5万*の中から、掃討戦で約2千人の犠牲者を出してしまったのではないかと推測する。

*:陥落時点で安全区外に5万人いたらしいことは、こちらの記事に記述した。

従って、一般的な“南京大虐殺”イメージでは、暴走した兵士らによる理性を失った乱暴狼藉として語られることが多いが、安全区外の市民犠牲者に関する限り、これは手違いに近い話ではないかと考える。なにしろ、命令が出ている以上は、現場の部隊としてはそうするより他にない。

ただ、安全区外にいた5万人(半数を成人男性としても2.5万人)の大半が犠牲になったわけではないところを見ると、上記のような命令が出ていたにも関わらず、現場の部隊は敗残兵と市民の識別に相当の努力をした様子も伺える。

「南京攻略戦、特に占領直後の12月13-16日の敗残兵掃討戦においては、バラバラに崩壊した中国軍の敗退部隊と脱出を争う避難民とが混交し、投降兵、敗残兵、便衣兵が続出して混乱を極めた。戦闘員と無辜の住民との識別は困難であった。」(独立軽装甲車第二中隊小隊長・畝本正己/証言による『南京戦史』最終回)






以上。






改版履歴:
2017.09.02 計算ミスを修正
2017.09.10 紅卍字会・埋葬記録の集計ミスによる修正
2017.12.18 ヴォートリンの項を全面書き換え
2017.12.21 《ベイツが見た30%》グラフをこちらに移動

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2 コメント

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Unknown (えすとる)
2023-03-11 11:23:38
 疑問です。  卍字会数字の妥当性はどう判断したのか。 どのような調査を実施したのかという視点ですと、軍服じゃない男→市民 という埋葬現場判断以外考えにくくはないですか。 またヴォートリンのみならず、ベイツ認識も、卍字会記録が元以外には考えにくいためこの点の論点は卍字会記録に限定できると考える。 数千の敗残兵はその性質上多数が平服と言えるから、なんなら、単にその比率と説明してしまっても矛盾なく成り立つ事しかこの記事内では指摘できていないです。

城内安全区外掃討対象の半数近く市民になりえるほどに、場内が無人ではなかった根拠が提示できていないです。

「掃討区域内で成人男性を見かけたら、それは軍服を脱ぎ捨てた敗残兵に違いないから…という意味に」 なぜこう考えたのか分かりませんが、明らかに飛躍です。戦闘詳報と命令の合体というのがよく分からないです。
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Unknown (えすとる)
2023-03-11 12:26:56
安全区外人口については別記事で確認しました、失礼しました。委員会推定の修正が主たる根拠という事ですね。
返信する

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