2022.09.18 7項に加筆し、5,6項と順序入れ替え
1927年12月17日に発生した草鞋峡での事件について、NNNドキュメントや清水潔氏の著書に興味深い情報があったので、これを起点にして主に「計画的処刑説」の視点で検証してみる。
《要旨》
1)現場の再現描写の中で、岸辺の捕虜集団を三方から囲って射撃したというが、これは同士討ちの危険があり、処刑場の設営としてはおかしい。捕虜集団を囲む横幅は約100m、この距離で味方同士が撃ち合う体制になる。激戦をくぐり抜けてきた第65連隊が同士討ちリスクに気づかないはずがない。
2)一部の再現描写では同士討ちリスク回避のために、捕虜を囲む鉄条網の終端部に設置した松明に火を灯し、射撃規制用の目印にしたという話があるが、これもおかしい。栗原伍長は包囲網右側にいたというが、松明射撃規制があれば撃てる範囲が狭くなる。しかし、栗原伍長は撃ったと証言しているし、松明射撃規制に言及した形跡もない。そして、鉄条網はなかったという。
3)より詳細な地図を用いて事件現場の比定を行ったところ、三方を囲む日本軍の下辺は土堤だったが左右の辺は土堤ではなかった。集団処刑を考えるなら2辺の土堤の上から射撃した方が良い。その場所は現場から200mほどずれている。集団処刑を狙った場所選定ではないことがわかる。
4)栗原スケッチをさらに詳しく観察すると、実は岸辺に捕虜集団を囲い込んだ包囲網のうち左辺は内側に閉じているが、右辺は岸辺に向かって開いている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃は捕虜集団に向けられていない。未だ証言には出てこないが、開いた包囲網の中に船着場とそこへ向かう乗船順路があったものと思われる。そして田山大隊長は現場全体を視野に収めやすく船着場にも近い土堤右端にいた。
5)第一機関銃隊二等兵氏の証言から重機関銃の射撃状況が判明した。約10分間に、0.7秒の連射と16秒の待機時間、その繰り返し。捕虜集団に狂ったように撃ちまくったというイメージではない。むしろ、機関銃分隊長は薄明かりの中で、射撃目標を精密に見定めて逐一射撃指示していたと思われる。また、重機関銃は65連隊が保有する半数しか動員していない。
(後編)
《4. 船と航路》
現場付近の船と航路に関する情報をまとめる。
(船と航路)
上の地図には中洲との渡し船航路が描かれている。他の地図も参照すると、渡し船航路はある程度の幅があったようなので、その範囲を書き加えておいた。
また、その近い時代に撮影された南京付近での船の写真も参考までに貼っておいた。このサイズの船が水路を行き来するのに多用されていたようである。
写真の船は、岸壁とは言えないが土堤のようなところにいる。舳先を土堤に差し込めば、そのまま乗り降りできそうに見える。
(現場付近の水深)
もし、現場から捕虜を船で中洲に渡河させようとしたら、現場付近の水深が問題になる。
次に示す鈕先銘氏は、事件後の遺体の山を目撃したという。その話によると、現場は浅瀬なのだそうである。確かに地形的にもそうなりそうに見える。
永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある。ここは非常に浅い砂洲である。流れが白鷺洲で二つに分かれているので、長江の本流は八掛洲の北側を流れており、中洲の南側を通る流れは、流れが緩慢で、そこに浅い砂洲を形成しているのである。(P240)
(中略)
鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない。しかし、冬の、水の枯れているーーまさに蘇東坡先生の言う、山高く月は小さく、水落ち、石出づる季節に、しかも大湾子の流れはあのようにおそいのに、どうやってあんなにたくさんの死体を流し去ることができようか?(P241)
(中略)
鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない。しかし、冬の、水の枯れているーーまさに蘇東坡先生の言う、山高く月は小さく、水落ち、石出づる季節に、しかも大湾子の流れはあのようにおそいのに、どうやってあんなにたくさんの死体を流し去ることができようか?(P241)
鈕先銘『還俗記』/南京事件資料集 2 中国関係資料編
(船着場)
現場付近の水深が浅いことがわかった。
では、船をどう着けるつもりだったのか。これについて箭内准尉が説明している。
では、ほんとうに解放するための準備が行われていたのだろうか。第一機関銃中隊に所属していた箭内享三郎准尉(福島市泉)は次のように回想する。
「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶になるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています」
刈り払いをした木や枝が、あとで手ごろな棒として捕虜の手ににぎられ、解放のとき“暴動”が発生する原因になったのだと箭内准尉はいうのである。(P125)
「田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶になるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています」
刈り払いをした木や枝が、あとで手ごろな棒として捕虜の手ににぎられ、解放のとき“暴動”が発生する原因になったのだと箭内准尉はいうのである。(P125)
ふくしま 戦争と人間 1 白虎編
船着場を作ったそうである。
確かに、現場設営のために「ヤナギの木を切り倒し」などしているから、資材に困ることはなさそうである。
(船の目撃談)
続いて、事件当時に船そのものはあったのか。
上記の箭内准尉は「十隻前後は集めてきた」と証言している。
上述した唐光譜氏(前編)は「つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた」と書いている。船からの射撃はどうかと思うが、とにかく船はあったと証言している。
栗原スケッチにも2隻の船が書いてある。その船の絵は1本マストの帆船のようなので、上の地図に貼っておいた写真の船と似てる。
さらに、事件翌日に現場付近を目撃した同盟通信記者・前田雄二氏に、警備司令部は次のように説明したという。
「江北へ逃げていくことを教唆したら」というのは船の存在を暗示している。また、続く文面は船をめぐる大混乱である。
(前田雄二氏の証言)
ー 一般住民の大量虐殺はない ー
しかし、占領後、日本軍による「虐殺」がなかったわけではない。私は、自分の体験をそのまま「戦争の流れの中に」に書いているが、異常な見聞の第一は、占領三日目のことである。
(中略:第一は軍艦学校で捕虜の処刑を目撃した話。第二は交通銀行の裏で捕虜の処刑を目撃した話。第三は挹江門の城門における死体の山。)
第四は、その翌日、揚子江岸に死体の山が連なっているとの情報を得て車を走らせたが、下関からさらに下った江岸におびただしい中国兵の死体が連なっていた。ざっと見て千は超えていた。帰って警備司令部に説明を求めると「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との答えだった。(P575)
ー 一般住民の大量虐殺はない ー
しかし、占領後、日本軍による「虐殺」がなかったわけではない。私は、自分の体験をそのまま「戦争の流れの中に」に書いているが、異常な見聞の第一は、占領三日目のことである。
(中略:第一は軍艦学校で捕虜の処刑を目撃した話。第二は交通銀行の裏で捕虜の処刑を目撃した話。第三は挹江門の城門における死体の山。)
第四は、その翌日、揚子江岸に死体の山が連なっているとの情報を得て車を走らせたが、下関からさらに下った江岸におびただしい中国兵の死体が連なっていた。ざっと見て千は超えていた。帰って警備司令部に説明を求めると「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との答えだった。(P575)
魁 郷土人物戦記 /伊勢新聞社編
草鞋峡事件の際の指揮官だった田山少佐は、「舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めました」「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ」と話している。
第一大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある。
「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」
南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。
「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」(P103)
「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」
南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。
「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」(P103)
南京の氷雨 /阿部輝郎
これほど立場が異なる人たちが一様に船の話をしているのだから、現場に船はなかったという方が難しくなる。
(開いた包囲網の謎)
ここで栗原スケッチの中で私がずっと奇妙に感じていた点について書く。
よく観察すると、捕虜集団を囲い込む包囲網の左辺は内側に向けて閉じているのだが、右辺は実は岸辺に向かって開いている。
捕虜集団を囲い込んで同士討ちも気にせず乱射するつもりなら、右辺も閉じていて然るべきである。にもかかわらず、開いている。これが長年の謎だった。
しかし、手がかりが増えてきた今ならわかる。
誰も証言していないが、右辺の開いた包囲網の岸辺に箭内准尉が作った「船着場」があったと推測する。
そこに気づくと、さらにわかることがある。
栗原スケッチの中で、船は現場の右側に描かれている。そして、右辺の開いた包囲網の機関銃はよく見ると捕虜集団に向いていない。
どういうことかというと、図中に点線赤丸で示した位置に船着場があり、開いた包囲網の機関銃は船着場へ向かう乗船順路に向けられていたのだと思われる。
また、現場の前は地形的にみても、特に左に行くほど浅瀬になっていることは図示した通りである。したがって、船着場を設けるなら現場の右側に来るのが必然的なのである。
次に、現場指揮官だった田山大隊長がいた場所を探ってみる。
栗原伍長がいた場所は包囲網の土堤右端付近ということは上述(前編)した。また、栗原スケッチを見ると田山大隊長の「つぶやき」がメモされている。その「つぶやき」は後述画像の中にある。
伍長と大隊長(少佐)の関係だから、よほどのことがなければ親密な会話などないはず。それでも「つぶやき」がメモされてるところを見ると、至近距離にいたのだと思われる。
これはヒントになる。
戦国時代の昔から指揮官は戦場全体を見下ろせる高所に陣取るのが当たり前である。それは、ここでは下辺の土堤の上である。高さはおそらく3mくらいもあったので、全体を見下ろすのに最適地である。
であれば、現場全体を最も掌握しやすい下辺土堤の中央付近が良さそうなものだが、田山大隊長はなぜか土堤でも右端付近にいた。
理由は「船で捕虜を対岸に逃す作戦」の指揮官ならそこがベストポジションだからである。
土堤右端ならば、現場全体を視野に収めつつ、捕虜の乗船作業や船の航行状況も比較的近くで視認できる。
以上の要素を簡単な再現図にまとめた。
これほど多数の断片的状況証拠が一様に指し示していることは、17日夜に捕虜をこの草鞋峡の現場に移送した意図は対岸の中洲への解放であり、そのための現場設営がなされ、船も実在し、事件発生直前までそのように動いていたであろうということである。
《5. 認識の違い》
「認識」というのは、本記事のタイトル「~外形的考察」とは真逆の話になる。しかし、証言者の認識にのみ依拠していると事件の真相にたどり着けなくなるから外形的考察を積み上げているのであり、その意味では両者は表裏一体である。
栗原伍長は自身のスケッチにこうメモしている。
ここの中央の島に一時やるためと言って
船を川の中程にをいて集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである
船を川の中程にをいて集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである
田山大隊長はこう証言している。
「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」(P103)
南京の氷雨 /阿部輝郎
射撃直前の、「船は遠ざけて(栗原)」と「最初の舟が出た途端(田山)」は事象として似てる。
「船は遠ざけて(栗原)」の前にその船が現場に接岸していたかどうかが不明なので断定はできないが、船が現場から遠ざかっていくという事象は共通している。
集団処刑したと認識した人からすれば、船が現場から遠ざかるのは集団処刑開始の前準備に思えたかもしれない。
一方で、捕虜を対岸に逃す作戦を指揮していた田山大隊長は、捕虜を乗せた「最初の舟が出た」と認識してる。
文章だけでは伝わりにくいので、イメージ図にした。
最初の船が出たのなら、おそらく接岸待機中の他の船は進路を避けたはず。その瞬間に発砲があり、騒乱が始まり、船は散り散りに逃げ去った。
事象としては、極めて似てる。
さらに詳細を観察すべく、田山大隊長の証言を時系列要素に分解してみる。
(a) 銃声は最初の舟が出た途端
(b) 捕虜の集団が騒然
(c) 手がつけられなくなった
(d) 味方が何人か殺され
(e) 発砲が始まってしまった
(f) 発砲の中止を叫んだ
栗原伍長のメモも同様に時系列要素に分解してみる。
(x) 船を川の中程にをいて集めて
(y) 船は遠ざけて
(z) 4方から一斉に攻撃
並べ直してみる。
(x) 船を川の中程にをいて集めて
(a) 銃声は最初の舟が出た途端
(b) 捕虜の集団が騒然
(c) 手がつけられなくなった +(y) 船は遠ざけて
(d) 味方が何人か殺され
(e) 発砲が始まってしまった +(z) 4方から一斉に攻撃
(f) 発砲の中止を叫んだ
事態がエスカレーションしていく様子がわかる。
船は地元民のを操船要員とセットで借り出したものだから、(b)~(c)あたりの時点で逃げ出すのは必定。
そうすると、認識の違いはあるものの栗原伍長と田山大隊長が言っている事象はほぼ同じ。差異があるとすれば、最初の船の接岸の有無だけだが、そこは栗原伍長が言及していないので確認できない。
事件発生前の情景も比較してみる。
「ここの中央の島に一時やるためと言って 船を川の中程にをいて集めて」(栗原伍長)
「舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった」(田山大隊長)
栗原伍長は捕虜を対岸の中洲に渡す件を認識している。その上でこれを懐疑的にみて、船は捕虜に見せただけで船は遠ざけて集団処刑を開始した、というようなニュアンスになっている。
田山大隊長は船の数が足りないことを証言している。
栗原伍長の懐疑心も、捕虜人数に対して船が足りない、という事象から発しているように見える。もし、大輸送船団が見えていれば、そういう懐疑心は生じなかったはず。
つまり、栗原伍長と田山大隊長の認識は逆方向でも、現場で見た事象は同じ、ということである。
栗原伍長はこの事件に対しては批判的な言い方をしている人だが、上述してきたようにその栗原スケッチの中に船が描かれ、船着場の存在を示す特徴までもが描写され、船の数は少なく、事件経過の筋もここまで整合しているのだから、これは大筋としては田山大隊長の証言に沿った事実があったのだろうと思われる。創作ならこれほど話が整合することはない。
なお、南京考察においては同じ事実を前にしても認識が真逆になっている事例はいくつもある。
そのために、双方の言い分を比較し、可能な限りの現場状況の考察をしている。
《6. 機関銃の射撃状況》
17日の草鞋峡の現場で三年式機関銃を撃ったという二等兵氏の証言をビデオテープで見た清水潔氏は次のように文字起こししている。これは手がかりとして使える。
(第一機関銃隊二等兵の証言)
「こうやって撃ったんだから。5~6発、サブロクジュウハチ……、200発くらい撃ったのかな、ダダダダダダダダと。一斉に死ぬんだから。 10 分ぐらい撃った」
「こうやって撃ったんだから。5~6発、サブロクジュウハチ……、200発くらい撃ったのかな、ダダダダダダダダと。一斉に死ぬんだから。 10 分ぐらい撃った」
「南京事件」を調査せよ /清水潔
上記の証言について、清水潔氏は「毎分200発を10分間撃ったなら一台の機関銃だけでも2000発を発射したことになる」と解釈しているが、それは違うだろう。
清水潔氏の解釈は、過熱を考慮した実用上の三年式機関銃の連続射撃性能は200発/分程度だろうという話からきているが、上の二等兵氏は「毎分200発」とは言っていない。全部で200発程度撃ったと証言しているように読める。
なお、三年式機関銃は30発の保弾板を横から装填する形式である。現代の自動小銃でいえば30発入りのマガジンを装填するという仕様に相当する。
つまり、問題の「サブロクジュウハチ」が示す意味は「30発保弾板を6枚使って合計180発」と読める。
(謎の解明に一緒に取り組んでくれた方々、ありがとうございます)
それで、その180発がおよそ「200発くらい」という丸め方になっていると解釈できる。
ちなみに、三年式機関銃のスペックでは、500発/分の連射能力がある。従って、5発に要する時間はたった0.6秒。200発でも、保弾板を滞りなく連続装填できれば、射撃に24秒しかかからない。
そうすると、上の二等兵氏の証言を改めて再現すると次のようになる。
(a) 射撃は一度に5~6発ずつ間欠的に撃った。
(b) 射撃弾数は30発保弾板を6枚使って180発、およそ200発くらい撃った。
(c) 射撃時間は10分くらいだった。
(d) 上の数字から、10分間における連射回数は約36回、連射間の平均待機時間は約16秒、となる。
(計算式)
200発÷5.5発=約36回
10分÷36回=約16.7秒
500発/分→5.5発/0.66秒
連射間の待機時間=16.7-0.66=約16秒
200発÷5.5発=約36回
10分÷36回=約16.7秒
500発/分→5.5発/0.66秒
連射間の待機時間=16.7-0.66=約16秒
これを再現描写すると次のようになる。秒針を見ながらどうぞ。
ダダダダダ(#1/0.66秒)…(16秒待機)…ダダダダダ(#2/0.66秒)…(16秒待機)…ダダダダダ(#3/0.66秒)…(16秒待機)………ダダダダダ(#36/0.66秒)(10分後、射撃終わり)
既に射撃を始めているのに、合間の16秒間の待機中にどんな光景を思い浮かべましたか?
これが、数千人あるいは1万人前後の捕虜を一箇所に集めて集団処刑する際の撃ち方に見えるだろうか。見えないと思う。
(重機関銃8挺の論拠)
ところで、清水潔氏は自身の再現描写の中で、重機関銃数について「12機以上」と書いているが、それは違う。8挺である。
(清水潔氏による再現描写)
鉄条網の外側には砂が盛られていく。銃座だった。12機以上もの重機関銃が運び込まれ、銃口が半円の内側に向けて設置された。
鉄条網の外側には砂が盛られていく。銃座だった。12機以上もの重機関銃が運び込まれ、銃口が半円の内側に向けて設置された。
「南京事件」を調査せよ /清水潔
「8挺」の論拠を示す。
(a) 栗原利一氏(第65連隊第1大隊、伍長)は「機関銃隊は一大隊機関銃と独立機関銃隊であったようだ」と栗原スケッチに書いている。
(b) 第65連隊の場合は、3個大隊の他に独立機関銃中隊がある。
(c) 独立軽装甲車第二中隊小隊長として南京戦に参戦した畝本正己氏は『証言による「南京戦史」(11)』に「機関銃は大隊に四挺、聯隊に十二挺しかない」と書いている。
つまり、草鞋峡現場への機関銃の出動が第一大隊と独立機関銃中隊であれば、合計8挺となる。
(第65連隊の場合は連隊全部で重機関銃が16挺)
そして、草鞋峡に出動した部隊の指揮官だった田山少佐(第65連隊第一大隊長)も8挺だと言っている。
「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻ーーいや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。」(P103)
南京の氷雨 /阿部輝郎
両角連隊長も手記の中で「二個大隊分の機関銃を配属する」と書いている。すなわち、8挺である。
…田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。(P340)
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。(P340)
両角業作 手記
歩兵第65聯隊長・歩兵大佐
南京戦史資料集 II
歩兵第65聯隊長・歩兵大佐
南京戦史資料集 II
つまり、第65連隊の重機関銃の定数16挺の半分しか動員していない。
計画的な集団処刑というなら、なぜ重機関銃を総動員しなかったのだろうか。
《7. 射撃状況の推理》
清水潔氏の著書から機関銃の射撃状況が垣間見れたので、そこから全体の射撃状況を推理してみる。
(重機関銃の運用)
重機関銃というのは歩兵が個人で運用する小銃とは運用方法が全く異なる。重機関銃1挺につき10人前後の機関銃分隊を編成し、分隊長の指揮の元に運用する。(これとは別に弾薬を運搬する分隊もある)
下記の資料にもあるように、射撃に際しては小隊長の命令に基づき分隊長が射撃目標、射撃方法、射撃順序などを指示して、射手がこれに従って射撃する。
従って、重機関銃の場合は射手が一人で勝手に興奮してめったやたら撃ちまくる、というような射撃は基本的にできないのである。連射ができるのも分隊長がそのように命じた時のみである。
(平均16秒の謎)
上述したように、二等兵氏の証言から重機関銃の射撃状況は「10分間における連射回数は約36回、連射間の平均待機時間は約16秒」であったらしいことがわかった。
また当然ながら、「5~6発」ずつの射撃方法も機関銃分隊長の指示だったはず。
では、これを指揮していた機関銃分隊長は次の射撃までの平均16秒間に何をしていたのか。
新たな射撃命令において、射撃目標、射撃方法、射撃順序などを射手に指示するのに数秒要するにしても、10秒以上の余剰時間がある。
そして、冒頭で説明したように頭上には満月、天候はおそらく曇りで時々小雪が舞うという状況だった。
上述した唐広普氏によれば、立木に枯れ草をぶら下げて火を灯したというから、もしかしたら満月が雲に隠れたので照明用に灯したのかもしれない。
ともかく。
そういう視界状況の中で、囲んだ日本兵のおそらく10m以上先に捕虜集団がいて、しかもその集団の至近距離にまだ一部の日本兵が混ざっていたのだと思われる。
ただ、その識別は容易ではない。何しろ、捕虜も日本兵もどちらも遠目には似たような軍服またはそれに準じる服装である。
(射撃目標を見定めていた)
幕府山事件を噂として聞いた上村参謀副長の日記にはこう書いてある。
◇十二月二十一日 晴
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり(P269)
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり(P269)
上村利道日記(上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐) /南京戦史資料集 II
敵味方共々機関銃にて撃ち払ったと書いている。
山田支隊からは、この事件で7人の戦死者を出しているというから、相当な混乱状態に陥ったことは史実として間違いない。
そこで、その大混乱の渦中にあった機関銃分隊長の行動をイメージ図を用いて考えてみる。
騒乱が始まり、捕虜の集団からいくつかの小グループが逃走し始めたとする。
あるいは箭内准尉の証言によれば、捕虜の一部が木の枝などを拾って日本兵に殴りかかったともいう。
分隊長の上官である小隊長はこの状況を見て、「逃走(あるいは反乱)する捕虜を撃て」などと命じたとする。さて、自分が機関銃分隊長なら、射手にどこを撃てと指示するか。
答えは、
(1) A,B,Dには日本兵がいるから撃ってはいけない。
(2) 脱走しつつある捕虜を撃つならCとEを撃たねばならないが、CはDと近いので射撃に注意が必要。
(3) 優先順位的には捕虜の大集団中央部を撃つよりもCとEの突出部を撃つのが優先。
となる。
あるいは、もっと積極果敢に、
(a) BまたはDで日本兵に殴りかかっている捕虜を撃て
(b) だが、友軍には絶対に当てるな
と命じたかもしれない。
機関銃分隊長は、薄明かりの中でこのような状況を見極め、射手に的確に指示せねばならないのである。その判断と命令伝達に要した時間が「連射間の平均待機時間は約16秒」になったと思われる。
さらに言えば、「5~6発」ずつという射撃方法は、大集団を薙射するのではなく、射撃目標を数人単位まで絞り込んだ上で分隊長が逐一射撃指示を出していたことを示しているように見える。
それにも関わらず、結果論的には薄明かりの大混乱の中で、撃ってはいけないA,B,Dまで撃ってしまって味方に戦死者を出した、という展開になった思われる。
以上は重機関銃の運用に注目した考察だが、小銃・軽機関銃でも状況判断においては差異はないだろう。
それで、重機関銃が平均で10分間に200発を射撃したとして、重機関銃数が8挺だと、1,600発/10分となり、これだけで毎秒2.7発となる。
そこに歩兵の歩兵銃と軽機関銃が加わる。
参考までに重機関銃が十分活躍している戦闘詳報を見ても、小銃弾は機関銃弾の2倍くらい消費している。
江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400
仮にその数字を使えば、イメージとしては毎秒8発くらいの射撃となる。実際はもっと撃っているはず。
そういうことであれば、たとえ個々の兵士は冷静に狙いを絞って射撃していたとしても、撃たれる捕虜の側からすれば狂ったように乱射されたと感じるのも当然かと思う。
《改版履歴》
2022.09.17 初版
2022.09.18 7項に加筆し、5,6項と順序入れ替え
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