正義というのは人間社会にはしばしば登場する。しかしながら、個々の正義の正しさは、物理学や数学などとは違って必ずしも証明可能ではない。そして、正義は、国、地域、信仰、組織、家族、個人、時代ごとにそれぞれ異なることもあり得るし、事実として異なる事例は多々ある。
古今東西のほとんどの戦争において、当事国のそれぞれに正義はあった。古くは諸葛孔明が自軍の正義を滔々と述べて、戦意高揚と敵軍への心理的ダメージを図った。また、日本史においては正義の印として錦の御旗が何度も登場した。正義に真の正解はないが、人が底力を発揮するためには有用である。
自軍に正義はないが、やむを得ず戦うことになったので我慢して戦ってほしい、と訓示を述べる戦争指導者はいない。そんなことをしたら、兵らは戦闘意欲をなくして勝てなくなる。だから、正義は無ければ作るモノなのである。大日本帝国の大東亜共栄圏も、習近平の「中国の夢」もその類である。
歴史の評価でも正義は乱立する。原爆投下を巡っても、戦争の早期終結や戦時国際法など、立脚基盤が違えば出てくる正義は異なる。慰安婦問題については日韓で正義が違うが、正義云々以前に事実認定からして違うからさらに困る。韓国の場合、自国の正義のために歴史的事実をも捏造する悪癖がある。
国内で個人同士が論争するような場合は、法律は正義の立脚基盤としてわかりやすいし多用されるが、違法でない領域での人権だとか、平和というようなテーマだと正義が乱立する傾向にある。観察していると、事例分析に基づく合理的帰結もあれば、思い込みや盲信による正義も見受けられる。
厄介なのは、多くの人は自分の正義がこの世で唯一絶対と思ってそうなことである。唯一絶対の正義と思い込んでしまったら、それは異論者の正義は誤りだという結論にならざるを得ない。これが感情的対立の原因になる。しかし、事実は上述のように、正義とは立場が違えば異なるものである。
正義の実態を別の角度から言えば、それは要求を相手に飲ませるための論法である。自分にしか効能がない正義は信念と呼んだ方が的確であろう。論法と言った意味は、対立論者を屈服させたり、賛同者を増やす目的を持った弁論戦術ということである。よって正義とは本質的に好戦的な概念でもある。
戦わざるを得ない状況ならば、正義はきっちり作り込むべきだが、争いを避けたいならば正義の濫用は控えるべきである。相手の正義をも尊重する寛容さがお互いにあれば、争いごとは減るであろう。大事なことなので繰り返すが、《お互いに》である。どちらか一方が、ではない。
対立する正義の不毛な争いを解決するには、《いずれが正しい正義か》ではなく、共有できる目標設定が有効であろう。靖国での軍装コスプレ問題であれば、例えば《参拝文化の普及拡大》と置けばよい。「軍装コスプレはけしからん」vs「服装の自由は個人の権利」などとしたら解決できなくなる。
つまり、問題解決には正義を争うのではなく、利益を設定した方がよい。上述の《参拝文化の普及拡大》とは公共財でもある靖国神社あるいは日本国民にとっての利益拡大である。利益拡大の施策は複数あり得るし、それぞれ一長一短あり、かつ、複数の施策の並行実施が可能であることも多い。
まとめると、正義とは立場が異なれば違って当たり前である。また、正義とは人が底力を発揮するために、そして味方を増やし敵を挫くには有用だが、本来的に排他的かつ好戦的な概念である。従って、戦うに際しては十分に活用すべきだが、和をもって問題解決する手段としては適さない。
もっと砕いて言えば、正義の競争に入る前に、相手と敵対したいのか、それとも協調したいのかをまず先に決めて、敵対したいなら正義を振りかざせばいいし、協調したいなら正義を引っ込めるか控えめにした方がいい。正義を振りかざすとだいたい敵対することになる。