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生活保護は施しである

2014年07月20日 | 時事・雑文




私は、生活保護とは「施し」であると考える。


「施し」を辞書でひくと、「ほどこすこと。恵み与えること。施与。布施。」とある。

また「布施」を辞書でひくと、「他人に施し与えること。金品を与えることに限らず,教えを説き示すこと,恐れ不安を除いてやること,また広く社会福祉的活動を行うことをいう。仏教の基本的実践徳目。」とある。


生活保護法第一条の文言は次のとおり。

第一条  この法律は、日本国憲法第二十五条 に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。



日本国憲法第25条の文言は以下のとおり。

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。



私が、「生活保護は施しである」とするのは、法律論ではなく、道徳的または社会的価値観の領域での主張である。



事実を列挙する。

1)生活保護の給付金の原資は、国民からの税金である。
2)国民の同意があれば、憲法25条の改正も、生活保護法の廃止すらも可能である。
3)技術的には、生活保護制度を民営化して民間の保険サービスとしてしまうことも可能である。
4)生活保護は、現金給付でなくても食事付き貧困者専用住宅への収容といった現物サービスとすることも可能である。




生活保護不正受給の事件があっても生活保護制度の抜本的改革(廃止を含む)に至らないのは、国民の大多数がそれでも必要だろうと思っているからに過ぎない。

その意味において、受給者には「恐縮ですが、事情により給付をお願いできませんか」、そして原資を負担する国民には「さぞお困りでしょうから、差し上げましょう」という利他的な謙虚さや思いやりの精神がなければ生活保護制度は存続し得ない。

すなわち、生活保護制度とは、国民から経済的困窮者への思いやり(=施し)を国や自治体が業務代行しているに過ぎない。



この「生活保護は施し」論は、いわゆる「人権派」には大顰蹙らしい。私が、人権否定派に見えるのだろう。

曰く、「法律で規定されている正当な権利だ」と。

人権が、どこかから自然に湧いてくる権利だと思っているから、生活保護も国や自治体に要求できる正当な権利だ、という傲慢な価値観がまかり通る。

この考え方は、前記事の「利他人権説」に立脚している。
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/45df9f1a4c1098338dbf60677447ba79



しかし、そのような態度で、

「生活保護は権利だ。カネよこせ。」
「月25万では人並みの生活が出来ない。増額しろ。」
「生活保護費でパチンコして何が悪い。」


といった言動を続けていくと、いずれ国民も腹に据えかねて法改正や制度改正に至りかねない。そして、それは可能である。

現行法や現行制度がそのままになっているのは、国民的な思いやりの精神がまだ残っているからに過ぎない。

外国人への生活保護が対象外であるとの最高裁判決を歓迎し、外国人への給付を止めろ、との声が多く出るということは、この国民的思いやりが減ってきていることの証左でもある。



ゆえに、私は「生活保護は施しである」と思うのである。



蛇足だが、やたら「権利」を振りかざす人はモノゴトの全体像を把握する能力に欠けているのではないかと思うことが多い。

蛇口を捻れば水が出る。
水道局と契約しているのだから当然だ。
しかし、もっと遡れば、上水道設備が稼働しているからであり、さらにはそれは取水口となる河川に水があるからであり、さらにはそれは上流の山間部に降った雨が大地にしみてやがて川となって集まったからである。

蛇口のメカニズムと水道局との契約をいくら吟味しても、いつまでも水が流れてくるとは限らないのである。



(追記)

「生活保護は施しである」などと書くと、「おまえは『生活保護受給者は卑屈になって生きるべきだ』と言うのか」というような批判が出そうな気がするので、先回りして書いておく。

そうではない。「実は困っています」「大変でしたね、ではどうぞ」「ありがとうございます」という、思いやりと感謝の関係が生活保護制度を支えていると指摘しているだけである。

人生いろいろだし、困ったときはお互い様だから、「施し」とは書いたが、その立場は入れ替わることもある。

何かの立場が邪魔して「ありがとう」という気持ちすら持てないなら、そのような精神性こそが卑屈というものであろう。

それとも、感謝と卑屈の区別もつかないのかな?



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