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差別という価値判断の合理化

2015年09月09日 | 時事・雑文

あっちのブログに書いた記事の焼き直しだが、いつものように身も蓋もない考察をする。

(この記事で論じる「差別」とは個人レベルの主観的な価値判断、を指す)


結論から書くと、「差別」という行為は「価値判断の合理化」である。つまり、個々の対象を仔細に調査検討すれば、それぞれの可否が判断できるが、その手間をかけたくない場合は、他の事例から類推して上位属性でまとめて可否を判断してしまう、ということである。これが「差別」の正体。




ある人が、A社の製品a1を買って(使いやすい)(性能が良い)などと感じれば、十分に調べなくても「同じA社の商品なら製品a2も良いものに違いない」などと思いこんだりすることはあるだろう。

逆に、B社の製品b1を買って(すぐ壊れた)(性能が悪い)などにより不満を感じた場合、十分に調べなくても「同じB社の製品b2も良くないに違いない」などと敬遠したりすることはあるだろう。

ただし、それらの思い込みや決め付けは、実際に手間暇をかけて調べると無意味であるかもしれないし、統計的に有意な結果になるかもしれない。




ある人が、ネコの「たま」と遊んで(仲良くなれた)(なついてくれた)などと感じれば、他のネコを十分に調べなくても「だからネコは好き」などと結論を導き出したりすることはあるだろう。

逆に、犬のジョンと遊ぼうとして(吠えられた)(噛まれた)などのネガティブな体験がある場合、十分に調べなくても「だから犬は嫌い」などと結論を導き出したりすることはあるだろう。

ただし、それらの思い込みや決め付けは、実際に手間暇をかけて調べると無意味であるかもしれないし、統計的に有意な結果になるかもしれない。

そして、犬がちゃんとしゃべれたなら「犬にもいいヤツもいるので嫌わないでください」と異議申し立てするかもしれない。だが、そんな犬はいないので、「犬が嫌い」と公言したところで苦情が来ることはほとんどない。




ある人が、A国人の「AX氏」と付き合いがあって(誠実な人だ)(有能な人だ)などと感じれば、他の同国人を十分に調べなくても「だからA国人は好き」などと結論を導き出したりすることはあるだろう。

逆に、B国人の「BX氏」と付き合いがあって(粗暴な人だ)(無能な人だ)などと感じれば、他の同国人を十分に調べなくても「だからB国人は嫌い」などと結論を導き出したりすることはあるだろう。

ただし、それらの思い込みや決め付けは、実際に手間暇をかけて調べると無意味であるかもしれないし、統計的に有意な結果になるかもしれない。

そして、国籍や民族とは言わないが、大学名などを当てはめてみれば入社試験の書類審査などでは、この記事でいう「差別」に相当する合理化された価値判断が用いられているだろう。

また、(近所に引っ越してきた誰々さん)に対して、「付き合いをする」「しない」の判断には、上記のような合理化された価値判断が用いられていることも多いだろう。



以上が、この記事で指摘したい事実である。これらの事実認識に立たなければ適切な対策も教訓も出てこない。



つまり、人は「差別」に該当するような合理化された価値判断を日常的かつ無意識に行使しているということである。
そして、その判断対象が人の場合だけ「差別はいけませんよ」という話になっている。

ゆえに、

《人は日常的に「上位属性に基づく合理化された価値判断」をしているのだから、本質的に差別という問題は無くならない》

という結論を導き出すこともできるだろうし、逆に

そうであるから、

《個人に対する価値判断だけはよく吟味しなければならないし、その表現に用いる言葉も慎重に選ばないといけない》

という教訓を導き出しても良い。





蛇足ですが、上位属性が「ネトウヨ」や「サヨク」でも同じですからねー

あと、上位属性が変更可能かどうか、なんて議論には私は1ミリも同意しませんから。




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