政治的テーマや様々な主張を俯瞰して見ていると、ある類型があることに気づいた。
それは、「モノゴトの外を見て判断する人々」がいるということ。
「外」という意味は、外見というだけでなく、それにまつわる歴史的経緯とか関連する出来事などを含む。
これが全ての真実でもないが、ひとつの切り口。以下に事例を示す。
事例1:教育勅語
外を見て判断する人々=戦争につながったからダメ
中を見て判断する人々=いいことが書いてある
事例2:原発
外を見て判断する人々=福島で事故を起こしたからダメ
中を見て判断する人々=対策も安全確認もした
事例3:安倍総理
外を見て判断する人々=世襲議員、社会経験が〜、戦犯の〜
中を見て判断する人々=経済の立て直しと外交・安保で実績がある
事例4:軍隊(または自衛隊)
外を見て判断する人々=軍国主義が〜、また戦争になる
中を見て判断する人々=日本に必要な組織
事例5:人物評価
外を見て判断する人々=彼は◯◯だからダメ
中を見て判断する人々=この主張には同意する、あの主張には同意しない
事例6:オスプレイ
外を見て判断する人々=事故が多く危険〜、構造的欠陥が〜
中を見て判断する人々=配備されてからの事故率は低い
他にも探せば事例はいくらでも出てくるだろう。
外を見て判断するというのは、つまり中身の改善や変化は一切評価しないということ。例えば、次のような変化。
・原発事故後の安全対策
・安倍さんが特に第二次安倍政権から実績を積み上げてること
・オスプレイの開発段階から配備開始後の安全性(または事故率)
中身の改善や変化は一切評価しないということは、どこかにマイナス評価点があった場合には、その後の一切の名誉回復も評価も拒絶し、ダメというレッテルを貼る続けることに他ならない。
さらにいえば、「外を見て判断する人々」はレッテルを貼った段階で評価が完了してる、あるいはそれ以降は思考停止に見える。
・「アベは極右」
・「戦争法案」
・「オスプレイは欠陥機」
レッテルを連呼してる人というのは、もはや自分でモノゴトを判断することを放棄し、誰かが貼ったレッテルに乗っかってるだけのスピーカーでしかない。
これは自分で考えたり判断する能力はありませんと自白してるにも等しい。
連呼したレッテルの理由を問われて答えに窮する場面もよく見かける。自分で考えたこともないからそうなるのだろう。
従って、「外を見て判断する人々」の方が、実態は差別的であり、非寛容であり、排他的であることは疑いない。
それで、不思議なことは、差別反対とか人権が〜とか寛容性が〜とか普段主張してる陣営ほど、傾向として「外を見て判断する人々」であるということ。それどころか、彼らは異様にレッテル創作に励むように見える。
これは大いなる矛盾である。
(余談)
韓国人がモノゴトを判断するには、「正統性」が重要らしい。
私には、この「正統性」がなんなのかはさっぱりわからないが、モノゴトの中身を吟味しての評価ではないことだけはわかる。
貴方の書かれた文をいくつか読み、共感と納得をしました。
このブログには主張では無く、考察が書いてあり私自身の頭を整理するのに大変役立ちました。
私には大した頭は有りませんが、都合の良い話に惑わされず、中身を見て最良を導き出せる人間に成れるよう精進したいものです。