2022.09.03 4項に『南京の氷雨』からの引用追記
幕府山の峰の北方にある「燕子磯(燕子矶)」という場所で、武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとしたところを日本の陸海軍に殺害された、というような話がある。
結論から先に書くと、これは上流の下関周辺から燕子磯に漂着した大量の遺体と、周辺地域でのエピソードの断片を組み合わせた虚構の殺戮事案である。
《論旨》
1)中国が建立した「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に、「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子磯(燕子矶)に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。
2)その「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に対応した内容を、終戦直後の南京法廷で陳万禄氏が証言したという。
3)しかし、日本側は陸軍も海軍も燕子磯付近では特に大きな軍事行動をした形跡がない。
・燕子磯においては、幕府山砲台の占領命令を受けた歩兵第65連隊第5中隊120名が陥落翌日の14日未明に付近を駆け抜けたのみ。
・煤炭港(下関のすぐ北側)では陥落日に33連隊が江上を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、燕子磯からは8km以上離れている。
・38連隊は下関で江上を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、燕子磯からは約10km離れている。
・さらに上流の新河鎮付近での戦闘では45連隊が渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、砲撃水域で見ても燕子磯からは約13km離れている。
・日本海軍艦艇は陥落日には八卦洲北側の揚子江本流(当時)を通っているので、支流側である燕子磯の前を通っていない。翌14日と15日には、燕子磯前を含む支流側を砲艦「二見」などが啓開作業をしているが、戦闘行動は主に八卦洲側に対してであり、燕子磯を含む南岸側に対しては大きな軍事行動をした様子がない。
・陳万禄氏の証言に関連して、燕子磯を日本軍機が爆撃し掃射したという話が中国側文献にあるが、そのような事実はない。海軍航空隊が陥落日に爆撃したのは、烏龍山砲台に対してである。
・さらに、陳万禄氏の証言に関連して、難民を砂洲に囲い込んで機関銃で射撃という話が中国側文献にあるが、これに酷似した事案は12月17日の「幕府山事件」である。幕府山事件(草鞋峡)の現場は、燕子磯の上流約3.5km。
・煤炭港(下関のすぐ北側)では陥落日に33連隊が江上を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、燕子磯からは8km以上離れている。
・38連隊は下関で江上を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、燕子磯からは約10km離れている。
・さらに上流の新河鎮付近での戦闘では45連隊が渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているが、砲撃水域で見ても燕子磯からは約13km離れている。
・日本海軍艦艇は陥落日には八卦洲北側の揚子江本流(当時)を通っているので、支流側である燕子磯の前を通っていない。翌14日と15日には、燕子磯前を含む支流側を砲艦「二見」などが啓開作業をしているが、戦闘行動は主に八卦洲側に対してであり、燕子磯を含む南岸側に対しては大きな軍事行動をした様子がない。
・陳万禄氏の証言に関連して、燕子磯を日本軍機が爆撃し掃射したという話が中国側文献にあるが、そのような事実はない。海軍航空隊が陥落日に爆撃したのは、烏龍山砲台に対してである。
・さらに、陳万禄氏の証言に関連して、難民を砂洲に囲い込んで機関銃で射撃という話が中国側文献にあるが、これに酷似した事案は12月17日の「幕府山事件」である。幕府山事件(草鞋峡)の現場は、燕子磯の上流約3.5km。
4)燕子磯が面している揚子江支流は連続して曲がりくねっていて、燕子磯は浮遊遺体が漂着しやすい地形になっている。
5)結論的推測としては、本件は南京陥落後に上流から燕子磯に漂着した大量の遺体の目撃談と、周辺地域での敗走兵追撃戦および幕府山事件などの断片情報を組み合わせた虚構の殺戮事案であると思われる。
《1. 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑》
以下の No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑に「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子矶に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。燕子磯という場所は幕府山の峰の北端にあたる。日付は明記されていないが、日本船に渡河を阻まれたという話になっているので、陥落日(12月13日)の出来事と思われる。
No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑
碑文:一九三七年十二月,侵华日军陷城之初,南京难民如潮,相继出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民,避聚于燕子矶江滩,求渡北逃。讵料遭日舰封锁所阻,旋受大队日军之包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫!其时,尸横荒滩,血染江流,罹难之众,情状之惨,乃世所罕见,追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,永志不忘。庶使昔之死者,藉慰九泉;后之生者,汲鉴既往,奋发图强,振兴中华,维护世界之和平。
訳文:1937年12月、日本軍の侵攻が始まると南京の難民は潮のように次々と逃げていった。武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。何という悲劇か! 当時、荒れ果てた岸辺には死体が散乱し、河は血に染まり、犠牲者の数と悲惨な状況は世界でも類を見ないものでした。私はここにこの記念碑を建立します、決して忘れないように。この記念碑を建立して、過去に亡くなった人たちの記憶を慰め、未来に生きる人たちが過去から学び、自らを強くし、中国を活性化させ、世界平和を維持するために努力したいと思います。
碑文:一九三七年十二月,侵华日军陷城之初,南京难民如潮,相继出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民,避聚于燕子矶江滩,求渡北逃。讵料遭日舰封锁所阻,旋受大队日军之包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫!其时,尸横荒滩,血染江流,罹难之众,情状之惨,乃世所罕见,追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,永志不忘。庶使昔之死者,藉慰九泉;后之生者,汲鉴既往,奋发图强,振兴中华,维护世界之和平。
訳文:1937年12月、日本軍の侵攻が始まると南京の難民は潮のように次々と逃げていった。武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。何という悲劇か! 当時、荒れ果てた岸辺には死体が散乱し、河は血に染まり、犠牲者の数と悲惨な状況は世界でも類を見ないものでした。私はここにこの記念碑を建立します、決して忘れないように。この記念碑を建立して、過去に亡くなった人たちの記憶を慰め、未来に生きる人たちが過去から学び、自らを強くし、中国を活性化させ、世界平和を維持するために努力したいと思います。
《2. 陳万禄氏の証言》
また、前項の「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に対応した内容を、終戦直後の南京法廷で陳万禄氏が証言したという。
燕子磯江辺の集団大虐殺
日本軍が南京に入城した時、五万人余の難民と武装を解いた兵士が燕子磯の長江江辺まで逃げて来ており、そこから長江を渡って江北へ避難できればと願ったのだが、誰知ろう、この時燕子磯一帯はすでに敵軍艦の支配下にあったのである。敵機も絶え間なく江岸に向かって爆撃と掃射をおこない、難民たちは四方に逃げ散った。思いもかけず、南京城を陥落させた敵軍が雲霞の如く押し寄せ、ただちに難民を砂洲中に囲い込み、そののち数十挺の機関銃を設置し、気違いのように掃射したため、五万人余の無幸の同胞はすべて殺害された。大部分の死体が川面を漂い、血が大いなる長江を赤く染めた。証人の陳万禄は証言(=南京法廷での第6師団長・谷寿夫中将裁判)の中でこう述べている。「燕子磯の砂洲でわが無幸の一般民と武装を解いた兵士五万人以上が虐殺されました。」この惨劇の中で殺害された武装を解いた兵士は三万人以上であった。
(『証言・南京大虐殺―戦争とはなにか』 / 南京市文史資料研究会)
日本軍が南京に入城した時、五万人余の難民と武装を解いた兵士が燕子磯の長江江辺まで逃げて来ており、そこから長江を渡って江北へ避難できればと願ったのだが、誰知ろう、この時燕子磯一帯はすでに敵軍艦の支配下にあったのである。敵機も絶え間なく江岸に向かって爆撃と掃射をおこない、難民たちは四方に逃げ散った。思いもかけず、南京城を陥落させた敵軍が雲霞の如く押し寄せ、ただちに難民を砂洲中に囲い込み、そののち数十挺の機関銃を設置し、気違いのように掃射したため、五万人余の無幸の同胞はすべて殺害された。大部分の死体が川面を漂い、血が大いなる長江を赤く染めた。証人の陳万禄は証言(=南京法廷での第6師団長・谷寿夫中将裁判)の中でこう述べている。「燕子磯の砂洲でわが無幸の一般民と武装を解いた兵士五万人以上が虐殺されました。」この惨劇の中で殺害された武装を解いた兵士は三万人以上であった。
(『証言・南京大虐殺―戦争とはなにか』 / 南京市文史資料研究会)
なお、上の文献ではどこまでが陳万禄氏の証言に依拠しているのか読み取り不能だが、この記事では上の引用文全体を「陳万禄氏の証言に関連した話」として扱う。
《3. 日本軍の記録》
前項の事案に関連しそうな日本軍の記録を見てみる。
(陸軍その1/第65連隊)
会津若松・歩兵第65連隊を扱った『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社 / 1964年)から画像で引用するが、図中の「5中隊」と書かれている位置が燕子磯に当たる。
65連隊(正確には図中右下の3部隊を合わせて山田支隊)の本隊は平地を通ったようだが、第1大隊が烏龍山砲台を占領したのに続いて、第5中隊の120名が幕府山砲台の占領を命じられ、燕子磯付近を通過して幕府山に入った。
引用画像の文面でも伝わると思うが、戦意を喪失した敵の大部隊に何度も遭遇し、当初は捕虜にすべく武器を捨てさせ縛り上げるなどしていたものの、そのような作業をしていたら目的の幕府山砲台の占領がままならないので、途中からは武器を捨てさせるだけで置き去りにしたり、あるいはそれすら諦め、脅かしながら敵中を一気に駆け抜けるなどして幕府山砲台に突撃した話が載っている。
なお、図の日付は他の史料と照合すると1日ずれていて、全て1日前が正解と思われる。
また、同じ場面を『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』(福島民友新聞社 / 1982年 )で見ると、戦意を喪失した敵の大部隊に遭遇したのは第5中隊だけでなく、本隊も同様だったようである。結果的には、これが幕府山事件の1.5万とも言われる規模の捕虜となる。
若松連隊に投降兵
南京の城内には、すでに日本軍が次々になだれ込んでいた。守るべき首都を失った中国軍は、まだ日本軍の包囲網の手が届いていない幕府山方面へと、なだれを打つように敗走した。おそらく揚子江を渡って対岸へ逃げるつもりだったらしい。ところが、そこへ若松歩兵六十五連隊が進出していた。
昭和十二年十二月十四日未明、兵力二千二百余(山砲兵十九連隊など配属)の若松連隊は、その中国兵の大軍のウズのなかにはまり込んでいた。彼らはすでに統率を失い、武装はしていても戦意はないようだった。最初のうちは一人ずつ捕えてはみたが、それをしていると捕虜だけで自分の連隊の二倍から三倍もの数になってしまうに違いない。結局は「武器を捨てなさい」という形で彼ら自身に川などに小銃を捨てさせ、その大軍のなかを進む形となった。
このころ幕府山砲台の攻略に向かった角田栄一中尉(郡山市富久山町小泉)の第五中隊は、砲台の入り口にある鳩三鎮付近から、やはり思いがけない中国兵の大軍のなかにはまり込んでいた。 角田中尉は次のように回想する。
「あの日のことは忘れられない。私たちは百二十人で幕府山へ向かったが、細い月が出ており、その月明のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。
私はすぐ “戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのなら・・・と度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。近づいたら大あばれするだけだと思ったからです。クソ度胸というものでしょう。ところが、近づいてきた彼らに、機関銃を発射したとたん、みんなが手をあげて降参してしまったのです。武装はしていたものの、すでに戦意を失っていた彼らだったのです」
「武装解除をして次々に捕える。一人で五人も六人も捕えてしまい、とても手に負えなくなった。こんなに捕虜を連れて歩いては幕府山砲台の攻略どころではない。次々にぶつかる中国兵に対し、私たちは彼らに武器を石だたみの道に強く投げさせ、また川に投げさせて進むほかはなくなった。とまあ、こんな形で午前十時ごろ、ともかく幕府山の頂上にある砲台にたどり着いた。さすが砲台に残っていた中国兵は戦意があり、私たちは激しい撃ち合いのすえ、ついに砲台の監視所を占領し、友軍に占領を知らせるため日の丸の旗をたてたのです」
同じ中隊で幕府山の攻撃隊に加わっていた樋口藤吉上等兵(保原町二丁目)も次のように回想する。
「私たちは百二十人しかいない。それなのに中国兵がうようよするなかを前進する。それは非常に心細いことでした。彼らは武装している。抵抗する気配はみせていないが、なにかあればどう暴発するかわからない。最初は捕虜として何人かずつを捕え、それらを連れて前進していたが、どんどん捕虜がふえてくるため "解放しよう″と彼らを自由にしてやった。そして新しい中国兵にぷつかると“武器だけは投げさせろ”ということで武装解除をしながら進んだ。それにしても、あれだけの中国兵の大軍のなかを進むのは、ほんとに勇気のいる幕府山進撃でした」
結局は第五中隊は「幕府山だけで約三千人の武装解除はしただろう」と関係者は回想する。
(『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』/福島民友新聞社)
南京の城内には、すでに日本軍が次々になだれ込んでいた。守るべき首都を失った中国軍は、まだ日本軍の包囲網の手が届いていない幕府山方面へと、なだれを打つように敗走した。おそらく揚子江を渡って対岸へ逃げるつもりだったらしい。ところが、そこへ若松歩兵六十五連隊が進出していた。
昭和十二年十二月十四日未明、兵力二千二百余(山砲兵十九連隊など配属)の若松連隊は、その中国兵の大軍のウズのなかにはまり込んでいた。彼らはすでに統率を失い、武装はしていても戦意はないようだった。最初のうちは一人ずつ捕えてはみたが、それをしていると捕虜だけで自分の連隊の二倍から三倍もの数になってしまうに違いない。結局は「武器を捨てなさい」という形で彼ら自身に川などに小銃を捨てさせ、その大軍のなかを進む形となった。
このころ幕府山砲台の攻略に向かった角田栄一中尉(郡山市富久山町小泉)の第五中隊は、砲台の入り口にある鳩三鎮付近から、やはり思いがけない中国兵の大軍のなかにはまり込んでいた。 角田中尉は次のように回想する。
「あの日のことは忘れられない。私たちは百二十人で幕府山へ向かったが、細い月が出ており、その月明のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。
私はすぐ “戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのなら・・・と度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。近づいたら大あばれするだけだと思ったからです。クソ度胸というものでしょう。ところが、近づいてきた彼らに、機関銃を発射したとたん、みんなが手をあげて降参してしまったのです。武装はしていたものの、すでに戦意を失っていた彼らだったのです」
「武装解除をして次々に捕える。一人で五人も六人も捕えてしまい、とても手に負えなくなった。こんなに捕虜を連れて歩いては幕府山砲台の攻略どころではない。次々にぶつかる中国兵に対し、私たちは彼らに武器を石だたみの道に強く投げさせ、また川に投げさせて進むほかはなくなった。とまあ、こんな形で午前十時ごろ、ともかく幕府山の頂上にある砲台にたどり着いた。さすが砲台に残っていた中国兵は戦意があり、私たちは激しい撃ち合いのすえ、ついに砲台の監視所を占領し、友軍に占領を知らせるため日の丸の旗をたてたのです」
同じ中隊で幕府山の攻撃隊に加わっていた樋口藤吉上等兵(保原町二丁目)も次のように回想する。
「私たちは百二十人しかいない。それなのに中国兵がうようよするなかを前進する。それは非常に心細いことでした。彼らは武装している。抵抗する気配はみせていないが、なにかあればどう暴発するかわからない。最初は捕虜として何人かずつを捕え、それらを連れて前進していたが、どんどん捕虜がふえてくるため "解放しよう″と彼らを自由にしてやった。そして新しい中国兵にぷつかると“武器だけは投げさせろ”ということで武装解除をしながら進んだ。それにしても、あれだけの中国兵の大軍のなかを進むのは、ほんとに勇気のいる幕府山進撃でした」
結局は第五中隊は「幕府山だけで約三千人の武装解除はしただろう」と関係者は回想する。
(『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』/福島民友新聞社)
以上からわかるように、65連隊第5中隊の120名は13日夜に本隊から別れて翌14日の未明に燕子磯付近を駆け抜けて午前10時頃には幕府山砲台に突入しているので、万単位の大殺戮をやったというような時間的余裕があるはずもない。そのような兵力もない。
なお、南京に侵攻した各陸軍部隊はそれぞれ侵攻ルートと担当区域が決まっていて、揚子江南岸に沿って烏龍山〜幕府山〜南京城へと侵攻したのは山田支隊(65連隊他)のみである。
(陸軍その2/第33連隊)
場所は異なるが煤炭港(下関のすぐ北側)で、歩兵33連隊が揚子江を渡河脱出する敗走兵を銃砲撃しているので、戦闘詳報から抜粋する。日時は陥落日(12月13日)の14時半〜15時半頃のことである。ただし、燕子磯から煤炭港までは直線で8km以上離れている。
午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す
一、日時 自昭和十二年十二月十三日午前十時十分
至同 午後四時三十分
二、戦闘前彼我形勢の概要
1. (紫金山の話、略)
2. (天文台の話、略)
3. 午後三時埠頭に達するや民船を利用して逃走中の敵あるを知る
三、敵の兵力
民船を利用して揚子江を逃走中の敵は千名を下らざるべし
四、陣地進入および射撃
直に駈歩(かけあし)を以って江岸に追求し小型民船筏によるものはMG(=機関銃)および小銃隊に一任し大型発動船二隻(各々五六十名搭載)を発見し之を射撃し一隻を撃沈し他一隻に殲滅的打撃を與へたり 時に午後三時三十分なり
至同 午後四時三十分
二、戦闘前彼我形勢の概要
1. (紫金山の話、略)
2. (天文台の話、略)
3. 午後三時埠頭に達するや民船を利用して逃走中の敵あるを知る
三、敵の兵力
民船を利用して揚子江を逃走中の敵は千名を下らざるべし
四、陣地進入および射撃
直に駈歩(かけあし)を以って江岸に追求し小型民船筏によるものはMG(=機関銃)および小銃隊に一任し大型発動船二隻(各々五六十名搭載)を発見し之を射撃し一隻を撃沈し他一隻に殲滅的打撃を與へたり 時に午後三時三十分なり
(陸軍その3/第38連隊)
38連隊も陥落日に下関に突入し、揚子江を渡河脱出する敗走兵を攻撃している。
南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門その他に於いて頑強に抵抗せしも各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方向に退却を開始せしも前衛は先独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる追撃を行い午前(午後が正解と思われる)一時四十分頃渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ次いで主力を以って午後三時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも五百名を掃蕩し竭せり
(陸軍その4/第45連隊)
45連隊は南から下関に向かって北上中に、南京城から南西方向に脱出しようとしていた敗走兵約1.5万の集団と衝突した。この集団は45連隊との激しい銃撃戦の末に向きを変えて揚子江を渡河脱出しようとし、45連隊はこれを江上にて砲撃した。渡河脱出の時間帯は陥落日の正午前後。
その戦闘に参加していた独立山砲兵第二聯隊本部附・高橋義彦中尉は、「わが砲撃で戦死した者、推定7000人」と試算した。
詳細は次の記事を参照。
(陸軍その5/第7連隊)
これは陥落日の出来事ではないが、陥落後の主に12月14〜16日において城内安全区の掃討を行った第7連隊が、安全区から摘出した便衣の敗残兵を下関埠頭周辺にて処刑している。7連隊戦闘詳報によれば、「刺射殺数(敗残兵)6,670」とある。(『南京戦史資料集 I 』)
(海軍)
海軍については次の記事に考察したので、要点のみ示す。
(a) 揚子江を渡河脱出する敗走兵を海軍艦艇が江上で攻撃したのは、主に陥落日(12月13日)で、場所は烏龍山砲台周辺から八卦洲(草鞋洲)の北回りで下関付近までである。燕子磯が面する支流側は狭くかつ掃海作業が終わっていないので通過していない。
(b) 翌14日から砲艦「二見」と「熱海」が草鞋峡(八卦洲の南側支流)を、啓開作業している。(「熱海」の詳細行動は不明)
(c) 砲艦「二見」の航泊日誌を見ると14日には掃海作業の前に戦闘行動をしているが、攻撃目標は八卦洲(草鞋洲)に対してであり、燕子磯がある南岸側に何かをした様子がない。航泊日誌からごく一部だけ抜粋する。
(12月14日)
0805「草鞋洲の残敵掃蕩のため」陸戦隊用意(内火艇で出航し、30分程度で帰艦)
0935「草鞋洲ビーコン付近にて敵敗残兵多数を認め砲銃撃○滅す」
0805「草鞋洲の残敵掃蕩のため」陸戦隊用意(内火艇で出航し、30分程度で帰艦)
0935「草鞋洲ビーコン付近にて敵敗残兵多数を認め砲銃撃○滅す」
(d) 15日の砲艦「二見」は午後から実質1時間15分程度、草鞋峡(八卦洲の南側支流)で掃海作業をしている。あと、陸戦隊の一部を派遣し陸岸の浮舟を臨検というのはあるが、射撃も含めて戦闘行動は特に見当たらない。
なお、砲艦「二見」は定員54名の比較的小さい河川用の軍艦であり、乗艦していた陸戦隊の人員数も限られている。
(e) 2項の陳万禄氏の証言に関連した話として、燕子磯において「敵機も絶え間なく江岸に向かって爆撃と掃射をおこない」とあるが、そのような事実は確認できない。海軍航空隊が陥落日に爆撃したのは、烏龍山砲台に対してである。上記の記事「南京遡江艦隊の航路」の9項を参照。
(幕府山事件)
さらに、陳万禄氏の証言に関連して、難民を砂洲に囲い込んで機関銃で射撃という話が中国側文献にあるが、これに酷似した事案は12月17日の「幕府山事件」である。幕府山事件(草鞋峡)の現場は、燕子磯の上流約3.5km。
その幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。
第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。
(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』/防衛庁防衛研究所戦史室 著)
(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』/防衛庁防衛研究所戦史室 著)
ここではその詳細には踏み込まないが、関連記事は以下。
以上、陸海軍の記録を見ても、「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」にあるような、燕子磯付近で「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとしたところを…」というような規模で日本軍が何かをした形跡が見当たらない。
《4. 地形的・物理的特性》
燕子磯が面している揚子江支流は連続して曲がりくねっていて、特に燕子磯付近は浮遊遺体が漂着しやすい地形になっている。詳細は次の記事の6項にて考察した。
簡単に要点だけ示す。
・揚子江は「感潮河川」であり、潮汐の影響で水位が上下動する。南京においては、冬季には短時間の逆流もあるという。
・流体工学によれば、連続して曲がる川においては、曲がりの内側下流部分に堆積するという。
・すなわち、南京戦で揚子江に流れた大量の遺体が、潮汐の影響と地形的な理由から、燕子磯などの河岸付近を往復しながら長期間滞留していたと推測。
・流体工学によれば、連続して曲がる川においては、曲がりの内側下流部分に堆積するという。
・すなわち、南京戦で揚子江に流れた大量の遺体が、潮汐の影響と地形的な理由から、燕子磯などの河岸付近を往復しながら長期間滞留していたと推測。
ちなみに、これが1944年頃にヘッダ・モリソン氏が撮影した燕子磯であろうと思われる場所の写真である。南京周辺でこのように岩場が河に突出している場所は他にほとんどない。地図と照合しても地形的に合致している。その場合、左上の一番奥に霞んで見える高台が烏龍山ということになる。
そして、この岩場の下に船が溜まっているというのは、つまりここなら下流に流されていかないという地形的理由があるからと思われる。同じ理由から、大量の浮遊遺体があればここに溜まるはず。
なお、冒頭の地図でも燕子磯の岩場のすぐ東側から点線で示される航路が対岸の八卦洲(草鞋洲)に伸びている。つまり、燕子磯はまさにこの写真のように八卦洲(草鞋洲)への渡し舟の船着場だったのである。
(撮影:ヘッダ・モリソン)
傍証として、「国民党の教導総隊第三大隊本部の勤務兵」であった唐光譜氏が陥落日に下関から脱出した際に、燕子磯から渡河しようとして失敗した話を書いているので引用する。
燕子磯の町に着くと、すでに人影は一つも見えなかった。私たちは厚い肉切り板を探しだし、二人であらん限りの力を出してやっと河辺まで運び、水中に引き入れそれに掴まって河の北まで渡ろうとした。 私たちは一生懸命やって精根つきはてたが、依然南岸に漂っていた。仕方なくまた燕子磯に戻った。
(唐光譜/私が体験した日本軍の南京大虐殺/『南京事件資料集 [2]中国関係資料編』)
(唐光譜/私が体験した日本軍の南京大虐殺/『南京事件資料集 [2]中国関係資料編』)
燕子磯から北岸(=八卦洲)に渡河するのは、水流の関係で困難なのである。動力源がなければ唐光譜氏のように南岸に漂うしかない。
そうすると、上のヘッダ・モリソン撮影の写真にある船が帆船である理由もわかる。北への渡河時には風力などの助けがなければ、燕子磯からは渡河できないのである。
そういった状況証拠から見ても、大量の浮遊遺体が燕子磯に漂着していたと思われる。
『南京の氷雨』にも著者の阿部輝郎氏が幕府山事件の現地調査をした際に、地元の人から漂着遺体の話を聞いたとある。
観音門というのは燕子磯付近の地名である。
「やあ、こんなところへ、なにしにやってきたのかね。うっかり歩くと、このあたり骨が出るって話だがね」
いつの間にか釣をしていた人が、私についてきていたのだった。
「骨が出るって?」
「もちろん今は出ないが、昔、このあたりから人骨が出たというんだ。日本軍の、例の南京大屠殺でね、われわれの同胞がたくさん殺されたという話だ」
「ここの場所がそうですか」
「いや、ここというわけじゃなくて、このあたりの江岸全般に......ということらしいがね。波が来るところの砂洲の上には、どこにも死体がたくさん漂着したという。釣をしていると、骨がかかるんじゃないか、なんていう人もいるからね」
林とその人は名乗った。五十歳ぐらいの男の人だった。
「流した死体は、こうした入江みたいなところに流れの関係で漂着したらしいんだ。観音門― ほら、あのあたりで川が湾曲しているんで、あのあたりが多かったらしい」
いつの間にか釣をしていた人が、私についてきていたのだった。
「骨が出るって?」
「もちろん今は出ないが、昔、このあたりから人骨が出たというんだ。日本軍の、例の南京大屠殺でね、われわれの同胞がたくさん殺されたという話だ」
「ここの場所がそうですか」
「いや、ここというわけじゃなくて、このあたりの江岸全般に......ということらしいがね。波が来るところの砂洲の上には、どこにも死体がたくさん漂着したという。釣をしていると、骨がかかるんじゃないか、なんていう人もいるからね」
林とその人は名乗った。五十歳ぐらいの男の人だった。
「流した死体は、こうした入江みたいなところに流れの関係で漂着したらしいんだ。観音門― ほら、あのあたりで川が湾曲しているんで、あのあたりが多かったらしい」
南京の氷雨―虐殺の構造を追って 阿部 輝郎
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《5. 燕子磯“5万殺戮”はパーツの寄せ集め》
結論的推測としては、本件の燕子磯“5万殺戮”事案とは、以下のような燕子磯に漂着した大量の遺体の目撃談と、周辺地域における断片情報を組み合わせた虚構の殺戮事案であると思われる。
(燕子磯における事実)
・日本軍による大規模な殺戮事案の形跡なし。
・陥落日に燕子磯に人影なし。(前項の唐光譜氏)
・陥落後に燕子磯付近に大量の遺体が漂着。
(周辺地域での断片情報)
・日本陸軍による下関付近での江上敗走兵への銃砲撃。
・日本海軍艦艇による江上敗走兵への銃砲撃。(場所は、烏龍山砲台付近から八卦洲北回りで下関付近まで)
・海軍航空隊による烏龍山砲台への爆撃。
・幕府山事件の特に草鞋峡の現場における、捕虜を河岸に囲い込んでの機関銃による射撃という事実。
・日本軍による大規模な殺戮事案の形跡なし。
・陥落日に燕子磯に人影なし。(前項の唐光譜氏)
・陥落後に燕子磯付近に大量の遺体が漂着。
(周辺地域での断片情報)
・日本陸軍による下関付近での江上敗走兵への銃砲撃。
・日本海軍艦艇による江上敗走兵への銃砲撃。(場所は、烏龍山砲台付近から八卦洲北回りで下関付近まで)
・海軍航空隊による烏龍山砲台への爆撃。
・幕府山事件の特に草鞋峡の現場における、捕虜を河岸に囲い込んでの機関銃による射撃という事実。
ちなみに、冒頭の図での中国側敗走兵に対する江上での撃滅数その他を集計すると、幕府山事件の犠牲者数は不明瞭なので除外するとしても、合計2万を超える。
・2千(33連隊)
・6千(38連隊)
・7千(45連隊)
・7千(7連隊、安全区から摘出した敗残兵の処断)
・3千(海軍、陥落日における撃滅数を江上と地上合わせて1万と言っているが下関〜浦口間の江上に限定して3千と仮定)
・6千(38連隊)
・7千(45連隊)
・7千(7連隊、安全区から摘出した敗残兵の処断)
・3千(海軍、陥落日における撃滅数を江上と地上合わせて1万と言っているが下関〜浦口間の江上に限定して3千と仮定)
したがって、燕子磯においてある時期に万を超える遺体が浮遊・漂着していたとしても何ら不思議ではない。その情景を目撃した人が、ここで何があったのかと様々な噂話をすることも容易に想像できる。
よって、この燕子磯の“5万殺戮”事案が、特定の組織によって情報戦(あるいは謀略戦)の一環として狙って作り出されたものとは考えづらい。
燕子磯の“5万殺戮”事案の初出は不明だが、ヴォートリンが1938年2月16日の日記に又聞きの話として、燕子磯で「二万人ないし三万人」が殺害されたという話を書いている。時期からすると、燕子磯での漂着遺体の目撃談から派生したものと思われる。
新型コロナウイルスパンデミックや2020アメリカ大統領選において、中国人界隈が虚実ない交ぜの未確認情報を拙速かつ大量に発信していた様子を見ると、あれが有事における彼らの情報の回し方なのかもしれないとも感じる。
新型コロナウイルスパンデミックや2020アメリカ大統領選において、中国人界隈が虚実ない交ぜの未確認情報を拙速かつ大量に発信していた様子を見ると、あれが有事における彼らの情報の回し方なのかもしれないとも感じる。
しかし、1項に挙げた「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」の建立は1985年8月であり、その他の纪念碑の大半も80年代以降に建立されていることから、各纪念碑の碑文に記された犠牲者数の合計をもって「30万大虐殺」を固定化しようという中国共産党政権の偽計は明白である。
そして、この記事の考察からもわかるように、実態のない数字を「30万」の内訳として積み上げているのである。
《改版履歴》
2021.03.03 新規:別記事「揚子江上の5万」から分離独立
2021.03.10 4項に唐光譜氏を追記
2022.09.03 4項に『南京の氷雨』からの引用追記
《関連記事》
★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531
《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6
《南京事件》揚子江上の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/90096bf70becf60c0b713aa40a2ee52c
以上。