最終更新:2017.12.24
改版前のこの記事で「和記洋行工廠での殺戮」としていた事件は、中国の「侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑」が示している虐殺事件である。
以下では便宜的に「煤炭港虐殺」と呼ぶことにする。
結論から先に書くが、この煤炭港虐殺は捏造と断定する。
《煤炭港虐殺の概要》
・12月14日、日本軍が数千人の難民の中から2,800人の若者を連行し、煤炭港の倉庫に監禁。
・3日後の17日朝、8時頃から十人ずつ岸辺に連行して銃殺。
・夕方までかかってまだ残っていた6〜700人を河口まで連行して機関銃で射殺。
・逃げて生き残った陳徳貴が証言。
《捏造と断定した要点》
・虐殺が行われたまさにその同じ日時と場所に砲艦「比良」が停泊中。
・虐殺は入城式の当日。出席した艦長が下艦時に虐殺現場を目撃していそうな時間帯。
・虐殺犠牲者数は、難民収容所の難民の約40%に相当。
・収容所世話役の陳漢森らは、虐殺直後から比良乗組員による街の復旧作業等に協力。
・虐殺から2週間後の元旦に比良が支援物資を搬入すると陳漢森らは爆竹を鳴らして歓迎&礼状。
・以後、終戦まで陳漢森は土井艦長と手紙のやりとり。
・砲艦比良艦長・土井中佐は何ら虐殺事件を認識していない。
・陳漢森が率いる紅卍字会の者たちが南京全域の遺体埋葬作業をしていたのに、この虐殺の話が安全区国際員会に伝わっていない。
※虐殺証言者の一人の「陳徳貴」と、紅卍字会代表にして難民収容所の世話役だった「陳漢森」は別人なので注意。
《“煤炭港虐殺”事件の場所》
南京城北端の挹江門を出たあたり一帯を下関というが、虐殺現場はその下関の少し北。
和記洋行工廠(和記公司)というのは、地名としては宝塔橋街と呼ばれる区画にあった軍需工場。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/32/89da6b4a41d6d553ef4b7f12ef1bc686.png)
虐殺現場は、煤炭港。名前の通り、石炭の積み下ろし用港湾設備だったのだろう。周囲に鉄道の引込線がある。
そのすぐ東隣(揚子江でいうと下流側)に、「比良」が停泊した中興碼頭がある。
煤炭港の倉庫に閉じ込められていた人々が、連行されてすぐに射殺された岸辺とは、中興碼頭の至近距離になる。100mもあるかどうか。砲艦比良の全長が56m。比良乗組員が気づかないわけがない場所。
本当に煤炭港で2,800人も射殺していたら、至近距離の下流にいた砲艦比良は浮遊する無数の射殺体に取り囲まれていただろうし、停泊中の艦体も血で染まっただろう。そんな出来事を誰も話題にしないはずがない。
《時系列の整理から見た考察》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/a8/1880d02222029202285b9de6c461b27d.png)
艦長・土井中佐の証言によれば、砲艦「比良」は入城式の前日または前々日に中興碼頭に接岸している。
その時、2,800人の若者は、既に煤炭港の倉庫に監禁されていた。
17日の朝8時頃から、岸辺で射殺(虐殺)開始。
その日の13時からは入城式。中興碼頭付近から、入城式が行われた中山門までは、下関〜挹江門から城内に入るルートで約15km。クルマで1時間未満の距離。艦長という軍幹部の入城だから、当然クルマでの送迎があっただろう。
土井艦長の下艦時刻は不明だが、少し早めに行って陸軍幹部と顔合わせして昼食を共にするとしても、10時に下艦で間に合うくらい。
もし9時とか10時頃下艦なら確実に“煤炭港虐殺”を目撃しているはず。
土井艦長は入場式の時に、近藤英次郎司令官から宝塔橋街の整備・治安活動の許可を得た。土井艦長本人は、26日まで城内にいたようだが、せっかくの許可を10日間も放置することは考えられないので、直ちに砲艦比良乗組員に対して宝塔橋街復興活動への協力を指示したと思われる。
そうすると、“煤炭港虐殺”事件の翌日くらいから、仲間の40%くらいを虐殺された生き残りの難民達と、それをまとめる陳漢森らが、虐殺の犯人たる日本軍の別の部隊(比良乗組員)と街の復旧や治安回復活動、あるいは遺体の埋葬作業に従事し、さらには街の名を宝塔橋街から「平和街」に改称した、ということになる。
さらには、その“煤炭港虐殺”事件の2週間後の元旦には、再び「比良」が医療品や食料等の支援物資を運んで中興碼頭に接岸し、これを出迎えた陳漢森と市民らが爆竹を鳴らして歓迎し、翌日には礼状と領収書を土井艦長に渡し、その後もまた改めて礼状を送り、終戦まで陳漢森と土井艦長の間で手紙のやりとりまでしたという。
ちなみに、虐殺されたのは若者とのことだから、虐殺の生き残り難民の中には虐殺犠牲者の父母や姉妹、子供達もいたはず。その人達が、虐殺犯らが目の前にいるにも関わらず、逃げ出したり報復したりするでもなく、比較的親身な比良艦長・土井中佐に虐殺について苦情を言うでもなく、賠償を求めるでもなく、医療品や食料ごときをもらって喜ぶというのはもはや人としてありえない。
さらにもうひとつ。この“煤炭港虐殺”事件で、2,800人もの難民を虐殺されたとする保国寺難民収容所の主任が、紅卍字会の陳漢森だが、彼こそが日本軍から遺体の埋葬事業を一任で請け負っていた人物である。つまり、彼の配下の者が南京全域に散って作業を行っている。それにもかかわらず、彼の足元で2,800人も虐殺された事件の話が、安全区国際委員会の耳に届かないはずがない。しかし、「南京安全地帯の記録」にそのような記録はない。
よって、この“煤炭港虐殺”は捏造と断定する。
《“煤炭港虐殺”事件の真相》
“太平門虐殺”もそうだが、全くの「無」から虐殺事件が創作されることはない。何かある。
そう思って、土井艦長のインタビューを読みなおすと、こういう発言がある。
ここは私の完全な勘でしかないが、この《盗みに入った者を射殺した=死体が十数体》が非常に臭い感じがする。
なお、同じ話にも見える別の記述もあった。場所が定かではないが、「暫く倉庫に拘留」かつ河岸での出来事という構成要素が似ている。
その時の生き残り、あるいは目撃者が、話に尾ひれをつけて拡大吹聴したのが、この“煤炭港虐殺”事件の発端ではなかったかと想像する。
さらに言うと、ネーミングに謀略を感じる。日本語では「和記洋行での出来事」とされているが、中国語では「煤炭港」がキーワード。つまり、日本人が真相を調べるのを難しくする細工がされている印象を受ける。
《砲艦「比良」艦長・土井申二中佐の証言》
次の書籍から、砲艦「比良」艦長・土井申二中佐の証言を抜粋。
聞き書南京事件―日本人の見た南京虐殺事件 阿羅健一
https://www.amazon.co.jp/dp/4809901203/
《紅卍字会・陳漢森からの領収書と手紙》
以下は、陳漢森からの領収書。元旦に、砲艦「比良」艦長・土井中佐から贈られた支援物資に対する領収書になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/60/c8b0477df333fb83d800ccd4233eed2d.png)
なお、上記の画像はこちらからの借用。
また以下は、陳漢森からの手紙とその現代語訳。文面からすると、元旦に支援物資を送った翌日の礼状ではなく、その後の手紙のように見える。「元比良艦長」「閣下は間もなく帰国」とあるから。
ところで、もし「私たちの家族や仲間を虐殺したのは日本軍だ」と思っていたら、「お写真を壁に掲げて、いつも御威容を拝見」しないだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/90/f95716618b0407132d8477a11bc58ae8.png)
出典は次の書籍。
南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった 日本の前途と歴史教育を考える議員の会
https://www.amazon.co.jp/dp/4817406674/
《陳徳貴氏の証言》
(参考1)
侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑
コールハーバーでの被害者に南京大虐殺記念碑の日本の侵略者
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/e4/17e41234a84df4dfbe9159dfcfee8702.jpg)
碑文:
煤炭港系侵华日军南京大屠杀主要遗址之一,一九三七年十二月十七日,日军从各处搜捕我已解除武装之士兵及平民三千余人,拘禁于煤炭港下游江边,以机枪射杀;其伤而未死者,悉被押入附近茅屋,纵火活焚致死,内有首都电厂职工四十五人,即死于此难。
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。
碑文:
日本の侵略者によってコールハーバー南京大虐殺の部門の主要なサイトの一つ、1937年12月17日、日本は下流の石炭港の川で拘留、私の逮捕武装兵士と3000人の民間人の周りから持ち上げられました側は機関銃を撃つために、彼らの死者を損傷することなく、ノートは近くの小屋に入れた、ライブ火災は、この困難に死亡した45人の工場のスタッフと首都で死に燃えます。
中国人民反日第四十周年、テリーの記念碑をAcquainting、死者を悼む、後で戒めたことがない、明は歴史と再生をお読みください。
改版履歴:
2017.02.17 真相が判明したので、記事のタイトルを変更し、全面的に書き換え。
2017.02.18 陳漢森からの領収書と手紙を追加。
2017.12.24 カボット・コヴィルの南京旅行記の記述を追記。
改版前のこの記事で「和記洋行工廠での殺戮」としていた事件は、中国の「侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑」が示している虐殺事件である。
以下では便宜的に「煤炭港虐殺」と呼ぶことにする。
結論から先に書くが、この煤炭港虐殺は捏造と断定する。
《煤炭港虐殺の概要》
・12月14日、日本軍が数千人の難民の中から2,800人の若者を連行し、煤炭港の倉庫に監禁。
・3日後の17日朝、8時頃から十人ずつ岸辺に連行して銃殺。
・夕方までかかってまだ残っていた6〜700人を河口まで連行して機関銃で射殺。
・逃げて生き残った陳徳貴が証言。
《捏造と断定した要点》
・虐殺が行われたまさにその同じ日時と場所に砲艦「比良」が停泊中。
・虐殺は入城式の当日。出席した艦長が下艦時に虐殺現場を目撃していそうな時間帯。
・虐殺犠牲者数は、難民収容所の難民の約40%に相当。
・収容所世話役の陳漢森らは、虐殺直後から比良乗組員による街の復旧作業等に協力。
・虐殺から2週間後の元旦に比良が支援物資を搬入すると陳漢森らは爆竹を鳴らして歓迎&礼状。
・以後、終戦まで陳漢森は土井艦長と手紙のやりとり。
・砲艦比良艦長・土井中佐は何ら虐殺事件を認識していない。
・陳漢森が率いる紅卍字会の者たちが南京全域の遺体埋葬作業をしていたのに、この虐殺の話が安全区国際員会に伝わっていない。
※虐殺証言者の一人の「陳徳貴」と、紅卍字会代表にして難民収容所の世話役だった「陳漢森」は別人なので注意。
《“煤炭港虐殺”事件の場所》
南京城北端の挹江門を出たあたり一帯を下関というが、虐殺現場はその下関の少し北。
和記洋行工廠(和記公司)というのは、地名としては宝塔橋街と呼ばれる区画にあった軍需工場。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/32/89da6b4a41d6d553ef4b7f12ef1bc686.png)
虐殺現場は、煤炭港。名前の通り、石炭の積み下ろし用港湾設備だったのだろう。周囲に鉄道の引込線がある。
そのすぐ東隣(揚子江でいうと下流側)に、「比良」が停泊した中興碼頭がある。
煤炭港の倉庫に閉じ込められていた人々が、連行されてすぐに射殺された岸辺とは、中興碼頭の至近距離になる。100mもあるかどうか。砲艦比良の全長が56m。比良乗組員が気づかないわけがない場所。
本当に煤炭港で2,800人も射殺していたら、至近距離の下流にいた砲艦比良は浮遊する無数の射殺体に取り囲まれていただろうし、停泊中の艦体も血で染まっただろう。そんな出来事を誰も話題にしないはずがない。
《時系列の整理から見た考察》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/a8/1880d02222029202285b9de6c461b27d.png)
艦長・土井中佐の証言によれば、砲艦「比良」は入城式の前日または前々日に中興碼頭に接岸している。
その時、2,800人の若者は、既に煤炭港の倉庫に監禁されていた。
17日の朝8時頃から、岸辺で射殺(虐殺)開始。
その日の13時からは入城式。中興碼頭付近から、入城式が行われた中山門までは、下関〜挹江門から城内に入るルートで約15km。クルマで1時間未満の距離。艦長という軍幹部の入城だから、当然クルマでの送迎があっただろう。
土井艦長の下艦時刻は不明だが、少し早めに行って陸軍幹部と顔合わせして昼食を共にするとしても、10時に下艦で間に合うくらい。
もし9時とか10時頃下艦なら確実に“煤炭港虐殺”を目撃しているはず。
土井艦長は入場式の時に、近藤英次郎司令官から宝塔橋街の整備・治安活動の許可を得た。土井艦長本人は、26日まで城内にいたようだが、せっかくの許可を10日間も放置することは考えられないので、直ちに砲艦比良乗組員に対して宝塔橋街復興活動への協力を指示したと思われる。
そうすると、“煤炭港虐殺”事件の翌日くらいから、仲間の40%くらいを虐殺された生き残りの難民達と、それをまとめる陳漢森らが、虐殺の犯人たる日本軍の別の部隊(比良乗組員)と街の復旧や治安回復活動、あるいは遺体の埋葬作業に従事し、さらには街の名を宝塔橋街から「平和街」に改称した、ということになる。
さらには、その“煤炭港虐殺”事件の2週間後の元旦には、再び「比良」が医療品や食料等の支援物資を運んで中興碼頭に接岸し、これを出迎えた陳漢森と市民らが爆竹を鳴らして歓迎し、翌日には礼状と領収書を土井艦長に渡し、その後もまた改めて礼状を送り、終戦まで陳漢森と土井艦長の間で手紙のやりとりまでしたという。
ちなみに、虐殺されたのは若者とのことだから、虐殺の生き残り難民の中には虐殺犠牲者の父母や姉妹、子供達もいたはず。その人達が、虐殺犯らが目の前にいるにも関わらず、逃げ出したり報復したりするでもなく、比較的親身な比良艦長・土井中佐に虐殺について苦情を言うでもなく、賠償を求めるでもなく、医療品や食料ごときをもらって喜ぶというのはもはや人としてありえない。
さらにもうひとつ。この“煤炭港虐殺”事件で、2,800人もの難民を虐殺されたとする保国寺難民収容所の主任が、紅卍字会の陳漢森だが、彼こそが日本軍から遺体の埋葬事業を一任で請け負っていた人物である。つまり、彼の配下の者が南京全域に散って作業を行っている。それにもかかわらず、彼の足元で2,800人も虐殺された事件の話が、安全区国際委員会の耳に届かないはずがない。しかし、「南京安全地帯の記録」にそのような記録はない。
よって、この“煤炭港虐殺”は捏造と断定する。
《“煤炭港虐殺”事件の真相》
“太平門虐殺”もそうだが、全くの「無」から虐殺事件が創作されることはない。何かある。
そう思って、土井艦長のインタビューを読みなおすと、こういう発言がある。
−−宝塔橋街に死体はありましたか?
「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」
「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」
ここは私の完全な勘でしかないが、この《盗みに入った者を射殺した=死体が十数体》が非常に臭い感じがする。
なお、同じ話にも見える別の記述もあった。場所が定かではないが、「暫く倉庫に拘留」かつ河岸での出来事という構成要素が似ている。
「これとは別のそちこちで見つけた雑多な中国人グループ二〇〇名は、暫く倉庫に拘留されていたが、連れ出されて銃殺された。彼らは陸で銃殺されるか、河に飛び込んでから水中で機関銃で撃たれるか、選択の余地があったという。ごくわずかではあったが泳いで逃げ延びたものがいた。」(カボット・コヴィルの南京旅行記/1938年4月25日 長江上にて/陥落直後についての描写)
その時の生き残り、あるいは目撃者が、話に尾ひれをつけて拡大吹聴したのが、この“煤炭港虐殺”事件の発端ではなかったかと想像する。
さらに言うと、ネーミングに謀略を感じる。日本語では「和記洋行での出来事」とされているが、中国語では「煤炭港」がキーワード。つまり、日本人が真相を調べるのを難しくする細工がされている印象を受ける。
《砲艦「比良」艦長・土井申二中佐の証言》
次の書籍から、砲艦「比良」艦長・土井申二中佐の証言を抜粋。
聞き書南京事件―日本人の見た南京虐殺事件 阿羅健一
https://www.amazon.co.jp/dp/4809901203/
−−揚子江を遡江して南京に向かうのですね?
「そうです。十月十日頃から黄浦江の啓開作業をやり、その後、揚子江を遡上しました。十二月一日頃かと思います。
途中、江陰には上陸もしました。その後、鎮江に進み、ここで比良は天谷旅団の渡河作戦を掩護することになり、数日とどまりました。保津や勢多などはそのまま遡江しました」
−−勢多などが南京に突入した十三日、比良は鎮江にいたのですか。
「日にちがはっきりしませんが、勢多などが南京に行った頃はまだ鎮江にいたと思います。
比良が南京に着いたのは、入場式の前日か前々日頃です。」
−−下関に着いたのですね?
「いえ。もっと下流の中興碼頭です。下関なのかもしれませんが、下関とは言わずに、中興碼頭とよんでいました。
勢多などは上流の下関に着いたと思います。」
−−中興碼頭の様子はどうでしたか?
「そのあたりは宝塔橋街といい、中国軍の軍需物質の基地だったところです。軍需物質がたくさんあり、そのための引込線もありました。
難民が保国寺に六、七千人ほどいました。」
−−宝塔橋街には海軍しかいなかったのですか?
「いいえ。多くはありませんでしたが、既に陸軍がいました。」
−−宝塔橋街に死体はありましたか?
「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」
−−十七日の入城式は?
「入城式には私も参加しました。」
−−その時の南京の様子はどうでした?
「城内はおおむねきれいになってました。」
−−下関一帯には死体があったといわれていますが…。
「入城式に参列する時、下関から挹江門に向かったと思いますが、門の近くには死体が五、六体はありました。
入場式の時、近藤英次郎司令官に、宝塔橋街の整備、治安などが必要だと述べ、許可になりましたので、二十六日に中興碼頭に戻り、宝塔橋街の整備にあたりました。」
−−宝塔橋街にはいつまでいましたか。
「二十八日、烏龍山沖で沈没した第一号掃海艇を助けるために出発するまでいました。
この間、街の整備や橋梁の復旧などをしました。紅卍字会の陳漢森が、難民収容所の主任をしていて中心的存在だったので、彼を中心に埋葬なども行いました。
難民を自分の家に帰すようにしましたが、われわれがいる間に街も落ち着いてきましたので、陳漢森に命じて、宝塔橋街と改称*させました。」
(* 「宝塔橋街」を「平和街」と改称させた、が正解のはず。)
−−陳漢森は、紅卍字会でどのような地位にいた人ですか
「社長というか、所有者です。世界紅卍字会南京分会長といってました。
第一号掃海艇の負傷者を乗せて上海に戻った時、私は第三艦隊司令部に行き、人道上、宝塔橋街をそのままにすることが出来ない、といいました。すると、長谷川清司令長官は、宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料を下さいました。そこですぐに戻り、昭和十三年の元旦には再び中興碼頭に着きましたが、その時、市民も陳漢森も喜び、爆竹までならして歓迎してくれました。翌日、陳漢森はわざわざ礼状を持ってきました。
平和街が落ち着いた頃、比良は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭をはなれました。陳漢森はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感激したものと思います。」
土井氏の手元には、今でも陳漢森からの手紙、感謝状、領収書などがある。また、陳漢森がおくってくれた畳一枚ほどの書は、表装して部屋に飾ってある。
−−南京では虐殺があったといわれていますが…。
「虐殺というようなことはなかったと思います。
戦場ですから死体はありましたが、虐殺の死体というのは見たことがありません。
私が支那人からもらった礼状もそうですが、支那人は誇張して表現します。南京事件とはそういうものかと思います。」
「そうです。十月十日頃から黄浦江の啓開作業をやり、その後、揚子江を遡上しました。十二月一日頃かと思います。
途中、江陰には上陸もしました。その後、鎮江に進み、ここで比良は天谷旅団の渡河作戦を掩護することになり、数日とどまりました。保津や勢多などはそのまま遡江しました」
−−勢多などが南京に突入した十三日、比良は鎮江にいたのですか。
「日にちがはっきりしませんが、勢多などが南京に行った頃はまだ鎮江にいたと思います。
比良が南京に着いたのは、入場式の前日か前々日頃です。」
−−下関に着いたのですね?
「いえ。もっと下流の中興碼頭です。下関なのかもしれませんが、下関とは言わずに、中興碼頭とよんでいました。
勢多などは上流の下関に着いたと思います。」
−−中興碼頭の様子はどうでしたか?
「そのあたりは宝塔橋街といい、中国軍の軍需物質の基地だったところです。軍需物質がたくさんあり、そのための引込線もありました。
難民が保国寺に六、七千人ほどいました。」
−−宝塔橋街には海軍しかいなかったのですか?
「いいえ。多くはありませんでしたが、既に陸軍がいました。」
−−宝塔橋街に死体はありましたか?
「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」
−−十七日の入城式は?
「入城式には私も参加しました。」
−−その時の南京の様子はどうでした?
「城内はおおむねきれいになってました。」
−−下関一帯には死体があったといわれていますが…。
「入城式に参列する時、下関から挹江門に向かったと思いますが、門の近くには死体が五、六体はありました。
入場式の時、近藤英次郎司令官に、宝塔橋街の整備、治安などが必要だと述べ、許可になりましたので、二十六日に中興碼頭に戻り、宝塔橋街の整備にあたりました。」
−−宝塔橋街にはいつまでいましたか。
「二十八日、烏龍山沖で沈没した第一号掃海艇を助けるために出発するまでいました。
この間、街の整備や橋梁の復旧などをしました。紅卍字会の陳漢森が、難民収容所の主任をしていて中心的存在だったので、彼を中心に埋葬なども行いました。
難民を自分の家に帰すようにしましたが、われわれがいる間に街も落ち着いてきましたので、陳漢森に命じて、宝塔橋街と改称*させました。」
(* 「宝塔橋街」を「平和街」と改称させた、が正解のはず。)
−−陳漢森は、紅卍字会でどのような地位にいた人ですか
「社長というか、所有者です。世界紅卍字会南京分会長といってました。
第一号掃海艇の負傷者を乗せて上海に戻った時、私は第三艦隊司令部に行き、人道上、宝塔橋街をそのままにすることが出来ない、といいました。すると、長谷川清司令長官は、宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料を下さいました。そこですぐに戻り、昭和十三年の元旦には再び中興碼頭に着きましたが、その時、市民も陳漢森も喜び、爆竹までならして歓迎してくれました。翌日、陳漢森はわざわざ礼状を持ってきました。
平和街が落ち着いた頃、比良は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭をはなれました。陳漢森はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感激したものと思います。」
土井氏の手元には、今でも陳漢森からの手紙、感謝状、領収書などがある。また、陳漢森がおくってくれた畳一枚ほどの書は、表装して部屋に飾ってある。
−−南京では虐殺があったといわれていますが…。
「虐殺というようなことはなかったと思います。
戦場ですから死体はありましたが、虐殺の死体というのは見たことがありません。
私が支那人からもらった礼状もそうですが、支那人は誇張して表現します。南京事件とはそういうものかと思います。」
《紅卍字会・陳漢森からの領収書と手紙》
以下は、陳漢森からの領収書。元旦に、砲艦「比良」艦長・土井中佐から贈られた支援物資に対する領収書になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/60/c8b0477df333fb83d800ccd4233eed2d.png)
なお、上記の画像はこちらからの借用。
また以下は、陳漢森からの手紙とその現代語訳。文面からすると、元旦に支援物資を送った翌日の礼状ではなく、その後の手紙のように見える。「元比良艦長」「閣下は間もなく帰国」とあるから。
ところで、もし「私たちの家族や仲間を虐殺したのは日本軍だ」と思っていたら、「お写真を壁に掲げて、いつも御威容を拝見」しないだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/90/f95716618b0407132d8477a11bc58ae8.png)
(陳漢森よりの書簡)
東アジアにおいて、戦火を交える時より、戦争の風雲が大陸に覆われており、軍艦が揚子江を遊弋している現今のご時世の中、閣下は艦隊を率いて南京に到着されました。この時期にあたり、南京、上海の難民が大勢集まってまいりました。これらの難民救済のために、世界紅卍字会南京分会が保国寺に設立されて、私は恥ずかしながら、その責任者に任ぜられました。閣下の軍艦が江浜府に停泊する際、閣下は民衆が飢えている状況を察され、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また、道路の整備と橋掛けを命ぜられ、且つ自らご指導にあたられました。そして、その町名を平和と名付けられたのと同時に、詩を詠じ、それを以って記念とされました。詩意は和やかで、まるで陽春を迎えたかのごとく感ぜられます。現在、閣下は間もなく帰国され、職務報告をされますが、なおご自身の写真を私どもにお贈りになりました。お写真を壁に掲げて、いつも御威容を拝見いたしますと同時に、近隣である日中両国の親善を祈願したいと存じております。もとより日中両国を隔てる海はそれほど広からず、魚や雁などはいつも往来しているにもかかわらず、残念ながら、私は海を越えてお伺いすることができず、海を眺めて嘆くしかありません。そこで、この粗末な文を贈り、記念とさせていただきます。
東アジアにおいて、戦火を交える時より、戦争の風雲が大陸に覆われており、軍艦が揚子江を遊弋している現今のご時世の中、閣下は艦隊を率いて南京に到着されました。この時期にあたり、南京、上海の難民が大勢集まってまいりました。これらの難民救済のために、世界紅卍字会南京分会が保国寺に設立されて、私は恥ずかしながら、その責任者に任ぜられました。閣下の軍艦が江浜府に停泊する際、閣下は民衆が飢えている状況を察され、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また、道路の整備と橋掛けを命ぜられ、且つ自らご指導にあたられました。そして、その町名を平和と名付けられたのと同時に、詩を詠じ、それを以って記念とされました。詩意は和やかで、まるで陽春を迎えたかのごとく感ぜられます。現在、閣下は間もなく帰国され、職務報告をされますが、なおご自身の写真を私どもにお贈りになりました。お写真を壁に掲げて、いつも御威容を拝見いたしますと同時に、近隣である日中両国の親善を祈願したいと存じております。もとより日中両国を隔てる海はそれほど広からず、魚や雁などはいつも往来しているにもかかわらず、残念ながら、私は海を越えてお伺いすることができず、海を眺めて嘆くしかありません。そこで、この粗末な文を贈り、記念とさせていただきます。
元比良艦長土井中佐
世界紅卍字会南京分会長
陳 漢森
世界紅卍字会南京分会長
陳 漢森
出典は次の書籍。
南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった 日本の前途と歴史教育を考える議員の会
https://www.amazon.co.jp/dp/4817406674/
《陳徳貴氏の証言》
◆和記洋行での出来事(12月17日頃についての証言)
陳徳貴(陳徳貴、男、67歳)の証言
1937年12月12日に、わたしは下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日こ、日本軍が下関にやって来て、ここにわたしたち難民がいっぱい居るのを見つけました。
翌日の朝、日本兵が二百人近く来て、何千人もの難民の中から二千八百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを四人一列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、わたしたちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。*a
三日目の朝*b、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人が直ぐに押し出されて行って、間もなく、一頻り銃声が聞こえました。*c 少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されて行き、又もや一頻り銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、わたしには分かりました。日本軍が三番目の人たちに出て行かせようとした時に、わたしは出て行きました。それは午前八時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵がわたしたちを押して行くのでした。
長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に三十何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだとわたしはすぐ気づきました。わたしが水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、わたしは思いつきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう側まで潜って行って、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから十人ずつ、十人ずっと日本兵に銃殺されて行くのをこの目で見たのです。朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が六、七百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。
暗くなり、日本軍が行ってしまってから、わたしは手探りで岸辺までやって来て、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れ絨毯を一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。
明くる日日本兵が何人か桟橋からやって来て、わたしが震えているのを見つけ、わたしを狙って二発撃ちましたが、弾はわたしの太股を抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵はわたしが死んだと思って、行ってしまいました。三日目になって、死体を片付ける人たちがわたしのまだ活きているのを見つけて、わたしを救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。
(李文奎と劉[雨のしたに文]と馮中美が記録)
加藤実翻訳『『この事実を……』「南京大虐殺」 生存者証言集』、株式会社星雲社、2000年、p.24-25
*a:14日の午後、煤炭港の倉庫に若者2,800人を閉じ込め。
*b:閉じ込めから3日目なら、17日。つまり入城式の日に処刑。
*c:倉庫から歩いて間もなく銃声なので、処刑場は煤炭港の至近距離。
上記は次のサイトからの借用。
資料:『ラーベと発電所復旧』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/hatuden.html
陳徳貴(陳徳貴、男、67歳)の証言
1937年12月12日に、わたしは下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日こ、日本軍が下関にやって来て、ここにわたしたち難民がいっぱい居るのを見つけました。
翌日の朝、日本兵が二百人近く来て、何千人もの難民の中から二千八百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを四人一列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、わたしたちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。*a
三日目の朝*b、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人が直ぐに押し出されて行って、間もなく、一頻り銃声が聞こえました。*c 少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されて行き、又もや一頻り銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、わたしには分かりました。日本軍が三番目の人たちに出て行かせようとした時に、わたしは出て行きました。それは午前八時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵がわたしたちを押して行くのでした。
長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に三十何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだとわたしはすぐ気づきました。わたしが水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、わたしは思いつきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう側まで潜って行って、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから十人ずつ、十人ずっと日本兵に銃殺されて行くのをこの目で見たのです。朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が六、七百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。
暗くなり、日本軍が行ってしまってから、わたしは手探りで岸辺までやって来て、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れ絨毯を一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。
明くる日日本兵が何人か桟橋からやって来て、わたしが震えているのを見つけ、わたしを狙って二発撃ちましたが、弾はわたしの太股を抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵はわたしが死んだと思って、行ってしまいました。三日目になって、死体を片付ける人たちがわたしのまだ活きているのを見つけて、わたしを救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。
(李文奎と劉[雨のしたに文]と馮中美が記録)
加藤実翻訳『『この事実を……』「南京大虐殺」 生存者証言集』、株式会社星雲社、2000年、p.24-25
*a:14日の午後、煤炭港の倉庫に若者2,800人を閉じ込め。
*b:閉じ込めから3日目なら、17日。つまり入城式の日に処刑。
*c:倉庫から歩いて間もなく銃声なので、処刑場は煤炭港の至近距離。
上記は次のサイトからの借用。
資料:『ラーベと発電所復旧』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/hatuden.html
(参考1)
侵华日军南京大屠杀煤炭港遇难同胞纪念碑
コールハーバーでの被害者に南京大虐殺記念碑の日本の侵略者
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/e4/17e41234a84df4dfbe9159dfcfee8702.jpg)
碑文:
煤炭港系侵华日军南京大屠杀主要遗址之一,一九三七年十二月十七日,日军从各处搜捕我已解除武装之士兵及平民三千余人,拘禁于煤炭港下游江边,以机枪射杀;其伤而未死者,悉被押入附近茅屋,纵火活焚致死,内有首都电厂职工四十五人,即死于此难。
兹值中国人民抗日战争胜利四十周年,特立此碑,悼念死者,永诫后人,铭念历史,振兴中华。
碑文:
日本の侵略者によってコールハーバー南京大虐殺の部門の主要なサイトの一つ、1937年12月17日、日本は下流の石炭港の川で拘留、私の逮捕武装兵士と3000人の民間人の周りから持ち上げられました側は機関銃を撃つために、彼らの死者を損傷することなく、ノートは近くの小屋に入れた、ライブ火災は、この困難に死亡した45人の工場のスタッフと首都で死に燃えます。
中国人民反日第四十周年、テリーの記念碑をAcquainting、死者を悼む、後で戒めたことがない、明は歴史と再生をお読みください。
改版履歴:
2017.02.17 真相が判明したので、記事のタイトルを変更し、全面的に書き換え。
2017.02.18 陳漢森からの領収書と手紙を追加。
2017.12.24 カボット・コヴィルの南京旅行記の記述を追記。