新邪馬台国の研究: 魏志倭人伝の漢字を読み解く https://amzn.asia/d/5V7UaR8
229年 「親魏大月氏王」大月氏とは人名ではなく国名です。正確には大月氏(国)王の波調が金印を授かった。
239年 邪馬台国の女王、卑弥呼が「親魏倭王」の称号と金印を授かリました。
西暦57年に中国後漢の光武帝より,金印「漢委奴国王」を授かった
委奴国だけが王と名乗る事を認められてから
委奴国の首長は代々王を引き継いできました。
なので、「委奴国⇒伊都国」の首長だけが王と名乗れるはずなのに
魏志倭人伝には、
伊都国の他にも、邪馬台国と狗奴国の2国にも王がいると記述が有ります。
1、伊都国は代々王が有る。
2、邪馬台国は女王の都の所。
3、狗奴国は男子を王と為す。
西暦57年には委奴国→伊都国だけが王と名乗ってもいいと認められていましたが
なぜ、邪馬台国には女王卑弥呼がいて、
狗奴国には卑弥呼と不仲な男王がいるのか?
魏志倭人伝にはその事は書いてありません。
なので、
私は日本の記紀に書いてないかを調べてみました。
そしたら、その事が古事記に書いてありました。
ちなみに私は尊敬する安本美典先生の「卑弥呼=天照大御神」の支持者です。
古事記には下記内容の文面があります。
イザナキが禊(みそぎ)をすることで生まれた
アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子。
アマテラスには天の国である高天原、
ツクヨミには夜の国、
スサノオには海原と、それぞれが支配地を与えられます。
伊邪那岐尊には、三人の貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)がいた。
そして、
天照大御神には高天原(たかまがはら)を、
月読命は夜の国を、
須佐之男命には海原を委ねた。
と古事記には書かれています。
ん?少し違和感はないですか?
アマテラスは高天原
スサノウは海原
と、高天原、海原はどちらも場所、地名と理解出来ますが、
ツクヨミの夜の国は場所・地名とは理解出来ませんよね。
これは、どういう事でしょう?
では、この古事記に書かれた内容を魏志倭人伝に転換して当てはめると、
伊都国の王には三人の貴子(卑弥呼、卑弥呼の男弟、卑弥弓呼)がいた。
卑弥呼には邪馬台国の女王
男弟は国を治める補佐を
卑弥弓呼は狗奴国の王に就かせた。と書かれていて、
邪馬台国の卑弥呼の弟(男弟)は国を治める補佐⇒
即ち、卑弥呼のバックヤードで国を治める業務を与えられていた。
卑弥呼が陽とすると、卑弥呼の弟(男弟)は陰として業務を任されていた。
と説明されています。
なので、魏志倭人伝に記述されています
1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国の3国に王がいると記述があるのは、
伊都国が侵略した新天地を、伊都国王の子ども(卑弥呼、男弟、卑弥弓呼)に王として政治を委せたから、
魏志倭人伝に
1.伊都国には世有王
2.邪馬台国には女王所都
3.狗奴国には為男王
と記述して、3国に王がいると、表現されてます。
卑弥呼=天照大御神アマテラス
卑弥呼の男弟=月読命ツキヨミ
狗奴国の男王=須佐之男命スサノオ
邪馬台国=高天原
狗奴国=海原
佐治国=夜の国
古事記は文字のない時代の言い伝えを後世に文字として書き起こしてます。
なので、伝授される途中で伝授する人によって話が少し変化してると思いますが、主軸は変えてはないと思ってます。
アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三人の貴子と伝授されてますが、ツキヨミは別に本来省いても、古事記の内容はおかしくはならないので、創作話ならツキヨミを加える意味がないハズだが、やはり三人の子がいたのは事実で、ちゃんと伝わっていたのだと思います。
以上、委奴国 ①~⑥までお読み頂きましてありがとうございました。
私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、光正説から導いて、
九州大分県の日田であると確信しています。
そして、その九州大分県の日田にある、
ダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鏡)という鉄製の鏡が発掘されています。
この鏡はいつ、誰によって発掘されたかというと、
1933年、久大本線の敷設工事の際に、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から、出土した石棺の中から渡辺音吉が発見したとされてます。
1960年に京都大学の梅原末治が古物商から買い取り、依頼して調べてみると
1962年に金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。
大きさは直径21・3センチ、厚さ2・5ミリの鉄製の鏡で、反りはなく平面である。
表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。
中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
この九州大分県の日田のダンワラ古墳より発掘された
金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は、なんと中国三国誌の英雄の
曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ形式である可能性があるとの事です。
曹操のその鏡は、中国河南省文物考古研究院が、
2008年から行われた中国曹操の墓「曹操高陵」の発掘で発見されました。
曹操の墓から出たその鏡も鉄製ですが、
さびがひどく、文様などはよくわかっていなかったのですが、
同研究院で、X線を使って調査したところ、
表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、
貴石などもちりばめられていることがわかりました。
そして、その曹操の墓から出た鉄鏡が、
日本の日田市のダンワラ古墳で見つかった鉄鏡
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)
とほぼ同型式である可能性が高いとの事です。
中国ではこの鏡はどういう人が持っていたのか
インターネットで調べると
中国の三国時代に書かれた
『曹操集訳注』には、
魏国の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、
「皇帝は金をあしらった鉄鏡、
皇后と皇太子は銀をあしらった鉄鏡、
以下の貴人たちは、金銀を用いない鉄鏡を持った」と書いてあるそうです。
この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。
すなわち、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は王のみが所持出来たと言う事だそうです。
なので、この鏡は卑弥呼が魏国より受けとったのではないかとささやかれてますが、年代が合わないとの事です。
では、曹操がこの鉄鏡を授かったのはいつかを考えてみます。
曹操は
西暦155年に誕生し、
西暦220年に洛陽にて66歳で崩御されました。
曹操が王位に就いたのは
西暦216年に後漢の献帝より62歳の時、魏王に任ぜられます。
曹操は、216年に魏王に封じられ、220年に無くなっています。
なので王としては、西暦216年から220年の4年間になります。
220年、曹操の子の曹不が後漢の献帝から帝位を譲られ、
魏王朝を創建したときに、父親の曹操には太祖武皇帝の諡号が贈られてます。
通常は216年の魏王になった時点で鉄鏡を受け取ったと考えるのが自然だと思いますが、
しかし実際は下記内容から加味すると、西暦196年以降西暦220年までの間に入手したと思われます。
「196年に漢室は曹操の庇護を受けて、献帝の王権は安定をみたが、
同時に王朝での実権を曹操に掌握された。
曹操の身分は
西暦208年に丞相、
西暦213年に魏公、
西暦216年に魏王
と地位も上がっていった。
これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった。
西暦214年には後漢の献帝の皇后が殺害され、曹操は献帝に自分の娘を皇后にさせた。」
云々。
それでは倭の伊都国の王はいつ金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を受けたったのかを考えたいと思います。
5世紀に編纂された後漢書には
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
西暦57年に漢委奴国王の金印を授かりました。
そして、
西暦107年に倭の国の帥升王等が百六十人の生口を献じ、参内して天子にお目にかかることを願い出た。
と、5世紀に編纂された後漢書に記録が有ります。
この西暦107年にはかなりの数の生口を献上して天子にお目にかかる事を願い出たと記述されてます。
何を天子に会ってお願いしたのでしようか?
もしかしたら、王さまだけが持つことを許された金で装飾された鉄製の鏡を頂きたいと申し願ったのではないでしようか?
卑弥呼の時も銅鏡100枚を返礼品に要求してますので、
鏡を持つことが権威を示す道具だという風潮が有ったようです。
なので、この時に金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を受け取った確率は高いと思います。
そして当時の皇帝は、
金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を授けた国名が、
委奴国と謗る漢字を使用した国に渡したとなると皇帝の面子にも関わるので、
イト国の漢字表記を、敬意を払い、
委奴国から伊都国に改名した。
ゆえに、日田のダンワラ古墳から出土した金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は、
伊都国の帥升王がこの時、中国の皇帝より受け取った物と考えられます。
中国が何も因果関係のない国に伊と都の最上級の漢字を使うと思いますか?
卑弥呼が親魏倭王の称号と金印紫綬を授かった邪馬台国でさえ、邪魔や邪悪の邪、挙句に動物の馬、これは馬鹿の馬、を使っています。また、卑弥呼の卑は卑劣の卑を使用してます。全くひどい漢字を使って書き表わしています。
しかし、伊都国は何故か美しい漢字を使って書き表わしています。
これって伊都国は、中国からの信頼関係が強い絆で結ばれていた証拠じゃないんですか?