今回から、皆さんも歴史の授業で聞いたことが有ると思いますが、
「漢委奴国王」と彫られた中国の後漢より
金印を授かった委奴国について検証していきたいと思います。
この金印は江戸時代(天明4年2月23日)に
福岡県福岡市東区大字志賀島の田畑で百姓の甚兵衛によって発見されました。
それは江戸時代の古文書「甚兵衛の口上書」に書かれています。
この金印「漢委奴国王」については、中国の古文書の後漢書の
「倭奴国奉貢朝賀」の次の文面から
倭奴国が中国の光武帝から授かった物であると確認できます。
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫
倭國之極南界也 光武賜以印綬
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」
建武中元2年(西暦57年) 倭奴国が後漢へ朝貢し、
光武帝(後漢帝56~57年)から金印「漢委奴国王」を印綬されたと記述が有ります。。
この金印には「漢委奴国王」と彫られています。
この「漢委奴国王」の ’委奴’ をどの様に読むのかで諸説あります。
現在の通説は❲漢の「倭の奴の」国王❳となってます。
この金印に彫られている 「委奴」の「委」は「倭」の事であると説明されてます。
確かに5世紀に編纂された後漢書には
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
上記文面には、「倭奴国」と書かれていて、
この国は魏志倭人伝に書かれている「奴国」であろうと解釈されてますが
金印には倭奴国ではなく委奴国と彫られています。
この金印に彫られている「委奴国」を「倭奴国」と解釈してしまうと、
魏志倭人伝に書かれている内容に適合しない点が生じます。
私は、後漢書が編纂されたのは5世紀なので、
編纂した人物は後漢時代の編纂される前の原本には此の委奴国の文字が書かれていたが、
この後漢書編纂メンバーは此の委奴国を魏志倭人伝に書かれている
奴国だと思い込み、委奴国の表記をイ遍の倭奴国と書き治した。と考えます。
下記の後漢書の漢文をご覧下さい。
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
107年に委奴国王の帥升等(国王と有り)が安帝王に朝貢した。
と後漢書には記載されている。
倭国王と書いてあり、
中国が王と認めた倭国の王が朝貢にみえたと記述があります。
中国が王と認定してない倭の国の首長が朝貢に来たからと言って
その首長を王と記載することはあり得ないのです。
中国が王と認めた国の首長が来たので「倭の国の帥升国王等が来たと」記録に残しています。