西暦57年に中国後漢の光武帝より,金印「漢委奴国王」を授かった
委奴国だけが王と名乗る事を認められてから
委奴国の首長は代々王を引き継いできました。
なので、「委奴国⇒伊都国」の首長だけが王と名乗れるはずなのに
魏志倭人伝には、
伊都国の他にも、邪馬台国と狗奴国の2国にも王がいると記述が有ります。
1、伊都国は代々王が有る。
2、邪馬台国は女王の都の所。
3、狗奴国は男子を王と為す。
西暦57年には委奴国→伊都国だけが王と名乗ってもいいと認められていましたが
なぜ、邪馬台国には女王卑弥呼がいて、
狗奴国には卑弥呼と不仲な男王がいるのか?
魏志倭人伝にはその事は書いてありません。
なので、
私は日本の記紀に書いてないかを調べてみました。
そしたら、その事が古事記に書いてありました。
ちなみに私は尊敬する安本美典先生の「卑弥呼=天照大御神」の支持者です。
古事記には下記内容の文面があります。
イザナキが禊(みそぎ)をすることで生まれた
アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子。
アマテラスには天の国である高天原、
ツクヨミには夜の国、
スサノオには海原と、それぞれが支配地を与えられます。
伊邪那岐尊には、三人の貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)がいた。
そして、
天照大御神には高天原(たかまがはら)を、
月読命は夜の国を、
須佐之男命には海原を委ねた。
と古事記には書かれています。
ん?少し違和感はないですか?
アマテラスは高天原
スサノウは海原
と、高天原、海原はどちらも場所、地名と理解出来ますが、
ツクヨミの夜の国は場所・地名とは理解出来ませんよね。
これは、どういう事でしょう?
では、この古事記に書かれた内容を魏志倭人伝に転換して当てはめると、
伊都国の王には三人の貴子(卑弥呼、卑弥呼の男弟、卑弥弓呼)がいた。
卑弥呼には邪馬台国の女王
男弟は国を治める補佐を
卑弥弓呼は狗奴国の王に就かせた。と書かれていて、
邪馬台国の卑弥呼の弟(男弟)は国を治める補佐⇒
即ち、卑弥呼のバックヤードで国を治める業務を与えられていた。
卑弥呼が陽とすると、卑弥呼の弟(男弟)は陰として業務を任されていた。
と説明されています。
なので、魏志倭人伝に記述されています
1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国の3国に王がいると記述があるのは、
伊都国が侵略した新天地を、伊都国王の子ども(卑弥呼、男弟、卑弥弓呼)に王として政治を委せたから、
魏志倭人伝に
1.伊都国には世有王
2.邪馬台国には女王所都
3.狗奴国には為男王
と記述して、3国に王がいると、表現されてます。
卑弥呼=天照大御神アマテラス
卑弥呼の男弟=月読命ツキヨミ
狗奴国の男王=須佐之男命スサノオ
邪馬台国=高天原
狗奴国=海原
佐治国=夜の国
古事記は文字のない時代の言い伝えを後世に文字として書き起こしてます。
なので、伝授される途中で伝授する人によって話が少し変化してると思いますが、主軸は変えてはないと思ってます。
アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三人の貴子と伝授されてますが、ツキヨミは別に本来省いても、古事記の内容はおかしくはならないので、創作話ならツキヨミを加える意味がないハズだが、やはり三人の子がいたのは事実で、ちゃんと伝わっていたのだと思います。
以上、委奴国 ①~⑥までお読み頂きましてありがとうございました。