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委奴国 ⑥何故伊都国以外に王は居るのか?

2022-09-06 13:41:18 | 金印「漢委奴国王」

西暦57年に中国後漢の光武帝より,金印「漢委奴国王」を授かった
委奴国だけが王と名乗る事を認められてから

委奴国の首長は代々王を引き継いできました。

なので、「委奴国⇒伊都国」の首長だけが王と名乗れるはずなのに

魏志倭人伝には、

伊都国の他にも、邪馬台国と狗奴国の2国にも王がいると記述が有ります。

1、伊都国は代々王が有る。


2、邪馬台国は女王の都の所。

3、狗奴国は男子を王と為す。


西暦57年には委奴国→伊都国だけが王と名乗ってもいいと認められていましたが

なぜ、邪馬台国には女王卑弥呼がいて、

狗奴国には卑弥呼と不仲な男王がいるのか?

魏志倭人伝にはその事は書いてありません。

なので、

私は日本の記紀に書いてないかを調べてみました。
そしたら、その事が古事記に書いてありました。

ちなみに私は尊敬する安本美典先生の「卑弥呼=天照大御神」の支持者です。

古事記には下記内容の文面があります。

イザナキが禊(みそぎ)をすることで生まれた
アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子。
アマテラスには天の国である高天原、
ツクヨミには夜の国、
スサノオには海原と、それぞれが支配地を与えられます。


伊邪那岐尊には、三人の貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)がいた。
そして、
天照大御神には高天原(たかまがはら)を、
月読命は夜の国を、
須佐之男命には海原を委ねた。

と古事記には書かれています。

ん?少し違和感はないですか?


アマテラスは高天原
スサノウは海原
と、高天原、海原はどちらも場所、地名と理解出来ますが、
ツクヨミの夜の国は場所・地名とは理解出来ませんよね。
これは、どういう事でしょう?


では、この古事記に書かれた内容を魏志倭人伝に転換して当てはめると、

伊都国の王には三人の貴子(卑弥呼、卑弥呼の男弟、卑弥弓呼)がいた。

卑弥呼には邪馬台国の女王
男弟は国を治める補佐を
卑弥弓呼は狗奴国の王に就かせた。と書かれていて、
邪馬台国の卑弥呼の弟(男弟)は国を治める補佐⇒
即ち、卑弥呼のバックヤードで国を治める業務を与えられていた。

卑弥呼が陽とすると、卑弥呼の弟(男弟)は陰として業務を任されていた。

と説明されています。

なので、魏志倭人伝に記述されています

1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国の3国に王がいると記述があるのは、

伊都国が侵略した新天地を、伊都国王の子ども(卑弥呼、男弟、卑弥弓呼)に王として政治を委せたから、

魏志倭人伝に

1.伊都国には世有王 

2.邪馬台国には女王所都 

3.狗奴国には為男王

と記述して、3国に王がいると、表現されてます。

卑弥呼=天照大御神アマテラス

卑弥呼の男弟=月読命ツキヨミ

狗奴国の男王=須佐之男命スサノオ

邪馬台国=高天原

狗奴国=海原

佐治国=夜の国


古事記は文字のない時代の言い伝えを後世に文字として書き起こしてます。

なので、伝授される途中で伝授する人によって話が少し変化してると思いますが、主軸は変えてはないと思ってます。

アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三人の貴子と伝授されてますが、ツキヨミは別に本来省いても、古事記の内容はおかしくはならないので、創作話ならツキヨミを加える意味がないハズだが、やはり三人の子がいたのは事実で、ちゃんと伝わっていたのだと思います。

以上、委奴国 ①~⑥までお読み頂きましてありがとうございました。


委奴国 ⑤鉄鏡は伊都国の王が所有

2022-09-06 06:49:00 | 金印「漢委奴国王」

私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、光正説から導いて、

九州大分県の日田であると確信しています。

そして、その九州大分県の日田にある、

ダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鏡)という鉄製の鏡が発掘されています。

この鏡はいつ、誰によって発掘されたかというと、

1933年、久大本線の敷設工事の際に、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から、出土した石棺の中から渡辺音吉が発見したとされてます。

1960年に京都大学の梅原末治が古物商から買い取り、依頼して調べてみると
1962年に金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。

大きさは直径21・3センチ、厚さ2・5ミリの鉄製の鏡で、反りはなく平面である。

表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。

中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。


この九州大分県の日田のダンワラ古墳より発掘された

金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は、なんと中国三国誌の英雄の

曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ形式である可能性があるとの事です。

曹操のその鏡は、中国河南省文物考古研究院が、
2008年から行われた中国曹操の墓「曹操高陵」の発掘で発見されました。

曹操の墓から出たその鏡も鉄製ですが、

さびがひどく、文様などはよくわかっていなかったのですが、

同研究院で、X線を使って調査したところ、
表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、
貴石などもちりばめられていることがわかりました。


そして、その曹操の墓から出た鉄鏡が、

日本の日田市のダンワラ古墳で見つかった鉄鏡

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)

とほぼ同型式である可能性が高いとの事です。
中国ではこの鏡はどういう人が持っていたのか

インターネットで調べると

中国の三国時代に書かれた

『曹操集訳注』には、

魏国の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、
「皇帝は金をあしらった鉄鏡、

皇后と皇太子は銀をあしらった鉄鏡、

以下の貴人たちは、金銀を用いない鉄鏡を持った」と書いてあるそうです。


この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。

すなわち、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は王のみが所持出来たと言う事だそうです。


なので、この鏡は卑弥呼が魏国より受けとったのではないかとささやかれてますが、年代が合わないとの事です。


では、曹操がこの鉄鏡を授かったのはいつかを考えてみます。

曹操は
西暦155年に誕生し、

西暦220年に洛陽にて66歳で崩御されました。

曹操が王位に就いたのは

西暦216年に後漢の献帝より62歳の時、魏王に任ぜられます。


 曹操は、216年に魏王に封じられ、220年に無くなっています。
なので王としては、西暦216年から220年の4年間になります。
220年、曹操の子の曹不が後漢の献帝から帝位を譲られ、
魏王朝を創建したときに、父親の曹操には太祖武皇帝の諡号が贈られてます。

通常は216年の魏王になった時点で鉄鏡を受け取ったと考えるのが自然だと思いますが、
しかし実際は下記内容から加味すると、西暦196年以降西暦220年までの間に入手したと思われます。

「196年に漢室は曹操の庇護を受けて、献帝の王権は安定をみたが、
同時に王朝での実権を曹操に掌握された。

曹操の身分は

西暦208年に丞相、
西暦213年に魏公、
西暦216年に魏王

と地位も上がっていった。

これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった。
西暦214年には後漢の献帝の皇后が殺害され、曹操は献帝に自分の娘を皇后にさせた。」
云々。


それでは倭の伊都国の王はいつ金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を受けたったのかを考えたいと思います。


5世紀に編纂された後漢書には

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 

安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

西暦57年に漢委奴国王の金印を授かりました。

そして、
西暦107年に倭の国の帥升王等が百六十人の生口を献じ、参内して天子にお目にかかることを願い出た。

と、5世紀に編纂された後漢書に記録が有ります。


この西暦107年にはかなりの数の生口を献上して天子にお目にかかる事を願い出たと記述されてます。

何を天子に会ってお願いしたのでしようか?

もしかしたら、王さまだけが持つことを許された金で装飾された鉄製の鏡を頂きたいと申し願ったのではないでしようか?

卑弥呼の時も銅鏡100枚を返礼品に要求してますので、
鏡を持つことが権威を示す道具だという風潮が有ったようです。

なので、この時に金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を受け取った確率は高いと思います。

そして当時の皇帝は、

金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を授けた国名が、
委奴国と謗る漢字を使用した国に渡したとなると皇帝の面子にも関わるので、

イト国の漢字表記を、敬意を払い、

委奴国から伊都国に改名した。

ゆえに、日田のダンワラ古墳から出土した金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は、

伊都国の帥升王がこの時、中国の皇帝より受け取った物と考えられます。

中国が何も因果関係のない国に伊と都の最上級の漢字を使うと思いますか?

卑弥呼が親魏倭王の称号と金印紫綬を授かった邪馬台国でさえ、邪魔や邪悪の邪、挙句に動物の馬、これは馬鹿の馬、を使っています。また、卑弥呼の卑は卑劣の卑を使用してます。全くひどい漢字を使って書き表わしています。

しかし、伊都国は何故か美しい漢字を使って書き表わしています。

これって伊都国は、中国からの信頼関係が強い絆で結ばれていた証拠じゃないんですか?


委奴国 ④委奴(伊都)国は大分県の日田に在った

2022-09-03 20:50:00 | 金印「漢委奴国王」


では、委奴国(伊都国)はどこに所在していたのかを探って行きます。

魏志倭人伝には伊都国についての説明文が下記漢文に書いてあります。


東南陸行五百里到伊都國

官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚

有千餘戸 丗有王 

皆統屬女王國 郡使往来常所駐



「東南に五百里ほど陸行すると伊都国に到る。

官は爾支と言い、副は泄謨觚、柄渠觚と言う。
千余戸有り。代々王有りて、

皆、女王国に属す国を取りまとめている。
郡使往来の時は常に駐する所なり。」



伊都国には、代々王が有り、

郡の使者が倭に来た時は、

常にこの伊都国に留まると書いてあり、

この伊都国が西暦57年に

後漢の光武帝より授かった

金印に刻まれている「漢委奴国王」の

委奴国であったのは、

疑いの余地が全くありません。


では、この委奴(伊都)国は、

どこにあったかは、

私の「光正説」から導いた答えが
以前のブログにて説明してますが、

私の解釈は、下記魏志倭人伝の漢文に書かれている

東南陸行五百里到伊都国

これを、素直に解釈すれば
東南方向に500里歩いて行けば伊都国に行き着きます。
と書いてあり、この東南に500里行ける道を、
地図上で照らし合わせれば、
博多から日田に通じている日田街道が適合しました。

この日田は地形的にも恵まれていて、

日田から博多へも行けるし
日田から久留米へも行けるし
日田から中津へも行けるし
日田から熊本へも行けるし
日田から別府へも行けるし

中国で言う衣食住行の行にはとても便利なエリアです


ゆえに、私のたどり着いた解釈は、

伊都国は大分の日田に有りました。



私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、

九州大分県の日田であると確信しています。

そして、この九州大分県の日田のダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡が発掘されています。

この金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は中国では、王さましか所有を許されていない鉄鏡だそうです。

なので、日田のダンワラ古墳からこの金銀錯巌珠龍紋鉄鏡が発掘されたと言うことは、この日田には中国では王さましか所持出来なかった

金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を所持出来た王さまが、居たという証拠になります。


委奴国  ③委奴国は伊都国である

2022-09-03 20:49:00 | 金印「漢委奴国王」


金印に彫られている「漢委奴国王」の読み方が「漢の倭の奴の国王」と

解釈すると、
「漢の倭の奴の国王」の倭の漢字が金印では、
なぜ「漢委奴国王」の委の漢字になっているのでしょうか?
おかしくはないでしょうか!

西暦57年に漢より授かった金印に彫られている「漢委奴国王」は
一般的には漢の倭の奴の国王と解釈され、魏志倭人伝に30国の国名の中の奴国と解釈されてますが、
そうすると納得出来ない(話の辻褄が合わない)点が出てきます。
果たして金印に彫られている「漢委奴国王」の委は倭が正しく金印の委は倭の彫り間違いなのでしょうか?
あるいはわざと倭を委とワザと彫ったのでしょうか?
ワザと倭を委と彫る必要性が有ったのでしょうか?
又、彫り師が間違って倭を委と彫ってしまったが光武帝は気がつかなかったのか?
或いは、相手は漢字が読めないからそのままで良いと間違った漢字表記の金印を渡してしまったのでしょうか?

この様な不自然な解釈がますます分からなくしてるのではないでしょうか?

なぜ魏の時代には後漢より金印を受け取った奴国が衰退して、

邪馬台国の卑弥呼が、魏国の皇帝より金印を受け取る事になったのか?

魏志倭人伝にはそんな事は一切書いてなく、また、その他の中国の古文書にも一切書いてありません。

奴国が金印を授かった国だと、過去に王がいた事が魏志倭人伝には記述されてません。


奴国が衰退し邪馬台国が奴国に代わって力を付けて来たのではなく、
西暦57年に金印を授かったのは倭の奴国ではなく、委奴国ではなかったのでしょうか?
委奴国は倭の奴国と読まず委奴国という国があったのではないでしょうか。
その様に読んだ方が自然だと思います。

では、委奴国とは、魏志倭人伝の記述されている30国の内、どの国でしょうか?
 委奴国は後漢の光武帝から西暦57年に金印をもらい
委奴国の首長は委奴国王と漢の国より認められる事が出来た。
これは大変な事で、他の国が勝手に王と名乗ってもそれは認められない。
例えば誰かが勝手に「私は天皇だ」と言っても周りで誰も認めないのと一緒です。
しかし、委奴国は中国の後漢の光武帝より委奴国の王と名乗っても良いとお墨付きを
頂いたのだから、委奴国の首長は正々堂々と委奴国王と倭の国々に言い振舞ったのではないでしょうか?
なので、倭の国々で唯一王と名乗れたのは委奴国の首長だけです。

この様に西暦57年に中国後漢の光武帝より王と名乗るのを認められてから
委奴国の首長は代々王を引き継いできました。


私が調べた限り、魏志倭人伝の漢文のうち、王の記述が有るのは、

1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国の3国のみでした。



1、伊都国 (代々王が有る)


2、邪馬壱国(女王の住む都)

3、狗奴国 (男子を王と為し)

魏志倭人伝に伊都国は代々王がいたと記述されています。

委奴国は伊都国で漢字表記は変わっていますが、委奴国と伊都国は同一国です。
金印を授かった当時は委奴国と権威のない漢字を使って表記されていたが、
後に委奴国は「都」の漢字を使い、

また「伊」は中国でも権威のある人物の姓に使われている漢字表記にグレードアップされてます。
伊都国の王は後漢の皇帝と信頼関係が深かったのではと推測出来ます。


委奴国 ②委奴をどう読むか?

2022-09-01 12:06:00 | 金印「漢委奴国王」

それでは、金印に彫られている「漢委奴国王」を検証していきます。
この「漢委奴国王」は、どのように読むのが正しいのかは
研究者により、いろいろあります。

いちばんの原因は「漢委奴国王」の「委奴国」をどの様に読むかが問題になります。
この「委奴国」は研究者に依って次の様な読み方があります。


 「委奴」→倭の奴

 「委奴」→ヤマト

 「委奴」→イト

 「委奴」→ワヌ

 「委奴」→ウド

 「委奴」→イド

 「委奴」→イナ


このうち現在は、「委奴」→倭の奴と読むのが通説になっています。


即ち、「漢委奴国王」は「漢の倭の奴の国王」と読むのが正しいと解釈されてます。

この読み方が正しいとすると、「倭の奴の国」が金印を授かり、王と認められた事になります。


「倭の奴の国」とは、魏志倭人伝に記述されている30国の内の「奴国」になります。


しかし、魏志倭人伝に記述されている「奴国」は次のような紹介文しか書かれてません。


 奴國  官日兕馬觚 副日卑奴母離 
(奴国 官は兕馬觚と言い、副は卑奴母離と言う。)


これしか書いてなく、王がいたとか、王が存在してるの記述がありません。


魏志倭人伝では、その他の国はどう紹介してるか調べてみました。



 對馬国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
(対海国 その大官は卑狗と言い、副は卑奴母離と言う。)



 一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
(一大国 官は亦た卑狗と言い、副は卑奴母離と言う。)



 

 伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 丗有王 
伊都国 官は爾支と言い、副は泄謨觚、柄渠觚と言う。代々王が有る




 不彌國 官日多模 副日卑奴母離 
(不弥国 官は多摸と言う、副は卑奴母離と言う。)


 投馬國 官日彌彌 副日彌彌那利 
(投馬国 官は弥弥と言う、副は弥弥那利と言う。)


 邪馬壹國 女王之所都 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 
邪馬壱国 女王の都 官は伊支馬有り。次は弥馬升と言い、次は弥馬獲支と言い、次は奴佳鞮と言う)

 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 
狗奴国 男子を王と為し その官は狗古智卑狗有り)




上記、魏志倭人伝の漢文のうち、王の記述が有るのは、

次の3国のみである。



1、伊都国 (代々王が有る)


2、邪馬壱国(女王の住む都)

3、狗奴国 (男子を王と為し)



なので、金印に刻まれた「漢委奴国王」の漢字の解釈は、

「漢の倭の奴の国王」の様に読むと、

魏志倭人伝の記述内容に符合しなくなります。