第12章 「日中戦争・太平洋戦争と戦時厚生事業」pp.261-281
西暦では、1937年から1945年まで。
この時期は、まさに「戦争中」です。
○ 昭和13年=1938年 厚生省が創設された(→今日の「厚生労働省」)
当初、陸軍省が1937年提案したのは「衛生省」案(兵力維持)
反対にあい、「保健社会省」案に変更
枢密院の勧告で、中国の古典『左伝』の「正徳利用厚生」からとって「厚生省」に。
*2008年のいま、官邸に「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」が置かれた。(8月7日)
○ 地方でも、「社会課」→「厚生課」の改称が目立った。
地方の社会事業協会→「厚生事業協会」へ
○ 1941年人口政策確立要綱(まさに私が生まれた年)
「生めよ増やせよ」のスローガン
→このときの政策的な人口増、戦争による死亡、戦後のベビーブーム
という大きな人的・政策的な人口変動が日本の高齢化社会をもたらすことになる。
○ 国民健康保険 昭和13年
労働者年金保険 昭和17年→「厚生年金保険」に改称 昭和19年
*1939年(昭和14)国防上の理由から船員保険法ができた。この中に年金が組み込まれていて、日本における公的年金の始まりです。
このように、戦後の社会保障のさきがけとなるような政策もあった。
○ 戦争と社会保障は、総力戦となった近代戦争の必然的な結びつきともいえます。というのは、1941年8月に、アメリカとイギリスが戦争終結後の世界を話し合った際の有名な「大西洋憲章」には、外交・経済の事項の全8項目の中に、第5項目として social security の文言が入っています。
*当時の外務省訳では「社会的安全」と訳している。戦後になって「社会保障」と訳しなおされる。(当時の日本には「社会保障」という概念・用語はなかった)
**イギリスの戦後の社会保障政策の方向を示した有名なビバリッジ報告は、1941年から検討し、1942年に公表されたものです。戦争中に戦後のあるべき社会を構想し、その基本線は戦後実施された。そこには、思想と技術体系があった。
→日本の戦争中の立法には、社会保障という原理や思想があったのではなく、「健民健兵」政策の一環としての立法だった。
*戦後、「国民皆保険」「国民皆年金」といわれるのは、戦争中の「健民健兵」をもじったものだ。吉田、p.267
○ 1940年 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」を発した。
*たしか、マッカーサーは町内会を禁止したはずだが・・どっこい、鹿児島では生きていますね。
○ 吉田先生の本では、戦時下でも良心的な発言をした人の紹介がありますが、
「この期はすでに戦時厚生事業を正面から批判できる時期ではなかった」p.279
*マスメデイア(大新聞)が戦争遂行をバックアップするのもこの頃です。
○ 野口悠紀雄先生の有名な概念に「1940年体制」があり、軍需産業政策が戦争中の官僚組織の強化を生み、戦後も維持・発展してきた、との分析で多くの共感を得ました。
社会保障の分野でも、「昭和13年体制(厚生省)」が生きていますね。
以下、次回以降
第13章 戦後の混乱
第14章 高度経済成長期
第15章 現代
と3章で終わりの予定です。
*写真は、奄美のマングローブ。
奄美・マングローブ原生林写真巡り の8月20日の記事からお借りしました。
西暦では、1937年から1945年まで。
この時期は、まさに「戦争中」です。
○ 昭和13年=1938年 厚生省が創設された(→今日の「厚生労働省」)
当初、陸軍省が1937年提案したのは「衛生省」案(兵力維持)
反対にあい、「保健社会省」案に変更
枢密院の勧告で、中国の古典『左伝』の「正徳利用厚生」からとって「厚生省」に。
*2008年のいま、官邸に「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」が置かれた。(8月7日)
○ 地方でも、「社会課」→「厚生課」の改称が目立った。
地方の社会事業協会→「厚生事業協会」へ
○ 1941年人口政策確立要綱(まさに私が生まれた年)
「生めよ増やせよ」のスローガン
→このときの政策的な人口増、戦争による死亡、戦後のベビーブーム
という大きな人的・政策的な人口変動が日本の高齢化社会をもたらすことになる。
○ 国民健康保険 昭和13年
労働者年金保険 昭和17年→「厚生年金保険」に改称 昭和19年
*1939年(昭和14)国防上の理由から船員保険法ができた。この中に年金が組み込まれていて、日本における公的年金の始まりです。
このように、戦後の社会保障のさきがけとなるような政策もあった。
○ 戦争と社会保障は、総力戦となった近代戦争の必然的な結びつきともいえます。というのは、1941年8月に、アメリカとイギリスが戦争終結後の世界を話し合った際の有名な「大西洋憲章」には、外交・経済の事項の全8項目の中に、第5項目として social security の文言が入っています。
*当時の外務省訳では「社会的安全」と訳している。戦後になって「社会保障」と訳しなおされる。(当時の日本には「社会保障」という概念・用語はなかった)
**イギリスの戦後の社会保障政策の方向を示した有名なビバリッジ報告は、1941年から検討し、1942年に公表されたものです。戦争中に戦後のあるべき社会を構想し、その基本線は戦後実施された。そこには、思想と技術体系があった。
→日本の戦争中の立法には、社会保障という原理や思想があったのではなく、「健民健兵」政策の一環としての立法だった。
*戦後、「国民皆保険」「国民皆年金」といわれるのは、戦争中の「健民健兵」をもじったものだ。吉田、p.267
○ 1940年 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」を発した。
*たしか、マッカーサーは町内会を禁止したはずだが・・どっこい、鹿児島では生きていますね。
○ 吉田先生の本では、戦時下でも良心的な発言をした人の紹介がありますが、
「この期はすでに戦時厚生事業を正面から批判できる時期ではなかった」p.279
*マスメデイア(大新聞)が戦争遂行をバックアップするのもこの頃です。
○ 野口悠紀雄先生の有名な概念に「1940年体制」があり、軍需産業政策が戦争中の官僚組織の強化を生み、戦後も維持・発展してきた、との分析で多くの共感を得ました。
社会保障の分野でも、「昭和13年体制(厚生省)」が生きていますね。
以下、次回以降
第13章 戦後の混乱
第14章 高度経済成長期
第15章 現代
と3章で終わりの予定です。
*写真は、奄美のマングローブ。
奄美・マングローブ原生林写真巡り の8月20日の記事からお借りしました。
しかし厚生省の誕生が戦争の為だったとは正直驚きです。国策の方便の為の福祉では学問として成り立つ訳は有りませんね。
学問である以上理論の検証も必要となるわけですから。
そう考えると昭和初期の福祉政策は江戸幕府よりも劣るとも考えられる訳ですか?
※※『働けど 働けど なお わが暮らし
楽にならざり じっと手を見る』と
詠った啄木は当時のワーキングプア
の代弁とも解釈出来る訳ですね。
コメントありがとうございます。
江戸期に米沢藩で
「国家(藩のこと)は人民(ということばをもう使っている)のためにあるのであって、人民が国家(藩のこと)のためにあるのではない」
と藩主がいましめていた
・・とBSジャパンか何かでさっき言っていました。