カトリック情報 Catholics in Japan

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つばさの党 前史

2024-05-20 18:05:13 | 時事
 1年半近く前、NHK党とつばさの党が分裂したときに、十分に調査をして、関係者やこれを主に取材している記者にも接触して、長い記事を書いたのですが、結局、公開せずにいました。当時、NHK党の分裂劇に関心を持ち、下調べをしていたら、それに時間を使い過ぎてしまったのです。公開するタイミングを逸してしまいました。情報にも鮮度があり、時間が経てば経つほど、時事関係の情報は価値が減っていきます。もう、今さらいいや、ということになり、掲載を見送りました。

 その反省もあって、今回は、なるべく早めに知っていることを載せておきたいと思います。こんな場末のブログに載せても、見ている方は少数でしょうが、まあ、書いて載せる側はそれでも楽しいのです(笑) 読んだ本の書評を書いているような感覚です。書いている側はそれで知識の整理ができたりするのです。



つばさの党 前史

 つばさの党の全ては黒川敦彦に集約されます。彼以外に設計者がいたわけではないからです。オリーブの木という前身は存在しましたが、彼が代表になると、彼中心に刷新され、他の主だったメンバーは抜けてしまいました。つばさの党は、彼がすべてを作った団体と言えます。

① 黒川敦彦について

前半生

 党代表の黒川敦彦は今治出身で、大阪大学を卒業後、産業開発機構や阪大のラボに勤めましたが、やがて退職し、起業したようです。いろいろと手を出しますが、どうにもうまくいかなかったようです。リーマンショックの後あたりに廃業し、2010年頃、実家の今治に戻り、帰農します。そこでも、ソーラーパネル事業などに関わるなど、いろいろやってみたようですが、やはりうまくいかなったようです。今治では、事業の為に金を募るだけ募って何もしなかった、金返せ、など、悪い噂が結構あります。

 あまり知られていませんが、もしかしたら、これから報じられてもおかしくない特記事項として、自分には霊感がある、神様の声が聞こえる、と言い出して、宗教らしきものを始めたのも、この頃でした。どうして特記事項と書いたかというと、最近、つばさの党の幹部たちが、一つの家に十名以上で共同生活をしている話が朝日新聞などで報じられ、多くの識者がカルト宗教か?!と騒ぎ始めているからです。

 この頃から、黒川はチャネリングをしている、自分は〇〇神様からメッセージを受けた、神様の名前は▽▽である、などなどと言った話を4年にわたってブログに綴るようになります。

 その後は、極左活動家の斉藤まさしや田中正道(元暴力団だが20年前に足を洗う)と接触するようになり、2014年には「電話勝手連」なる活動をはじめました。

 また奥さんの黒川美樹さんは2015年に愛媛県議選に挑戦し落選、2017年に今治市議選に挑戦し、当選しました。

 同年10月の衆議院選挙では、安倍首相の「邪魔をするため」(彼の先輩であった山本太郎 談)、安倍首相の山口4区に左翼陣営の落下傘候補として立候補し、大差で敗れます。

 私が黒川敦彦を知ったのも、その頃でした。ちょっと危険な人としてメモしたのを覚えています。ちょうど、森友加計学園問題で、日本中が大騒ぎになっている真っさなかでした。

 彼の師の一人であった田中正道によると、この時、集まった選挙資金1500万円のうち、800万円ほどが余ったが、それを彼は着服して、一人で使ってしまったそうです。この数年間で、彼は再び大きく変わっていったのでしょう。
 以後、彼は田中の下からも離れ、活動家として、いろんなことに手を出します。新型コロナが流行った時期には、反ワクチン運動もやっていました。


(続けるとしたら)
 もし続編を書くとしたら、オリーブの木~つばさの党、そしてNHK党との合流と離別について書こうと思います。ワクチン運動の時も少しだけ黒川の話を見聞きしました。私はNHK党がどうにも嫌いでしたから、彼らがNHK党と関係を持った時期には、そんな視点で興味を持って黒川の話や報道を眺めたものでした。

(大きな問題行為をして捕まった容疑者ですので、敬称は省きます)

(追記)一言で言うと、この団体は、新手のカルト団体です。ただ、どうしてこんなカルト団体が日本に生まれて、蔓延っているのか、解説することに、一定の価値があると思いました。


イランで大統領搭乗のヘリが墜落

2024-05-20 13:47:51 | 時事

 イランで大統領と外相が搭乗したヘリコプターが墜落したようです。残骸も発見され、生存は絶望的とのことです。時期が時期だけに、イスラエルによる暗殺も疑われるのでしょうね。イランのテレビ局は、さっそくイスラエルの関与の可能性をほのめかしているようです。

 そして、テクノロジーがここまで発達した現代、仮にこれが天候による不運な事故だったとしても、イラン人は誰もが内心でイスラエルを疑うのではないでしょうか。

 BBCによると、ロシア政府は原因の調査に協力したいと申し出ているようです。
 




シェナの聖ベルナルディーノ司祭   St. Bernardinus C.  

2024-05-20 04:32:06 | 聖人伝
シェナの聖ベルナルディーノ司祭   St. Bernardinus C.      記念日 5月 20日


 聖ベルナルディーノは15世紀にいけるイタリアの有名な説教家で、またアッシジの聖フランシスコの弟子中最も世に知られた一人であろう。その名のベルナルディノとは、「小さいベルナルド」という意味であるが、それかあらぬかクレルヴォーの聖ベルナルドに酷似した点の少なくないのも興味深い。

 ベルナルディノは1380年、聖母マリアの御誕生日なる9月8日、シェナ市に程近いマッサ市の名門アルビゼシー家に生まれた。まだ7歳に充たぬ頃、同市の市長の重職にあった父にも母にも死に別れたので、信心深い伯母の手に育てられ、11歳を迎えるや通学の為シェナ市なる伯父の許に引き移った。性質は社交的で極めて快活明朗、諧謔冗談等を好んだが、ただ卑猥な言葉は蛇蝎の如く忌み嫌い、誰かかかることを口にする者があると、遠慮無くこれを咎めるのが常であった。されば彼のこうした潔癖さは友達の間でも広く知れ渡り、彼の前ではいずれも口を慎むようになったという。彼がかくまで清浄潔白を愛した主な原因は、平生童貞聖マリアに対して、深い尊敬と信心とを有していたからにほかならない。
 それに就いてこういう話がある。その頃シェナ市のカモリア門には麗しい天の元后の聖像が飾ってあったが、青年ベルナルディノは殊の外それを好み、暇さえあればそこへ出かけては祈祷や黙想をしていた。所が伯母トビアは彼が毎日のように家をあけるのを見て気が気ではなく、ある日その行く先を問いただすと「それはそれは美しい女の人に逢いに行くのです」との返事である。で、いよいよ心配でたまらなくなった伯母は、翌日ひそかに彼の後をつけていくと、門の傍の、石のほこらの中にその姿が消えたので、さてここが密会の場所と胸を轟かせながら様子を窺えば、予期した怪しい女の姿はなくて、ただ例の聖母像を前にベルナルディノが一人祈りに沈んでいるばかりであったから、さては彼の言った類い希な美人とはこの聖母の事であったのかと、伯母は安堵の胸を撫で下ろすと共に、今更の如くその敬虔さに感服したということである。
 ベルナルディノは青年時代に天主や聖母をかように愛したばかりでなく、隣人愛の実行にも極めて熱心であった。即ちデ・ラ・スカラ病院に設置されていた看護人の信心会に入会し、度々病者を見舞ったり、その21歳ころペスト流行に際しては、独力で不十分な所から同志の青年を糾合し、命を的に罹病者救済に努めたりした如きその一例である。その節、友人の中には不幸病に感染して一命を落とした者もあったが、ベルナルディノは終わりまで無事であった。しかし後他の大病を患い、危篤に陥りつつも不思議に快復全癒した。その病中彼は世間を離脱する心を深め、快復後は主の御旨のある所を知る為に暫く静かな所に退いて、祈りと黙想とに親しんだ。その結果彼はアッシジの聖フランシスコの修道会に入る決心をし、その願望が成就したのは1402年の事であった。彼の聖母に対する崇敬の念が如何に厚かったかは、その着衣式、誓願式、また司祭になってからの初ミサの日を、わざわざ聖マリアの御誕生の吉日に定めたことによっても察せられよう。
 ベルナルディノは叙階後長上より説教者に任ぜられた。之は学識豊かに弁舌巧みな彼にとっては全く打ってつけの役であったが、ただ困るのは彼が生来声量に恵まれていないことであった。しかし聖母に御取り次ぎを願った所、不思議にもその欠点も除かれて、朗々たる音吐となることが出来たという。
 彼の説教はいつも聴衆を感動させぬことはなかったが、殊に因習打破、風俗改善の上には驚くべき効果をもたらし、彼が賭博の罪悪なる所以を説くや、人々はすぐさま家からサイコロやカルタの類を持ち来たり、之を火中にしたなどの話もある。ベルナルディノはそういう人達の善良な決心を一時限りに終わらしめぬよう、イエズスの聖名に対する信心を新たに提唱し、また聖母並びに聖ヨゼフに対する信心を奨励した。その他或いは「慈悲の山」という質屋をはじめ、細民の便宜を計り、或いは慈善病院、孤児院を起こすよう勧説するなど、大いに公益の為尽くす所があった。
 イエズスの聖名の信心に就いては、悪意を抱く人々から教皇マルチノ5世に誣い訴えられ、為に暫く説教を禁止される憂き目を見たが、彼は少しも怨み憤る心なく、よくその試練を忍んだ。その後教皇は詳しい調査によってベルナルディノの無実を知り、説教を許すは勿論、彼を挙げてシェナ教区の司教にしようとされたが、謙遜な彼は堅く辞退してこれを受けなかった。それからもフェララ司教区やウルビノ司教区司牧を委ねられようとしたが、ベルナルディノはいつもその任に非ずとして遂に司教にならずただ終生一介の説教師たるに甘んじたのである。
 しかし、彼の活動は必ずしも説教の方面のみに限らなかった。世人の信心を温める為の書物も著せば、自分の属するフランシスコ会内に戒律厳守の美風を奨励もした。かくて天主の御光栄の為孜々として働いたベルナルディノは、齢65に達した時大病に罹り、愛し奉るイエズス、マリアの聖名を口ずさみつつ、アクィラ市で大往生を遂げた。
 それから6年目、教皇ニコラオ5世は彼を聖人の列に加えられ、今また彼に対して教会博士の称号を送らんとの運動が起こっている。彼も死して余栄ありというべきであろう。

教訓

 聖ベルナルディノの事跡中最も注目に値するのはイエズスの聖名に対する信心をはじめたことであろう。この信心は聖書(使徒行録4・12)に根拠を有し信仰を強めるに至って効果ある方法であるから、我等も日頃からイエズスの聖名を尊び、これをしばしば唱え、以て主に対する信頼を現すよう心がけよう。聖会は主の聖名に贖宥を付し、殊に臨終の際はこれを口頭、もしくはその力なければ唯心中に於いても唱えるならば贖宥を与えることに定めている。