カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

聖ピオ5世教皇   St. Pius V. P. P. 

2024-04-30 00:00:05 | 聖人伝
聖ピオ5世教皇   St. Pius V. P. P.          記念日 4月30日



 1565年にピオ4世教皇が亡くなった時、最適任者としてそのあとを継いで教皇となったのは、アントニオ・ミカエル・ギスリエリで、彼は1556年に司教に任命されるまで、ドミニコ会の学校で哲学と神学を教えていた。

 ピオ5世として教皇の座についた時、教皇登位を祝う代わりに、その費用を全部ローマ市内の貧しい人々や、経営困難の修道院に送った。司教や司祭は信者達から遠く離れて住むべきではないとして、司教区と小教区に住まわせ、ローマ市街における闘牛や動物いじめを禁止し、日曜日を聖日として守るように勧め、月に一度、特別な法廷を開いて、不正に扱われている者を招いて、その言い分を聞くようにした。

 1571年、トルコ軍が東欧のキリスト教国を侵略し、大艦隊を連ねてイタリアへ向かってきた。ピオ5世教皇はヴェネツィアとスペインの君主と協議して連合軍を組織し、敵を迎え撃つことにした。同年10月レパントの戦いでトルコ軍は撃滅された。ピオ5世の教皇としてわずか6年しか在位しなかったが、偉大な業績を残したのであった。










9-3-3 クロンウェル登場

2024-04-29 19:14:56 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
3 クロンウェル登場

 一六四二~六〇年にわたるピューリタン革命がはじまったが、あいたたかう国王派と議会派とは、どんな人びとからなっていたか。
 同時代人の証言によると、国王派に味方したのは貴族、ジェントルマンの大部分とその下の農民などであり、議会派にはしったのは貴族、ジェントルマンの一部とヨーマン、商工業者などであったという。
 そしてイギリスでは貴族・ジェントルマンが一団となって一方の味方につくということはなく、現実には地方的利害とか、親族関係などが大きな役割を演じ、事態をもっと複雑にしていた。
 地理的には商工業が発達し、富裕な東部、南部が議会派の、おくれた西部、北部が国王派の地盤となったが、毛織物生産地帯やロンドン、ハル、プリマスなどは議会派に属した。
 宗教上では、議会派にはピューリタンが多かった。国王派の大部分は国教に属し、一部にカトリック教徒がいた。
 革命の初期は国王軍が優勢であったが、議会軍の劣勢を建てなおしたのがオリバー・クロンウェル(一五九九~一六五八)である。
 クロンウェルは自分でいっているように、「生まれながらのジェントルマン」で、ピューリタニズム色のつよいケンブリッジ大学に学び、父の死にあって退学したが、のちロンドンにでて法曹学院にはいった。
 結婚したのち、彼は故郷に帰り、父の残した土地の経営に従事した。
 このころ信仰の目ざめを体験し、神によって選ばれたものであるという意識をもち、一人のピューリタンとして人生を歩むこととなった。      

 クロンウェルは開戦とともに議会軍に加わった。
 そして東部連合の諸州から、敬虔(けいけん)で献身的なピューリタンのヨーマンを集めて、騎兵隊を組織し、一六四四年七月、王軍を、ヨーク西方のマーストン・ムーアで破った。
 この騎兵隊が鉄騎隊とよばれたものである。
 しかしはじめ議会派の主導権をにぎっていた貴族は王との妥協を欲し、徹底的に戦うのを回避する傾向があった。
 エセックス伯もそうであったし、司令官のマンチェスター伯はいった。
 「我々が王を九十九回やぶっても、王はなお王であり、また王の子孫も王となろう。だが王が一回でも我々をやぶれば、我々は首をくくられ、子孫は奴隷とされよう。」
 クロンウェルはこういう司令官をいれかえ、鉄騎隊にならって軍隊を改組することに決意した。
 そして一六四五年二月、編成されたのが「新模範軍」である。
 これはピューリタニズムを精神的支柱とし、革命遂行のため能力本位に編成され、誰でも隊長に任命された。
 そしてクロンウェルがその副司令官の地位についた。
 新模範軍は一六四五年六月、国王軍をネーズビーの戦いにおいて徹底的にやぶり、二年後、国王軍の本営のあるオックスフォードを陥落させた。
 この間、王はスコットランドにはしったが、交渉がまとまらず、一六四七年一月スコットランドは王を議会軍の手にわたした。



円安は輸出に有利なのか?

2024-04-29 07:33:07 | 時事


 単純に判断するとその通りですが、日本円の価値がこのまま下落していったとして、日本が高度成長期のように円安をバネに輸出大国に転じることができるかは、怪しいでしょう。勿論、部分的にはできるでしょうが、時間はかかりますし、かつてより競争率は高く、産業の構図も複雑です。


①、日本で進行する産業空洞化

 かつて、日本は製造業で栄えました。自動車は勿論のこと、半導体から船舶から、多くの工業製品の数割~過半が日本で製造され、輸出され、日本はその利益で潤いました。しかし、長く続いた円高と不況によって、国内の産業は窒息してしまい、工場の多くは経費の安い海外へと出ていってしまいました。

 円安になれば、構図はかつてと似てきますから、海外移転した工場も、再び国内に戻って来てくれるかもしれません。しかし、それには、多くの課題があります。


②、技術格差

 日本の衰退の主因が円高にあったにせよ、他にあったにせよ、既に日本は多くの分野で、その部門の主要国と比べて技術的に遅れており、5年から10年の格差があります。自動車部門は別ですが、半導体をはじめ多くの分野で、日本の各企業は撤退して久しく、かろうじて残っていても、中国・韓国・台湾・米国などと比べて、技術的に劣っています。

 工場を日本に作っても、失われた技術、ノウハウ、職人、下請け、これらを再び培うのに、時間がかかるでしょう。部分的に海外から輸入すれば補えますが、その面は、円安の恩恵を受けることはできません。


③、海外企業の誘致

 こうした点は、最近、政府主導で台湾の半導体企業TSMCの工場を熊本県に誘致したように、外国企業の工場の国内誘致をすれば、手っ取り早く解決できるかもしれません。彼らは、ノウハウも技術も持っています。そして、外国企業であれ、工場が日本で操業すれば、その従業員はじめ、関連企業や周辺の商業施設は潤います。

 ただし、彼らは日本発祥の企業ほど、日本国内にその利益を再投資してくれるかはわかりませんし、独自の企業間貿易をしているでしょうから、どこまで日本の下請けに頼ってくれるかはわかりません。そもそも、国内の下請け企業の多くは、この30年の間に厳しい円高と輸出不振で廃業してしまったのですが。この点は、日本企業が国内回帰した場合でも、同じことが言えるかもしれません。

 さらには、これから国内回帰する日本企業、新たに日本から企業が育つ場合、これらの外国企業の支社・工場は、強力なライバルになるでしょう。

 稼いだお金を落としてくれるか、法人税がどこまで取れるか、下請け企業の育成に時間がかかる(その間は、工場誘致の恩恵も半減)、国内に日本企業のライバルを作ってしまわないか、これらが、不安点です。


④、日本の慢性的な労働力不足

 高齢化と少子化が進行中の日本では、大変な労働力不足です。今現在は、新興国・発展途上国から、技能実習生などと称して極めて廉価で外国人労働者を雇うことによって、その点を補っています。ところで、円安が進行すれば、外国人にとって日本で働くメリットはなくなるので、新たに来なくなるし、今、来ている人も帰国してしまうでしょう。

 そうなると、誰が工場で働くのでしょうか。産業育成をしようにも、実は労働力の面で日本は問題を抱えています。


⑤、多すぎる競争相手

 戦後~高度成長期の1950~1970年代とは、大きく違う点は他にもあります。かつて未開発であった、中国、アジア各国、インド、アフリカ、その他、多くの国々が開発され、産業が育成され、各国企業が工場を作り・・・つまり、競争率が高すぎるのです。

 いかに円安とはいえ、日本は、インドの低開発地域やミャンマー、バングラデッシュなどのさらに物価の安い地域・国々とも、コスト面で戦っていかなければいけません。これらの国々も、さらに開発されていくでしょう。

 だからといって、日本の製造業が復興できないというわけではないのですが、かつてほどの恩恵は享受できなくなっているでしょう。かつてと比べて、競争相手が多すぎるのです。


結論:
 これらすべてを勘案すると、円安は思ったほど日本の輸出拡大と繁栄に寄与してくれるとは限らず、寄与してくれるとしても、それは部分的で、かつてほどではなく、時間もかかる可能性が高いのです。

 円安を輸出と結びつけて喜ぶ方もいるかもしれませんが、それは少し早計で、もっと用心して事態を見守る必要がありそうです。





シェナの聖カタリナおとめ聖会博士  St Catharina Sinensis V.

2024-04-29 06:21:54 | 聖人伝
シェナの聖カタリナおとめ聖会博士  St Catharina Sinensis V.    記念日 4月 29日


 シェナの聖女カタリナの生涯は、聖パウロが記した「神の愚かなる所は人よりもさとく、神の弱き所は人よりも強し」(コリント前書1-25)という言葉の、良き例証とも言えよう。何となれば、彼女は別に深い学問もないか弱い女の身を以て、当時の紊乱した教会を粛正する上に、他の何人も及ばぬ偉大な影響を与えたからである。

 彼女は1347年聖母御告げの大祝日に、染物師ベニンカサ家の第二十四子として、イタリアのシェナに生まれた。信仰の厚い父母は生計も豊かであったので、数多い子供たちながら何不自由もなく十分に教育を与えることが出来たが、中でもオイフロシネ(朗らかの意味)と呼ばれたカタリナは他の兄弟姉妹と異なり、早くからイエズスその他の御出現を見たり、脱魂状態に陥ったりして、天主の特別の御寵愛を蒙っている者であることを察せしめた。

 かように豊かな霊的恵みを受けていたカタリナであるから、僅か7歳で終生童貞の誓願を立てたのもさこそとうなずかれるが、父母は後にこの美貌の娘を他家に嫁がせようとしてはじめてその事を知り、烈火の如く怒って彼女を下女同様にこき使うこととした。しかしカタリナはただ天主の御慰めを力として、この酷遇を忍ぶこと、実に三年の久しきに及んだのである。

 その内に両親も彼女が天主に選ばれた者であることを悟って、その志を妨げようとはしなくなった。けれどもカタリナが耐え難い心の悩みに襲われ出したのは、却ってその後のことであった。というのは、今まで天使のように清浄だった彼女の胸に、どうしたものか絶え間なく穢わしい思いや想像が起こるようになって、いかにそれを防ごうとしても防ぎ切れなかったのである。
 勿論これは天主の試練に過ぎなかった。しかし彼女には、自分は到底滅亡を逃れ得ない身ではないかと思われるほど絶望に満ちた期間であった。その頃の話である。彼女が例の如く激しい誘惑に苦しめられ、思わずも「ああ主よ、主は私をこの悩みの中に見捨ててどこにおいでになるのでしょう」と怨んずると、胸裏に響く声あって「お前の心の中に!」と答えるので、「でも、私の心にはこんなに穢らわしい思いが充満ちておりますのに」と申し上げた所、更にその声が言うには、「しかしお前はその思いを喜ぶか、どうか?」「いいえ、心底から憎んでおります」「そうであろう。それが即ち私がお前の心の中に留まっている証拠である」カタリナはこれを聞くと深い慰めを覚え、以後は如何に誘惑の嵐が吹き荒れても、毅然として起ち、不動の信念を以て立派な勝利を得たという。

 彼女は三年の間祈り、黙想、労働の中に召し出しに対する準備をし、18歳の時いよいよ許されて聖ドミニコの第三会に加入した。この会の会員は、修道院に入って同志と共同生活をせず、在家のまま聖ドミニコの精神に従って、及ぶ限り福音の勧告を実行し、また他人の救霊の為につくすのである。さればカタリナも入会の後は町中を廻り、貧民には己の持ち物すべてを恵み与えなおその為に施し物を集めてやり、病者には力を惜しまずに仕え、殊にらい病、ペスト等恐るべき伝染病に罹れる者をも厭わず看護し、その他手の足らぬ家の掃除を引き受けるなど、まめまめしく立ち働く有様は、実に感嘆すべき限りであった。にも拘わらず、人間は心のひねくれたもので、かような彼女に就いても悪言を放ち、その名誉を害せんとする者もないではなかった。わけても乳癌を患っていた一人の婦人の如きは、かねてカタリナに一方ならぬ恩誼を受けていながら、その長上に根も葉もない讒訴を試みたりしたが、彼女は少しも悪い顔をせず、なおもその婦人の為に懇ろな介抱を怠らなかった。母がそれを歯がゆい事に思ってたしなめると、カタリナは「イエズス様は恩知らずのユダヤ人等が主を罵詈雑言し、侮辱したにも拘わらず、彼等を救う聖い御事業を決して中止なさいませんでした。それを思えば私も僅か二三度悪口されたからと言って、主の命じ給うた隣人愛の業を捨てる訳には参りません」と気高くも答えたそうである。



 カタリナは度々主の御出現を拝んだ外に、唯飲み物のみで生命をつなぐ恵みをも受けた。その為しばしば厳しい調査が行われ、それにつれて様々の風評も立ち、彼女は衆人の誤解に苦しめられなければならなかったが、ある日イエズスは片手に黄金の冠、片手に棘の冠を携えてお現れになり「わが子よ、いずれか一つを選べ!」と仰せられた。するとカタリナは言下に棘の冠を取って頭に押し戴き、「私はかたじけなくも主の浄配と選ばれました者、主と同じ苦しみの棘の冠こそ似合わしうございます。」と申し上げ、勇ましくも主に倣って十字架の道をゆく覚悟の程を明らかにしたのであった。

 


 かくも殊勝な心がけをよみされたのであろうか、1374年主は又も彼女に現れてその身に五つの聖痕を印し給うた。それらの傷は目にこそ見えなかったが、痛みは極めて甚だしく、死に至るまで癒えなかった。その折り主はまた宣うた「我は汝に知識と雄弁との恵みを与える。往きて各国を廻り、その権力者、指導者に我が望みを伝えよ。」と。
 この聖言に従って、それからカタリナに諸所方々を旅行し、王侯貴族や高位聖職者達を訪れ、平和を守るべき事を説き、書簡や著書を以ても之を勧め、この世に主の御国を来たらしむべく努力した。のみならず当時教皇領内の二都市の市民が時の教皇グレゴリオ11世にそむき皇帝より追放されようとしたのをとりなしたり、七十年程前から教皇が都合によりフランスのアヴィニヨン市に移して居られた聖座を、再びローマに復帰せしめる為奔走したり、そういう方面にも大いなる功績を残した。が、シェナの聖女の使命はそればかりではなかった。その頃教会の上に立つ人々の間に、奢侈贅沢に流れる風があるのを憂えたカタリナは、はばかる所なくその改革方を教皇に進言した。この彼女の勧告は、次の教皇ウルバノ6世に依って実行されたが、不幸にもその方法がやや過激であった為、幾多の枢機卿は不満から離教し、別の教皇を押し立てるに至った。
 カタリナはこの面白からぬ状態を救うべく、彼等に或いは書簡を送り、或いは逢って懇願し、どれほど調停に努めたかわからない。彼女は衆人の躓きとなるその離教者等が、幸いにやがて再び聖会の懐に帰るべき事を主に示され、之を世人にも預言したが、彼女自身はその喜びを見る前に、此の世を去らねばばらなかった。

 一生を主への犠牲として献げた彼女の霊魂が、苦行に病苦に衰え果てた肉体の絆を断ちきって、在天の愛する浄配の御許に急いだのは、1380年の4月29日のことであった。彼女の最後の言葉は「ああ主よ、わが魂を御手に任せ奉る」の一句。享年は33歳、それといいこれといい、奇しくも御主の御最期に似通っているではないか。
 その後彼女の取り次ぎによる奇跡は無数に起こり、1461年、同じシェナ市生まれの教皇ピオ2世は彼女を挙げて聖列に加え、以てその偉徳を讃えられた。

教訓

 聖女カタリナは僅か33年年の生涯を献げて、主の御旨に従い、聖会の為、世の安寧幸福の為、かほどまで尽くす所があった。我等も彼女の如く天主に与えられた使命に忠実に、時を惜しんで勉めるべきである。