カトリック情報 Catholics in Japan

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日本刀を購入!

2024-05-05 07:53:05 | その他
 日本刀を買いました。私にとっては、初めての日本刀で、初めての買い物としては、まあ満足しています。銃砲刀剣等登録証もついていますし。
 受け取りから20日以内に所有者変更の手続きを、登録されている教育委員会にしないといけないそうですので、早急に手続きをしようと思います。この刀は、どうやら昭和39年製、鹿児島県教育委員会が登録先だそうです。

 どうして教育委員会なのかというと、敗戦後、あらゆる武器の所持が禁止になったところ、日本刀はじめ数種の伝統武具だけは日本人の文化ということで、登録制で例外的に所持が許されたことが背景にあるようです。いわば、文化財・美術品という扱いで、教育委員会なのでしょう。



 とはいっても、焼き入れも研磨もされていますし、普通に斬ることはできます。伝統的な工法で作った刀のみ、登録制で所持許可なのですから、当然ですよね。

 握って、抜いて、素振りもしてみましたが、竹刀と比べると重いんですね・・・。

 白鞘ですと、没個性ですし、握りにくくもありますので、拵えは、早いうちに作り直す必要がありうそうです。いくつか、日本刀の拵えの製法を紹介するサイトや動画を参考に、外装(拵え)は作り直そうと思っています。



3-3-6 新しい共和国

2024-05-05 07:52:26 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
6 新しい共和国

 ピューリタン革命は、チャールズ一世の処刑をもって最高潮に達した。
 一六四九年三月、議会は君主制廃止にふみきった――「王という職は不必要で、負担が多く、人民の自由、安全および公の利害に有害であり、王の権力ならびに大権は、たいていの場合臣民を抑圧し、貧乏にし、奴隷化するのに利用されてきた。」
 ひきつづき君主制と不可分の関係にある貴族院が廃止され、五月、イギリスが「共和国にして自由国家」なることが宣言され、イギリス史上はじめて、共和国が出現した。
 しかしその実際はどうであったろうか。
 まず水平派の期待は大きかった。共和国の出現によって、人民協約の理想が実現されるのではないかと。
 ちょうど王が処刑される十日前の一月二十日、第二の人民協約が、軍会議から残部議会に提出された。
 これは、リルバーンが主張して委員会を組織させ、草案をつくったものである。
 しかし軍会議において、リルバーンの表現によれば「全部こなごな」にされ、改訂の内容は水平派を満足させるものではなかった。
 とくにいけなかったのは、当時、王の処刑に気をとられていた残部議会がこれをにぎりつぶし、審議の対象にしなかったことである。
 裹切られた水平派は憤慨し、リルバーンは『イングランドの新しい鎖の発見』を書いて、軍幹部と議会の専制を攻撃した。
 このためリルバーンら四名の指導者は逮捕され、ロンドン塔に投獄された。このときクロンウェルは怒鳴った。
 「これらの人間はこなごなにやっつけてしまう以外にあつかいようがない。
 もし連中をやっつけなかったなら、彼らがきみたちをやっつけるだろう。」
 水平派の、もっとも有力な支持者であった兵士たちのあいだにも不満がたかまった。
 自由と兵士の権利を守るため、彼らが立ちあがる。
 後述のアイルランド進駐の命令をきっかけに、四月、ロンドンでウェーリー大佐の部隊が出発を拒んだ。
 これはただちに制圧された。
 しかしクロンウェルが、首謀者の一人ロッキャーを銃殺刑に処したことから、ロンドン市民の大葬式デモとなった――
 「チャールズ王のときでさえ、この騎兵の半数ほどの会葬者もなかった。」
 その後五月、ソールズベリーとバンベリーの部隊で反乱がおこったが、これまたクロンウェルによって、短日月のあいだに鎮圧された。
 もう一つの大きい事件は、水平派よりさらに急進的な真正水平派の動きである。
 一六四九年四月、その指導者ウィンスタンリー(一六〇九~五二)が貧しい農民たちとサリー州のセント・ジョージ丘で、共有地を掘りおこし、種を蒔きはじめ、土地の共有、共同耕作をよびかけた。
 しかしこの地方の自由農民や教区の牧師が、暴力をもってこれを阻止し、さらに彼らがコバム荘園に移動すると、政府軍がきて解散させた。
 ピューリタン革命のなかでも、人民の立場をもっとも広くかつ深く代表した真正水平派は、こうして弾圧され、地下に埋もれた。
 新しい共和国に反対したのは、左翼勢力ばかりではない。
 右翼勢力からの反革命の動きがあり、それは王の遺子チャールズ(一六三〇~八五)とむすびついた。
 チャールズは、父の処刑後オランダのハーグで即位してチャールズ二世と袮し、スコットランドとアイルランドとは、これを正式の王とみとめた。
 このとき議会から、この反動の拠点アイルランド征服の任を託せられたのが、クロンウェルである。一六四九年八月ダブリンに上陸した彼は、転戦して、アイルランド制圧に成功した。
 これは国王派に対する一大打撃であり、同時にアイルランドの土地の三分の二が没収され、カトリシズムが禁圧され、植民地化の端がひらかれた。
 それは「イギリス帝国主義の最初の大勝利であるどともに、イギリス民主主義の最初の大敗北」と評されている。
 一方チャールズは一六五〇年六月、スコットランドに上陸した。
 クロンウェルは七月、スコットランド遠征を行ない、翌五一年、イギリスに侵入してきたチャールズの軍を破った。
 危機一髪のところをのがれたチャールズは、フランスに亡命する。
 以後スコットランドはイギリスに固くむすびつけられ、イギリスのよい市場になった。
 この間、イギリス国内にもチャールズの動きに応じて一六五一年、国王派や長老派の陰謀がおこったが、いずれもクロンウェルによって弾圧された。



聖ボニファチオ殉教者             St. Bonifatius M.

2024-05-05 05:09:55 | 聖人伝
聖ボニファチオ殉教者             St. Bonifatius M.       記念日 5月5日



 この聖人はドイツの使徒と呼ばれる聖ボニファチオ大司教殉教者と異なり、四世紀ローマに生きていた人である。最初は聖人どころか、キリスト信者の名を汚すような罪の生活を送っていたが、後勇ましい殉教によってその一切を償い、以て聖なる痛悔者の群れに加えられる栄誉をになうに至った。

 彼の少年時代については別に知られていない。しかし壮年の頃は財産家アグラエ嬢の会計係を務め、萬に気の利く所から主人の信頼寵愛も殊の外厚かった。その内彼は独身の嬢と越えるべからざる隔ての垣まで乗り越えて、罪を犯すようになり、金に困らぬままに酒池肉林の快楽をほしいままにした。そういうボニファチオのたった一つの取り柄は、生来極めて慈悲深いことで、主人の承諾を得てはその託せられた財産の中から、哀れな人々に施したり、貧しい旅人をもてなしたりしたことも一再ではなかった。
 「幸いなるかな慈悲ある人、彼等は慈悲を得べければなり」(マテオ 5-7)
 主はこの御約束の如く、慈悲ある人には必ず報い給う。かくてアグラエとボニファチオにはわが罪悪を恥ずる恵みを与え給うたのである。即ちアグラエはある時東ローマ帝国に行われた迫害に雄々しくも殉教した人々の話を聞き、享楽と贅沢のみを事としている我が身に思い比べ、冥利の程も恐ろしくなり、痛悔の情にせめられ、ボニファチオにも改心を誓ったから、彼も同じく改過遷善の決心を起こし、殉教者の遺骨がほしいという主人の望みに応じてこれまでの罪滅ぼしにそれを持ち帰るべく出発した。

 彼はその時途中及び殉教地の信者等に施す為、多額の金を与えられたが、主人と別れるに当たり半ば冗談に「しかし人の運命はどうなるか解らない、私自身が殉教して骨になって帰ってくるかもしれませんよ」というと、アグラエは厳しくそれをたしなめたものの、二人ともその言葉が後に実現しようとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。

 さてボニファチオの一行は長途の旅行を終わって無事目指す殉教地の小アジアに着き、聖パウロの生まれ故郷のタルソに宿泊したが、そこは迫害の最も激しい地方で、彼が町の広場に行ってみると、ちょうど総督シンプリチオがキリスト信者を尋問して、残忍にも或いは拷問にかけ、或いは死刑に処しつつある所であった。ボニファチオはしばらく見ている内に信仰のため身命を献げて悔いぬ殉教者の壮烈さに感激し「キリスト信者にこれほどの勇気を与え給う天主は讃美すべきかな!」と叫んで、殉教者たちの傍らにはせより、彼等を捕縛した鎖に接吻し、何くれとなく慰めたり激励した。

 総督はこれを見とがめ、早速捕らえさせて「その方は何処の者で名は何と言う?」と尋ねると、ボニファチオは恐れ気もなくキリスト信者であることを申し立てたから、直ぐに鉄の鈎爪ある鞭で全身を打ち叩かれるなどの責め苦に逢い、果ては剣で斬殺され、栄えある殉教者の列に加わった。

 宿では従者達がしきりに彼の帰りを待ちわびていたが、一向姿が見えないので、一同探しに出かけた所、はからずも広場にその惨死体を発見し、大いに驚きつつも人々から彼の致命の顛末を聞き、それでは他に聖なる殉教者の遺骨を求めるにも及ばずと、ボニファチオの遺骸を引き取ってローマに持ち帰ったのであった。

 アグラエは変わり果てたボニファチオの姿に、出発の際の彼の言葉も思い合わされて、無量の感慨に打たれたが、またその勇ましい殉教の模様を聞いては心嬉しく、礼を厚くして彼の遺骸をローマ近郊のわが所有地に葬り、後その墓の上に一つの聖堂を建てさせ、ねんごろに彼の冥福を祈ってやった。そして自分もボニファチオに負けず劣らず、主の御召しに添わん為に、財産を貧者に施し、余生を慈善と苦行に過ごして痛悔の誠を致したという。


教訓

 本来罪は償いなくしては決して許されるものではない。聖ボニファチオはかってアグラエと罪悪の生活を続けていたが、一度改心の恵みを蒙るや「汝、貧者に慈善の業を行い、以て汝の罪を償え」(ダニエル 4-24)とあるダニエル書の教えに従い、懸命に贖罪に努めたから、罪の赦しを与えられたばかりでなく、殉教の栄冠を受けて聖人と崇められるに至った。我等も慈善の業を天国への途と思い、機会ある毎にこれを為すべきである。