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4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝」!!「結城秀康(家康の次男)」!!

2023-11-20 13:46:02 | 歴史
11月20日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

結城秀康
(徳川家康 次男)
(岐州 匠)

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。

越前松平家の祖。

下総結城氏第18代当主。

徳川家康の次男で、
豊臣秀吉の養子となり
羽柴 秀康(はしば ひでやす)を名乗ったが、
その後、
結城晴朝の養子となり、
結城の通称で呼ばれるようになった。

通説では
関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから
松平姓を名乗ったとされ、
松平 秀康(まつだいら ひでやす)と呼ばれるが、
一次史料でこの時期に称した名字は
明らかとなっていない。

天正2年(1574年)2月8日、
徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村
(現・浜松市西区雄踏町)で生まれた。

母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。

幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。

誕生地は、
今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の 奉行を務める源範頼の系譜である
領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。

現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、
家康お手植えの梅の木「秀康の胞衣塚」が残る。

この縁により、
のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、
中村家で供応を受ける慣例が続いた。

『柳営婦女伝系』によると、
秀康は双子で誕生し、
弟はすぐに亡くなったとされている。

ただし、
生母の実家である知立神社に伝来する
「知立明神古文書」では、
弟は知立神社の神職となり永見貞愛を称し
31歳まで生きたとされる。

「知立明神古文書」には
秀康から送られた手紙などが含まれており、
年二千俵の援助を行っていたという。

家康の正室・築山殿は
長勝院が家康の子供を妊娠したことについて、
承認しなかったため
浜松城内から退去させられたとされる。

それは正妻としての権限であった。

正妻は、
別妻や妾として承知するどうかの権限を
持っていたと考えられる。

築山殿は長勝院を家康の妾とすることを
承知していないにもかかわらず妊娠したために、
女房衆から追放したのである。

それが江戸時代になると、
妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。

秀康を妊娠した長勝院は
重臣の本多重次の差配により出産した。

城内から追放されたということは、
生まれてくる子供を家康の子供として
承認しないことを意味していた。

秀康は、
重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。

築山殿が承認しない子供であったため、
家康もまた認知できなかった。

そのため
家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。

その対面も、
あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った
兄・松平信康による取りなしで
実現したものであったという。

ただ、
父子対面はあったかもしれないが、
それで家康の子として認知されたわけではなかった。

築山殿が死去してから
秀康は家康の子として認知されたのである。

冷遇の理由は、
築山殿をはばかったためとも、
双子で生まれてきたことにあるともされるが、
寛永11年(1634年)に書かれた
『中村家御由緒書』には
「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、
家康には何か考えることがあり、
お取り上げが難しいということになり」とだけ
書かれている。

研究者の小楠和正は
武田勝頼との戦いに直面していたために
家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、
対面する機会も持てなかったのではないかと
推定している。

天正7年(1579年)、
武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、
兄・信康が切腹させられる
(近年では信康が家康と対立したために
切腹させられたとされる説も有力)。

このため、
次男である秀康は
本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。

しかし、
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、
家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、
秀康は秀吉のもとへ養子
(徳川家や本願寺の認識、
秀吉側の認識は人質)として送られ、
家康の次の後継者は
異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。

母親の身分は
徳川秀忠の方が上であり、
信康切腹前に生まれた秀忠が
当初から後継者だったと考えられる。

同様の先例として、
やはり三男ながら貴族の母親から生まれ、
年少時から二人の兄をさしおいて
官位を受け後継者と見なされていた源頼朝が存在する。

大坂へは、
傅役の小栗大六(小栗重国)と
小姓の石川勝千代(石川康勝)
・本多仙千代(本多成重)がつきしたがう。

家康より
「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。

天正12年(1584年)12月12日、
羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。

河内国に1万石を与えられた。

天正3年(1585年)10月4日には侍従に任官した。

天正15年(1587年)、
14歳のとき、九州征伐で初陣を果たし、
豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。

続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。

天正16年(1588年)、
豊臣姓を下賜された。

また4月までの時点で
左近衛権少将・三河守に任官し、
「三河少将」と呼ばれた。

天正17年(1589年)、
秀吉に実子の鶴松が誕生すると、
秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。

そのためほかの養子同様に、再び他家に出される。

天正18年(1590年)、
実父の家康が駿遠三甲信から、
関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。

秀吉は、
関東平定の功労者である家康へさらなる加増として、
秀康を北関東の大名
結城氏の婿養子とすることを考えついた。

結城氏は
下野国の守護に任命されたことがある名家であった。

秀康は関東に下り、
黒田孝高の取り成しで
結城晴朝の姪(江戸重通の娘・鶴姫)と婚姻して
結城氏の家督および結城領10万1,000石を継いだ。

その後も羽柴姓を称しており、
羽柴結城少将と呼ばれた。

黒田基樹は
結城姓を称したことはなく、
「結城少将」の結城は
あくまで在所名であるとしている。

結城家を継いだ後、
大崎葛西一揆鎮圧のため、奥州に出陣した。

天正18年(1590年)の小田原平定、

天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。

文禄元年(1592年)、
文禄・慶長の役では、
多賀谷三経や本多富正など1500人を率いて
肥前国唐津に滞陣した。

この時期
秀朝の諱を用いているが、
慶長3年(1598年)10月までには秀康に諱を戻している。

慶長2年(1597年)9月28日には参議に任官し、
公卿となったことで
「結城宰相」などと呼ばれるようになった。

慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)6月まで
伏見城を守備した。

同年6月8日、
伏見を発って関東に向かい、
関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。

上杉景勝に呼応するかたちで石田三成が挙兵すると、
家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。

このとき家康によって、
本隊は家康自らが率いて東海道から、
そして別働隊を秀忠が率いて
中山道(東山道)を進軍することが決められ、
秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。

同年9月7日、
徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には
秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、
家康は秀康の武将としての器量を評価しており、
父子がそれぞれの立場をわきまえて
生涯認めあっていたことは確かである。

同年11月、
秀康は越前国北荘68万石余に加増移封された
(越前の他、信濃国、若狭国の一部)。

結城旧来の家臣の中には
越前への移転を拒否するものが少なくなく、
それゆえこの越前移封は
最終的な在地離脱の強制として機能したもので、
その結果、
秀康は自らの権力における
旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。

慶長6年(1601年)7月、北庄に入部した。

「越前松平家系図」などの後世の系譜類では、
慶長9年に秀康が
「本姓に復して徳川姓に改めた」という記述があるが、
秀康が越前入封後に称していた名字が
明確になる史料は存在していない。

通説では「松平」姓を称していたとされるが、
市村高男など否定する研究者もいる。

黒田基樹は家康の子である秀康は、
他の松平家の名跡を継がない限り
松平氏を称することは歴史的に考えられないとしている。

慶長10年(1605年)、
権中納言へ昇進。

慶長11年(1606年)9月21日には
伏見城の留守居を命じられる。

だが病を得て職務を全うできなくなったため、
慶長12年3月1日に越前へ帰国し、
そのまま閏4月8日に死去した。

享年34。

死因は『当代記』に
「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、
梅毒だったとされる。

また梅毒が直接の死因ではなく、
梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。


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「苗字の日」!!「苗字を名乗ることが許された日」!!

2021-09-19 16:22:30 | 歴史
「9月19日(日)」

「苗字の日」

「明治3年旧暦9月19日」
(1870年10月13日)

戸籍整理のため、
太政官布告により
平民も苗字を名乗ることが許されたことを記念。

つまり
明治3年までは
苗字のない人が大多数だった訳ですよ。


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「ポツダム宣言」調印」!!「世界的な日本の敗戦」・・・

2021-09-02 13:58:49 | 歴史
「9月2日(木)」

「ポツダム宣言」調印」
(1945年(昭和20年)9月2日)

アメリカの戦艦ミズーリ号で
重光葵外務大臣が
ポツダム宣言に調印

日本が世界に敗戦を認めた日だ。

国内では
天皇陛下の玉音放送があった
8月15日が
終戦とされているが

世界的な日本の敗戦は
ポツダム宣言に調印した
9月2日と認識されている。


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「生類あわれみの令」!!「五代将軍「徳川綱吉」!!

2020-12-05 13:24:57 | 歴史
「12月5日(土)」

「生類あわれみの令」

「1695年12月5日」
(元禄8年10月29日 (旧暦))

徳川綱吉により
生類憐れみの令の一環として、
中野 (中野区)に16万坪の犬小屋 (江戸幕府)が作られ、
同時に中野の住民が強制退去となる。

中野区の16万坪が
犬小屋(巨大な屋敷)だった訳ですが

犬の世話をする人間が
たくさんいた訳なので
そこで雇用を創出しているし
捨て子を保護したり
職のない者に職を斡旋したり

五代将軍
徳川綱吉は
犬将軍
犬公方と呼ばれ
愚将で悪政を敷いたように思われていますが
実は
最も民衆の事考えていた
名将軍だったと私は考えています。

忠臣蔵や
水戸黄門(徳川光圀)の時代の人なので
映画やドラマで
悪党のイメージをつけられていますね。


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「哲学の日」!!「悪妻の日」!!

2018-04-27 16:41:36 | 歴史
「4月27日(金)」

「哲学の日」

紀元前399年4月27日に、
ソクラテスが
毒杯をあおって刑死したことに由来。

ソクラテスの妻
クサンティッペが悪妻と言われていることから
「悪妻の日」ともされている。

哲学の日はええけど

悪妻の日って嫌な日やな~。



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「学校が教えない」!!「本当の大東亜戦争」!!

2017-08-09 13:57:47 | 歴史
【日本人は何故、大東亜戦争を戦ったのか】

20世紀初頭、世界は白人たちによる 『 白人至上主義 』 『 有色人種支配 』 が蔓延(まんえん)していた。

白人による有色人種への扱いは、強奪のための植民地支配であり、有色人種は人ではなく家畜であった。

16世紀初頭から始まった、欧州列強によるアメリカ・アジア・オーストラリア・アフリカ侵略という時代が続き、有色人種(アジア・アメリカ・オーストラリア・アフリカ・中近東諸国)は白人により土地を巻き上げられ、農作物は収奪され、奴隷として支配され、資源を強奪されつづけた。 

有色人種が持つすべては強奪の対象であり、有色人種の女たちは老婆から少女に至るまで犯され、嬲(なぶ)り殺され、気骨のある男たちは殴られ拷問を受け、虐殺(ぎゃくさつ)されていった。

私たちが普段使っている 「 原住民 」 という言葉は、その土地に暮らしてきた『人間』をイメージさせない、その地に生息する獣のごとき表現であり、白人による侵略を正当化させるために編み出された幻語なのである。

私たちが何気なく使っている「原住民」という言葉は、有色人種に対してのみ使われ、白人種に対して使われたことは無い。

有色人種国家で完全なる独立を保てていたのは、世界で唯一、日本のみ。

かろうじて独立国の体面を保てていたのは、国土を一部割譲させられ、英仏侵略勢力の緩衝(かんしょう)地帯としてギリギリのところで生き残っているタイ王国、そして、大半の領土を割譲(かつじょう)させられた瀕死(ひんし)のオスマン帝国と、欧米列強の分割支配に悦びを感じていた支那(※SINA:中国共産党政権が認めている中国の国際的な正式呼称)の3ヵ国のみ。

有色人種の国々は、すべて白人国家により侵略され、植民地支配され、人々は奴隷となり、何もかもが強奪され、家畜同然の扱いに、あえぎ苦しんでいた。

かつて、黄色人種が自然と共生し平和に暮らしていた南北アメリカ大陸・オーストラリア大陸の国々は、白人国家に侵略され、白人国家となってしまった。

本来の国民であるインディアン(北アメリカ)・アボリジニ人(オーストラリア)は、恐怖を植え付け支配するための拷問にあい、白人が開拓する土地の障害物として婦女子や赤ん坊に至るまで大量に殺害処分された。

生きているものは奴隷となり、女性たちは白人たちの野獣のごとき性欲の犠牲となった。またハンティングの獲物として射殺され、存在自体を否定され、絶滅した種族も多い。

中・南米諸国の本来の国民であったインディオも、すべて、白人国家に侵略され、逆らう男たちは拷問にあい虐殺され、財宝は収奪され尽くし、資源はすべて強奪され、白人のための重労働に酷使された。

女は幼子に至るまで欲望のはけ口として強姦され混血児を生み、同化政策の元、純血種(純粋なインディオ)は絶滅に近い状態にまで激減してしまった。

東南アジアの国々も、すべて白人によって侵略・支配され、人々は奴隷として白人のために生まれ、教育を受けることもなく子供のころから働かされ搾取され続け、資源はすべて強奪され、白人の嗜好品を生産するために食糧の生産は許されず狡猾(こうかつ)なる白人から労働対価として与えられ、殺生与奪権を白人に握られ逆らうことは拷問死を意味した。

 アジアの人々はすべて、白人国家の栄華を支えるべく生きるしかなく、人々はいつ果てるともしれない白人支配にあきらめ虚しく子孫を残した。

お気に入りの有色人種の女たちを犯し続けた、獰猛(どうもう)な白人たちは言う。

「獣(けもの:有色人種は人ではなかった)に人間の種を与えたのだ。 感謝しろ!」

アフリカ大陸に住む黒人たちは、アメリカ大陸で虐殺され激減した黄色人種の奴隷(インディオ・インディアン)の代わりとして狩られ、アメリカ大陸に強制連行され奴隷となった。

狩られた黒人の数、およそ1億人。

過去記事参照↓

https://www.facebook.com/zipangu.to/posts/868919796452516:0

有色人種たちは、この白人支配が未来永劫続くものと、あきらめていた・・・

そんな時、世界最強と謳(うた)われた軍事大国のロシアを破り、「白人優位、白人不敗」の神話を崩壊(ほうかい)せしめ、有色人種国家で唯一「列強国」となった東アジアの小さな国があった。

その国の名は、日本

有色人種国家で唯一「五大国」に列せられた日本は、「人種差別撤廃(てっぱい)、人種平等」を世界に訴え続けた。

大正8年 第1次世界大戦の戦勝国の一員となった日本は、国際連盟に、『人種差別撤廃条項』を盛り込むよう提出。

欧米列強によって分割・植民地支配されていたアジア・アフリカ地域の民衆も、その提案を支持した。

会議では11対5と賛成多数となったが、あっけなく否決された。

議長国のアメリカ・ウイルソン大統領が、突然、全会一致を条件に出し、これを採用しなかったのである。

自国で行っている「強烈な人種差別」を継続させるために、画策したのである。

昭和8年 常任理事国だった日本は、国際連盟を脱退。

支那の侵略を目論むアメリカの理不尽な要求を、拒否したのである。

有色人種の白人への隷属(れいそく)からの解放を迫る日本に対し、アメリカが画策した理不尽極まりない譲歩(じょうほ)を、白人諸国が日本に対して、こぞって迫ったのである。

国内世論は拍手喝采で迎えた。

日本人は、愛する祖国を白人支配の魔の手から守るため、欧米の苛烈な植民地支配からの、アジア開放を決意した。

これは、有色人種の白色人種に対する壮絶な巻き返しであり、当時、その力と気迫を持っていたのは、日本人だけだった。

その結果、欧米と衝突。

アジア諸国に対する日本の勢力拡大を警戒したイギリス・オランダ・アメリカなどのアジア殖民地支配国は、(有色人種で唯一、白人側に寝返った)支那と結託、日本への輸出を制限したABCD包囲網により、日本への資源の輸出を停止。

最終的にアメリカは、日本の生命線である石油の輸出を、完全に停止した。

大半の資源を外国から輸入していた日本にとって、この経済封鎖は・・・・・死を意味した。

それでも・・・・日本は平和を希求し、戦争回避の道を求め続けた。

しかし、アメリカから提示されたのはタイムリミットなき最後通牒(つうちょう)、アメリカへの隷属(れいぞく)を迫る、『ハル・ノート』だった。

その内容は、日本の完全なる敗北を意味するだけでなく、受諾(じゅだく)に対するアメリカよりの条件提示は一切なく、到底受容(じゅよう)できるものではなかった。

ハル・ノートを読んだ、イギリスのチャーチル首相は、側近にこう語った。

「我々が考えて要求したいかなるものより、苛刻(かこく)なものだ」

「奴隷か、戦争か!?」

アジア・アフリカ地域を植民地とし、搾取し続けている侵略者は欧米諸国であり、当時、日本もその毒牙にかかった。

白人による世界支配が続く限り、この戦いは避けることのできない運命・・・

平和を取り返すため、そして、すべての有色人種の『人間としての尊厳(そんげん)』を取り返すため、有色人種として唯一、欧米列強に立ち向かう決意に至る。

「対米開戦やむなし!」

アメリカの国力は30倍以上。

有色人種を裏切り白人種側についた(米英が支援する)支那だけではなく、列強5ヶ国『英仏蘭ソ豪』も相手になるだろう。

国を挙げての総力戦に、どうみても勝ち目はなかった。

しかし、抵抗なき敗北ではアジア・アフリカ諸国のように、人間としての誇りを喪失させられ、植民地支配され、奴隷(どれい)となるだけ。

「日本人は、隷属(れいぞく)を選ぶ民族ではなかった」

未来の子供達が虐(しいたげ)げられることなく、日本が独立国家である為に、民族の不屈精神を誇示し、「武士道精神」を世界に知らしめんとす。

戦わざれば亡国、

戦うもまた亡国であれば、

戦わずして亡国は身も心も

民族永遠の亡国である。

戦って死中に活を見出し

護国の精神に徹するならば

たとい戦い勝たずとも、

護国に徹した

日本精神さえ残せば、

我らの子孫は必ずや

再起、三再起するであろう。


永野修身 元帥 (海軍大将)

大東亜戦争とは

欧米列強による世界支配を、日本が阻止した戦いであり、全世界の有色人種の未来を担った戦いだったのである。

こうして日本は3年半にも及ぶ大戦争に、突入していく。

大東亜戦争とは、白人の植民地支配から、『アジア民族の独立・解放』以外に、真の合理性は見いだせない闘いだったのである。

平等、そして平和を希求する、日本古来よりの「八紘一宇」(はっこういちう)の精神、ここに極まれり。

昭和16年12月8日 「大東亜戦争、開戦」

山下大将率いる陸軍がイギリス領マレー半島を、山本司令長官が指揮する海軍はハワイの真珠湾を攻撃。

天皇陛下による『米英両国に対する宣戦の詔書』が国民に対し読み上げられ、大東亜戦争に突入した。

日本の陸・海軍は、開戦直後から連戦連勝、破竹の進撃を続けた。

しかし、昭和17年6月 アメリカ軍を侮(あなど)った日本海軍連合艦隊は、ミッドウェー海戦で大敗。

続く、昭和17年8月 「ガダルカナル島」

米豪を遮断すべく立案されたガダルカナル島での戦いは、悲惨を極め、日本軍は5千の戦死者と、1万5千の餓死者を出し「餓島」と呼ばれた。

平和を愛し戦争に不慣れな日本人の軍隊に対し、有史以来、作ることより強奪を旨とし、計略をもってダマし合い、戦いに明け暮れ、豊富な戦争経験を持つアメリカ軍(白人種)の戦い方は、一枚も二枚も上手であった。

太平洋上における戦局は逆転、島嶼(とうしょ)での撤退・玉砕が始まる。

それでも日本は、国力のすべてを結集して戦った。

戦況は圧倒的に不利

しかし誇り高き日本軍将兵たちは、白人支配による植民地の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)からの「東亜の解放」そして「己の命に代えてでも、アメリカの侵略から日本を死守する!」本気で誓い合い、輸送船団が次々と沈められ補給が途絶え、武器・弾薬・食糧が底をつき、地獄の苦しみの中にあっても闘い続け、故郷の家族を想いながら死んでいった。

「魂は、靖国神社に帰る」と信じて。

「靖国で会おう」が、合言葉だった。

昭和18年10月 「学徒出陣」

10万人の大学生達がペンを捨て銃剣を取り、戦地に赴いた。

戦後教育を受けた我々の世代とは違い、アメリカ人(白人)が、インディアンやハワイ人、そしてフィリピン人に対して行ってきた「悪鬼(あっき)のごとき蛮行(ばんこう)」を正確に知っていた、当時の若者たちの思いは一つ。

「負ければ亡国、鬼畜のごとき米英の植民地になる。植民地の様相は筆舌(ひつぜつ)に尽くし難い悲劇。そんな悲惨な事態は、俺たちが絶対に食い止める!」

敗戦色濃い前線で、軍事教練わずかの彼らが投入されたのは、あらゆる種類の「特攻」「玉砕」作戦であった。

秋雨の明治神宮外苑の陸上競技場で65,000人の女子学生や後輩が見送った。

玉砕した一兵士の詩がある

【もし玉砕して、そのことによって

祖国の人達が、少しでも

生を楽しむことができればと

せつに祈るのみである

遠い祖国の若き男よ

強く逞しく、朗らかであれ

なつかしい遠い祖国の

若き乙女たちよ

清く美しく、健康であれ】

昭和19年3月 「インパール作戦」

陸軍牟田口中将と大本営のエリート官僚(今に続く官僚の無責任体質)により強行されたインパール作戦は、勝機を逸した遅すぎる無謀極まりない作戦内容であったが、イギリス植民地であった「インド解放」を目指しインド兵と共に戦場に赴き、補給が続かず飢餓地獄となるも、最後までインド兵と一丸となって戦い7万もの将兵が戦地に散った。

昭和19年6月 「マリアナ沖海戦」

航空戦力をかき集めて決戦を挑んだマリアナ沖海戦では、レーダーを活用したアメリカ海軍空母機動部隊に大敗。日本海軍の機動部隊は壊滅(かいめつ)、連合艦隊は戦う力を失った。

アメリカ軍、サイパン島へ侵攻。

絶対国防圏、破られる。

圧倒的物量差、戦力差への「特攻」「玉砕」

昭和19年10月25日 「レイテ作戦を支援」

神風特別攻撃隊「敷島隊」、フィリピン基地より出撃。初出撃で大戦果を挙げる。

特攻隊員は、全国から集められた精鋭(せいえい)であり、卓越した運動神経を持つ高学歴のエリート達だった。

戦争を指導するエリート官僚や一部の将軍はおろかで無責任あっても、特攻隊員たちは、人一倍、故郷を想い、友を思い、家族を恋人を愛する、愛に満ちた、平和を愛する、愛国心(※故郷への愛)に燃えた人々であった。

彼らは、アジアの解放という「大義」のため、故郷(ふるさと)に残してきた愛する人々を守るため、そして日本の将来のために、若い命をささげたのである。

参考動画↓

https://youtu.be/dcbH6TcvUro

特攻は敗戦の日まで続いた。

特攻が敵に与えた恐怖は絶大であった。

「特攻が来た!」と聞くだけで、米兵は艦を捨て海へ逃げる者もいた。

特攻の恐怖から、精神に異常をきたした艦長までいた。

特攻作戦での戦死者は5,845名、みな前途有望な若者達であった。

昭和20年2月 「硫黄島決戦」

硫黄島で、米軍は、この世の地獄を味わった。

米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのんだという。

アメリカを知り抜いた名将、陸軍 栗林中将に率いられた「死を覚悟した」まさに死に物狂いの日本軍の抵抗は凄まじく、「日本とだけは、二度と戦いたくない!」と願わずにはいられなかったという。

昭和20年3月10日 「東京大空襲」

真冬の乾燥した風の強い日を狙った、アメリカ軍による無差別の民間人大量虐殺であった。

26万軒が焼失し、死者10万人、負傷者4万人、家を失った人は100万人を超えた。

昭和20年4月1日 「米軍沖縄上陸」

日本国内で最大規模の陸戦となった。 沖縄では、県民が一丸となって侵略者と闘って大勢の尊い命を落とした。

米軍による陸海空からの猛砲爆撃は地形が変わるほど激烈を極めた。「鉄の暴風」「鉄の雨」と呼ばれ、その悲惨さは「あらゆる地獄を一ヶ所に集めた」と表現されるほどであった。

それでも徹底した抗戦は、アメリカ軍を恐怖の淵に落とし込んだ。

この戦いには、多くの誇り高き沖縄県民が「大義のため」「日本のため」「愛する家族のため」に命を懸けて戦い、後方支援の協力をした。 「姫ゆり部隊」をはじめ多くの民間人が犠牲となり、15万もの尊い命が失われた。

昭和19年9月18日 「ハイドパーク協定」を密約。

フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相は、米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について申し合わせた。

昭和20年7月 ポツダム会談。

トルーマン大統領(アメリカ)は、巨額な開発費を投じた原爆の『人体実験』と『都市破壊実験』を日本人を実験材料にして行うため、ソ連経由で入ってきた日本からの「早期講和」意思を黙殺。 ポツダム宣言から「国体護持」の条文を外させ、原爆投下までの戦争継続を謀(はか)った。

白人にとって黄色人種である日本人は、人間ではなかったのである。

昭和20年8月6日 広島市に「ウラン型原子爆投下」 (通称:リトルボーイ)

昭和20年8月9日 長崎市に「プルトニウム型原子爆投下」 (通称:ファットマン)

人類史上初の、民間人が住む都市をターゲットにした、壮大な2種類の「核による人体実験」であった。

原子爆弾により、35万の国民が殺され、50万人以上の人たちが放射能の後遺障害に苦しみ続けた。

戦後、2つの都市はアメリカ進駐軍により封鎖され、治療ではなく、徹底した人体実験の確認作業が行われた。

戦場ではなかった東京および全国各都市への「大空襲」および民間都市への「原爆投下」は、ナチスの行った『ホロコースト』に比肩する「計画的な民間人の大虐殺行為」であり、重大な『 戦時国際法の違反 』である。

いかなる「正当化」も、許せるものではない。

昭和20年8月15日 ポツダム条約を受諾。

真実は、日本軍は「無条件の降伏(武装解除)」であり、日本国は『 有条件での降伏 』を受諾したのである。

「無条件降伏」という呼び名は、戦後、アメリカ占領軍が日本人を完全なるコントロール下に置き、支配しやすくするために、日本人を騙(だま)したのである。

同年9月2日 日本は、ポツダム宣言に基づく『条件付き降伏文書』に調印した。

日本は焦土と化し、あまりにも多くの愛する人々を失った・・・

しかし、白人たちは、今まで「獣(けもの)程度」と見下してきた日本人に畏敬の念を持ち始め、「家畜以下」としか考えていなかった有色人種に、恐れを抱くようになり始めた。

日本軍政下を経験した東南アジアの人々も、今までのような無知で無力で白人に従順な愚か者では無かった。

日本軍の白人国家に対する死に物狂いの闘いを目の当たりにし、日本人が作った学校に学び、日本軍に愛国心と闘う精神と戦い方を叩き込まれ、日本に援助されたアジアの人々は、日本軍が残した民族自決の精神を受け継ぎ、愛国心に目覚め、誇りを取り戻し、独立を目指した壮絶な戦いを始めたのである。

多くの旧日本兵たちも、脱走兵の汚名を着てまで「アジア解放」を願い、アジアの人たちと一緒に戦い、死んでいった。

アジアは、次々と白人支配から「解放」された。

「歴史的に見るならば、日本ほど、アジアを白人支配から離脱させる事に貢献した国はない」   (ビルマ バー・モウ元首相)

その勢いはアフリカ諸国の国民をも動かした。

アフリカの人びとは言う。

「なぜ日本軍は、アフリカまで進出してくれなかったのか!」と。

昭和20年、国連が発足した当時の加盟国はたったの51ヵ国しかなかった。

現在、191ヵ国にまで膨れ上がっている。

そのほとんどは、アジア、アフリカの国々なのである。

~21世紀の今、植民地支配は過去の話となった~

今の日本の繁栄は、先人達の犠牲の上に成り立っている。

私たちが生きている今は、先人達が命懸けで守ろうとした「未来」なのだ。

戦争とは、国家の目的と目的がぶつかったとき、国際法で認められている、その紛争を解決するための最終手段。

大東亜戦争とは、「優秀な白人種」 が 「劣等民族である有色人種」 を絶対的に支配し、蹂躙し、奪うのが当然としてきた価値観と、人種の平等と相共に繁栄することを求める理想との戦いであったのだ。

忘れてはならないのは、日本だけが、戦艦、空母、駆逐艦、巡洋艦、輸送船、戦車、大砲、戦闘機、爆撃機、他白人と五分に戦える武器を造り軍隊を組織することができた有色人種で唯一の国家であったという事。



もし、日本という国が無かったら・・・

参考資料など

一目でわかる「アジア解放」時代の 日本精神       水間 政憲 著   PHP

大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した      佐 藤  守 著   青林堂

大東亜戦争の正体 ―それはアメリカの侵略戦争だった―  清水馨八郎 著  祥伝社黄金文庫

世界が語る大東亜戦争と東京裁判―アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集 吉本 貞昭 著



中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争  黄 文雄 著 

大東亜戦争【不屈の武士道精神】

http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc

http://rekisi.amjt.net/?p=169より転載

「豊臣氏滅亡」!!「大坂夏の陣」!!

2017-06-04 14:04:37 | 歴史
「6月4日(日)」

「豊臣氏滅亡」

「1615年6月4日」
(元和元年5月8日)

大坂夏の陣

豊臣秀頼と淀殿が自刃し豊臣氏が滅亡。

大坂方を押し返した幕府軍は
大坂城内に入城した。

城内の浪人たちまでが裏切って
略奪をはじめるなか、
秀頼親子は天守閣に登り、
自害しようとするも、
家臣に止められる。

やがて天守閣が炎上し、
秀頼母子は山里丸に逃れるも
そこも徳川軍に包囲された。

大野治長は
千姫の身柄と引き換えに
秀頼の助命を嘆願したというが

家康の容れるところとならず、
秀頼は淀殿や大野治長らと共に自害した
(享年23(満21歳没))と伝えられている。

秀頼は
真田幸村の家来などと

兵庫から船で
九州の薩摩・琉球まで
逃げ延びたと言う説もありますね。



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「赤壁の戦い」!!「未来への最終決戦」!!

2015-12-15 16:08:37 | 歴史
「12月15日(火)」

「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」

「208年12月15日」
(建安13年11月20日)

中国の後漢末期に
長江(揚子江)で行われた戦。

孫権・劉備連合軍が
曹操の船団を打ち破る。

まさしく

レッドクリフ!
未来への最終決戦!

ですよ!



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「泣くよウグイス」!!「平安京」!!

2015-11-18 14:29:33 | 歴史
「11月18日(水)

「平安京(へいあんきょう)」

「794年11月18日」
(延暦13年10月22日)

桓武天皇入京以降

日本の首都と見なされた計画都市である。

唐の都
長安城を意識して造られ

平安城ともいい
現在の京都市中心部に位置した。

明治2年(1869年)に

政府が東京に移転して
実質的には首都機能を失った

平安京が置かれ

鎌倉幕府が成立するまでの
約400年間を平安時代と言う。

泣くよ(794)ウグイス
平安京ですわ!



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「水島の戦い」!!「平家の大勝」!!

2015-11-17 14:21:39 | 歴史
「11月17日(火)」

「水島の戦い」

「1183年11月17日」
(寿永2年閏10月1日)

備中国水島(倉敷市玉島)において

源義仲軍と平氏軍との間で行われた。

当時

讃岐国屋島(香川県屋島)にいる
平家を源義仲の軍が追討に向かった戦いで

源氏軍は

7000騎と500艘の船

平家軍は

1000艘の船に板を渡し
海上に大要塞を組み

大量の矢を放ち
軍馬に乗って岸まで上陸し
源氏軍を迎え撃った

戦の最中に
空が真っ暗になり(95%が欠ける金環食)
慌てふためいた源氏は

総大将 足利義清 海野広幸ら
多くの諸将を失い
大敗を喫した

当時の平家は

公家との関わりも深く
暦に精通していたので

金環食が起こる事を事前に知っていて
戦に利用したと言われている

天候気象を
戦に有利に利用するとは

レッドクリフ(赤壁の戦い)の
諸葛亮孔明みたいやな~

戦に大勝した平家は

摂津国福原(神戸市中部)まで進むが

後に
一の谷の戦いで

源義経率いる源氏軍に
大敗する事になるのだが



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