もちろん私も、(以前にも書いたが)季節にともなう行事や儀式や縁起や祭などは好きである。それは人間の本能的なものだと思う。
しかし、私は非常に、形式より実質を重んじる性格である。
私は、無神論者でキリスト教徒ではないが、イエス・キリストの思想は非常に敬意を払っている。しかし私は、床に聖書があっても、平気で踏んでいく。仏教聖典も、尊敬する池見酉次郎先生の本でも、同じである。
しかし私の思考では、聖書を踏んだから、キリストの思想を冒涜した、とは、考えないのである。仏教聖典を踏んだから、釈迦を冒涜したとは考えないのである。
それは単に物理的な現象としか私はとらえていない。古くなった聖書を焼き捨てても、何の抵抗も感じない。聖書を踏むことがキリストの教えを冒涜する行為だとは私は考えない。それより、聖書を大切に保管して、手入れしても、キリストの理想の教えを、本気で求めようとしないことの方が、ずっとキリストに対する冒涜だと思っている。
江戸時代のキリシタン弾圧の、踏み絵に、私は非常に疑問を感じる。踏み絵は、幕府が作った単なるキリストを模ったレリーフではないか。それを踏むことがキリストを冒涜することなのか?
それよりも、そんな幕府が政治的意図でこしらえた形だけ似ている偶像の崇拝を重んじて、神がさずけた尊い命を無駄に捨てることの方を、神はずっと、お嘆きになると思うのだが。
しかし、私は非常に、形式より実質を重んじる性格である。
私は、無神論者でキリスト教徒ではないが、イエス・キリストの思想は非常に敬意を払っている。しかし私は、床に聖書があっても、平気で踏んでいく。仏教聖典も、尊敬する池見酉次郎先生の本でも、同じである。
しかし私の思考では、聖書を踏んだから、キリストの思想を冒涜した、とは、考えないのである。仏教聖典を踏んだから、釈迦を冒涜したとは考えないのである。
それは単に物理的な現象としか私はとらえていない。古くなった聖書を焼き捨てても、何の抵抗も感じない。聖書を踏むことがキリストの教えを冒涜する行為だとは私は考えない。それより、聖書を大切に保管して、手入れしても、キリストの理想の教えを、本気で求めようとしないことの方が、ずっとキリストに対する冒涜だと思っている。
江戸時代のキリシタン弾圧の、踏み絵に、私は非常に疑問を感じる。踏み絵は、幕府が作った単なるキリストを模ったレリーフではないか。それを踏むことがキリストを冒涜することなのか?
それよりも、そんな幕府が政治的意図でこしらえた形だけ似ている偶像の崇拝を重んじて、神がさずけた尊い命を無駄に捨てることの方を、神はずっと、お嘆きになると思うのだが。