「北の山・じろう」日記

内容は主に時事問題。時々株式投資関係の記事も交じります。

日本人はどこから来たのか❓&日本語の祖語(そご)とは❓<2024.1.26

2024-01-27 07:06:18 | 歴史

(1)日本人はどこから来たのか❓
(2)日本語の祖語(そご)とは❓

(1)日本人はどこから来たのか❓
人類の祖先はアフリカで誕生しアフリカを出て西アジアから3方向に広がっていったというのが通説です。

約5万年前
①ヒマラヤ山脈の南を抜けて東南アジアからオーストラリア大陸 オーストラロイド
②ヒマラヤ山脈の北を回ってシベリアへ モンゴロイド
③ユーラシア大陸西部 コーカソイド
2021/12/14

そしていつ日本列島に人類が到達したかについてはまだ通説と言える見解は確定していないと思います。

2016年に提唱された仮説
『3万8000年前、日本人の祖先は意外な方法で日本にやってきた』
従来の定説を覆す新理論が解き明かした真実
2016.2.10 5:02
https://diamond.jp/articles/-/85973
要約
国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介氏
海部氏の著書『日本人はどこから来たのか?』
日本の遺跡は改めて吟味すれば、世界に例を見ないほど充実しています。
初期のホモ・サピエンスが活動していた旧石器時代の遺跡は1万ヵ所以上ある
そして、そのほとんどが、3万8000年前以降に爆発的に現われているのです。
これは、我々の祖先が3万8000年前(本州)に到来したとしか考えられません
沖縄列島には3万年前に祖先が現われた

これが、最初に日本列島にやってきた人々です。
3万8000年前には日本は大陸とは陸続きではなく、船で海を渡ってきた・と言う仮説です。
だから最初は陸路ではなく海路で段々居住地が広がっていったのであろうとしています。その根拠が石器に使われていた黒曜石で結構、遠い海に近いところから採取して使っていたようです。これは海路でないと無理だからです。
江戸時代の運輸も海路が中心です。大体、同じ理屈だと思います。
これが古代の日本人の原型です。
その後、どうなったのか❓

『日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説』
石倉徹也2021年9月18日 3時00分
https://www.asahi.com/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html

航海術の発達により大陸や朝鮮半島から多くの人々が渡来したようです。
記事の要約
土着の縄文人 大陸から渡来した弥生人
大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代
それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し
さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が渡来

弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と
混血していることも確認できた。

一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。

「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」

遺伝子解析技術の進歩が、これまで曖昧だった事を解明しつつあるようです。
要は、移民に次ぐ移民が古代に渡来した古代日本人と混血して出来上がったのが、日本人のようです。
だから日本人を見ると東アジアの各地の人と似た人がいます。蒙古人・朝鮮人・中国人。どっちかと言うとご先祖に似ている人は結構います。東南アジア系もいますし、太平洋系も見ます。
北東アジア+東南アジア+少数の太平洋民族の混合体が日本人を形成しているように見えます。
それらの諸民族が混血を繰り返し、共通の文化や言語を生み出して、現在の日本人が形成されたのであろうと思います。

これで、やっと(1)が終わり・・・

(2)日本語の祖語(そご)とは❓
これが、また良く分かっていません。
日本人の一番最初の祖先は、最新の仮説で考えると38000年前から急激に増え始めた多分大陸方面の海洋民族だと思います。
だからこの「海洋民族の話していた言語が、日本語の祖語である」・と言う仮説も成り立ちます。
38000年前からだと、どの語族に属していたのかは調べようがありません。

その古代日本語に次々と渡来した人々の言語が混じって、現在の日本語の原型が出来上がったのであろうと思います。だから、祖語が分からなくなっているのだろうと思います。

では、その複数ある言語のうちどの言語が多く残っているのか❓

これについては、沢山の仮説があります。
2020年にマーティン・ロベーツが提唱した仮説。
2020年ですよ❓
「いかに分からないか❓」が分かると思います。
それによると・・・
「トランスユーラシア語族」
(チュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族、日本語族、朝鮮語族から成る語族)
※日本語族と朝鮮語族が姉妹群を成す

これが最新の仮説です。
もう少し各論的な仮説は・・・・
高句麗語同系説
百済語同系説
などが、あります。

百済語同系説
『古くは儒学者の新井白石 (1717)により提唱され
2000年代になって数学者の金容雲らにより提唱されている』
これが有力な仮説のように思います。

今は日本語と朝鮮語はかなり違いますが、高句麗や百済の時代には全部ではないにせよ結構、会話が出来ていた可能性があります。

高句麗
https://hugkum.sho.jp/226515
『高句麗は、紀元前37年に、中国の東北地方(旧満州)で興った国です。「ツングース系扶余(ふよ)族」出身の「朱蒙(しゅもう、東明王ともいう)」という人物によって建国されたといわれています。』

※日本は百済と同盟を結ぶ
『百済が滅ぼされたときも、日本は百済の生存者を支援して、唐と争うことを決めます。日本は661年から3回にわたって出兵しますが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐軍に敗れ、百済の再興もかないませんでした。』

当時の日本は、元々の渡来人に加えて朝鮮半島から避難してきた多くの渡来人も居住していたと思われます。朝鮮半島諸国との関係は、今では考えられないほど親密であったことが分かります。ほぼ姉妹国家と言えるのではないか・と思います。
古代日本人が海洋民族であったから、こんな古い時代に渡海作戦が可能だったのであろうと思います。

そして日本語の祖語の一つであろう言語も出てきます。
「ツングース系扶余(ふよ)族」です。
この部族の言語が、朝鮮半島と日本列島の共通語として話されていたと仮定すると❓
「高句麗語同系説」や「百済語同系説」はかなり根拠が強くなります。

「この時代に共通語として使われていた言語が、朝鮮半島では朝鮮語に変化していき日本では日本語に変化してきた」・と考えると仮説の筋道は、通ります。

昔のことを考えるのは、楽しい謎解きです。
科学技術の進歩が、これまで分からなかった事を沢山解き明かしてくれるのであろうと期待しています。

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女子サッカーの歴史と差別の歴史<2023年8月

2023-08-06 21:16:56 | 歴史

ワールドカップ
女子チームは、ノルウエーに3-1で勝利して準々決勝(ベスト8)進出を決めました。次は、アメリカVSスウエーデンの勝者との激戦です。ここで、もし勝てば2回目の優勝も見えてきます。

女子サッカー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC

『女子サッカーはその存在を認められるため、長きに渡り苦闘を経験してきた。1920年代初頭、イギリス国内で女子サッカーが最初の黄金時代を迎えていた時代、いくつかの試合では50,000人を超える観客を集めていた。しかし1921年12月5日、イングランドサッカー協会において会員であるクラブによる投票が行われた結果、1971年7月にこの決定が撤回されるまで、女子サッカーはイングランド国内において排除されることとなった。』
『イングランド史上初の女子サッカー公式戦は1895年にロンドンで行われた。』

このころが女子サッカーの芽生えた時代です。
その後、第1次世界大戦が勃発しその戦争の間に女子サッカーはヨーロッパで広がっていきます。

しかし、その流れを妨害したのが・・・
『「サッカーは女性のからだに有害」という根拠の薄い理由付けにより不当な扱いを受け、さらに1921年にはFAが女子チームに対してグラウンドの貸し出しを禁ずる命令を通達。そのため一時は試合どころか練習会場すらままならない状況が続いた。』
このような偏見と差別です。
女子サッカーの歴史は、偏見と差別との闘いとも言えます。

第2次世界大戦後もその流れは続きます。
しかし1950年代に男女同権の流れが世界に浸透し始め、1960年代にはアメリカ合衆国でウーマン・リブが興るなど女性に対する社会の風潮が変わり始めると徐々に女子サッカーが浸透し始めました。

共産主義国では、元々男女同権ですから東ヨーロッパの国々では女子チームが作られて女子サッカーが浸透していきます。
東アジアでも台湾、シンガポール、タイ王国で女子サッカーが盛んになり、女子のスポーツとして大きく浸透した。

頭の頑迷固陋なヨーロッパのサッカー関係者が・・・
『1970年、FAは女性に対するグラウンド使用禁止の通達を破棄。』
1971年には国際サッカー連盟(FIFA)が初めて公認した女子代表の国際試合「フランス対オランダ」が行われました。

女子サッカーの偏見と差別が撤廃されるまでに50年近い歳月が必要でした。差別と偏見の酷さには、呆れるばかりです。
これが先進国である国際サッカー連盟(FIFA)が行ってきた事です。頑迷固陋!差別と偏見そのもの!

そのFIFAは、女子ワールドカップを創設して早速、金もうけを始めました。

結果としてサッカーにおける男女平等は形式的には実現しました。
今は、男女同一賃金を求めて闘争中です。

※やはり男女平等を大きく妨げたのは、2度の戦争の時代だと思います。
例えば、日本でも大正デモクラシーの時代がありました。ドイツは、その当時今より民主主義的な国家であったかもしれません。
そんな時代が、ほんの短期間ありました。

女子サッカーの歴史となでしこ ― イギリスから世界に普及(1/2)
2021.08.20
https://kegenpress.com/women-football-history1/
なでしこリーグの歴史を知ろう 第2回「日本の女子サッカー」
2021年08月12日
http://www.nadeshikoleague.jp/serial/2021/0812_1520.html

『最近になって、約100年前の大正時代(1912~1926年)に、日本のあちこちで女性がサッカーをしていたという資料が発見され、注目されています。』

日本でも大正デモクラシーの時代には、女性がサッカーをスポーツとして楽しんでいた事が分かりました。日本の場合は、偏見と差別は殊更に酷く、それは軍国主義の台頭と供に封殺され戦後も長くその風潮が続きました。

戦後、初めて女子のサッカーの試合が行われたのは・・
『1966に兵庫県にできた2つのチームであることはよく知られています。ひとつは神戸市灘区の福住小学校の6年生女子26人でつくられた「福住女子サッカースポーツ少年団」、もうひとつが西宮市の神戸女学院中等部の3年生15人によってつくられたチームでした。
 この2チームは、翌1967年の3月19日に神戸市灘区、福住小学校のすぐ近くにある王子競技場で対戦しました。これがいま知られている日本の女子サッカー最古の「試合」です。主審と2人の副審(当時は「線審」と言いました)も、女性が務めました。』

このころからサッカーをする女性が増えていき、徐々に女性がサッカーをする事への偏見と差別が少なくなっていって現在に至っています。

最初、小学生の女の子たちがチームを作って試合をした時など、物凄く批判されたのではないかと思います。でも、それに負けず女子サッカーの関係者は努力を続けました。その結果として今の女子サッカーがあります。

この傾向は、日本のみならず世界的なものです。
偏見と差別が、いかに害悪のあるものであるかを証明しています。

しかし、サッカー以外の部分で偏見と差別は沢山残っています。戦争の時代がなければ、この偏見と差別は、もっと早い時代に克服されたと思います。戦争をする害悪は、現実に見えるものだけではありません。社会全体に害悪を及ぼすことが分かります。場合によっては、劣化と退化をももたらします。

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山本五十六元帥海軍大将を振り返る<2023年8月

2023-08-05 20:01:06 | 歴史

旧日本海軍、乱数表を使い回し 山本巡視電は指示に反する運用 米が暗号解読、長官機撃墜・機密解除史料
2023年08月04日08時00分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023080300722&g=soc

この記事は、アメリカの公文書を細かく読んでこの事実を解明しました。
しかし、戦時中から疑われていたことで敢えて旧日本海軍が無視していた経緯があります。外務省暗号も同じです。外務省暗号については、ドイツ側から情報漏洩のリスクが指摘されていたにも関わらず無視しました。

そしてそれを関係者への取材から丹念に調査してそれを本に書いた人がいます。アメリカ側の関係者に取材して具体的にどのようにして暗号を解読したのかを調査していました。

その本が・・
情報戦の敗北―なぜ日本は太平洋戦争に敗れたのか
(PHP文庫) 文庫 – 1997/3/1
暗号に敗れた日本 太平洋戦争の明暗を分けた米軍の暗号解読
原 勝洋 (著), 北村 新三 (著)

どちらかだと思います。

山本五十六海軍大将は1943年4月18日ラバウル基地を発進後、アメリカ海軍戦闘機の待ち伏せ攻撃を受けて戦死しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD

その経緯は、上記に詳しく書かれています。もうその時は海軍暗号はアメリカ側に完全に解読されており、アメリカ軍は事前に衝撃計画を立てて最終的にアメリカ海軍情報局は4月17日に正確な日次・コースを把握し太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンが即断して南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成したとあります。
前日に情報を探知して、当日急には出来ませんから重要人物がラバウル基地に来て移動する情報は早いうちにアメリカ側が探知して事前に襲撃計画を立てていたと思います。

※山本五十六元帥海軍大将については、日本海軍の名将の評価があるのではないでしょうか?

しかし、おそらく一番評価の高いハワイ真珠湾攻撃は、ほぼ奇跡を頼りにした丁半博打戦術です。あまりにもアメリカ海軍が怠慢であったために日本海軍の連合艦隊のハワイ接近を探知できなかったためです。もし、探知されたら壊滅に近い損害を被ったと思います。

開戦直後、取るべき戦術ではありません。外れたら、即負けですから、絶対に採用してはならない作戦計画です。

その後、日本海軍は勝ち続けます。それはアメリカ海軍の準備不足と日本海軍と海軍戦闘機部隊に対する研究不足によるものです。日本海軍は勝ち続けた理由は、開戦前に徹底的な訓練をして戦争に備えていた点にあります。戦闘艦であれ海軍機であれ訓練は十分、アメリカ側の兵士とは比較にならない戦闘力を発揮した結果です。

大本営や海軍参謀本部が優れていたからでは、ありません。

そして奇跡のようなフィリピンのアメリカ軍航空基地におけるアメリカ軍戦闘機部隊の壊滅がありました。

ハワイ奇襲されるの連絡は、当然フィリピンのアメリカ軍航空基地に伝えられました。当然、各基地から全機飛び立ち、今や遅しと日本海軍機の襲撃を待ち受けていました。

日本海軍側の出撃基地である台南基地では?
夜中から出撃準備が始まり早朝には、フィリピン上空に到達する予定でした。
ところが?
燃料と爆弾を一杯に積載した一式陸攻が離陸に失敗して大破炎上しました。滑走路が使用できるようになったのは昼頃だそうです。
基地の司令部は「どうしよう?」と相談したそうです。
「どっちにしても行くんだから今日行こう」
と言うことで話がまとまり、出撃してフィリピン上空に到着したのが昼過ぎでした。

そうなると、アメリカ軍の戦闘機は燃料が足りなくなります。全機、一斉に飛び立ったものだから全機一斉に燃料が不足し、地上で燃料補給している時に、たまたま日本海軍の襲撃部隊が到着しました。

こうしてアメリカ軍フィリピン基地の戦闘機や爆撃機は、1日にして壊滅しました。

これが日本海軍が、開戦後圧倒的に勝ち続けた本当の理由です。特にフィリピン基地の件は、実際に襲撃に参加した日本海軍のエースパイロットの阪井三郎氏が手記の中で詳しく述べています。

超半博打と2回はない大まぐれが、初戦大勝利の理由です。

※途中省略し、ミッドウェー海戦を考えます。
1942年(昭和17年)6月5日から7日、ミッドウェー島周辺で行われたミッドウェー海戦は、日本海軍のボロ負けすぎる完敗でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6

おそらく世界の大きな海戦を見ても、まれにも見ない愚かすぎる作戦でした。
◎作戦自体が机上の空論です。
◎作戦目的が2つあり最後まで、どちらなのか徹底されませんでした。
◎作戦の海域が遠すぎて、そもそも日本海軍の行動可能範囲を遥かに超えています。
◎アメリカ海軍の戦力を過小評価しすぎています。だから、こんな無理な作戦を実行しました。

アメリカ海軍との遭遇戦になり激戦でしたが、地上の航空戦力がある分アメリカに分があったようです。結果、日本海軍は空母全部とそれに搭載していた戦闘機や攻撃機の全機、そして何より大切な多くのベテランパイロットを失いました。日本海軍の機動部隊のほとんどが、人員を含めて壊滅したと言えます。

このような日本の基地から遠く離れた補給もまともに出来ないようなアメリカ軍の支配下にある海域で全力投球した博打作戦は、ボロ負けの目が出ました。

簡単に言うと、真珠湾では博打の目が日本の勝ちに出て、ミッドウエーでは負けの目に出たことになります。

だから、そのようなリスクのある作戦に機動艦隊の全戦力と言えるような戦力を投入する作戦は、してはならないのは当然です。

もし、必要があるならば日本の勢力圏の中、または近くで行うべきであるのは、普通にわかることです。

そのような作戦計画を主導した山本五十六元帥海軍大将は果たして名将であるのかどうか?

私は、大きな疑問を持っています。もし他に海軍の作戦計画を主導する大将がいたら、違う作戦を考えたかもしれません。

ミッドウェー海戦の敗北が、その後の日本海軍の敗北を決定したと言えます。それを主導した大将は批判があって当然だと思います。海軍参謀本部にも大本営にも同じ批判は、あるにしても不要な大海戦であるミッドウェー海戦を主導した落ち度は、大きいと思います。

乃木希典大将の事を思い出します。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しく、当時の事情が書かれています。
そこには陸軍の乃木希典大将と海軍の東郷平八郎元帥が出てきます。
山本五十六元帥海軍大将は、東郷平八郎元帥には全く似ておらず、乃木希典大将に共通する部分が見えるように思います。

そもそも負け戦の原因を作った将軍が評価されること自体がおかしいと思いますし、作戦計画も誤ったものであるなら評価はありません。

※あり得ないだろう!と思える事。
『日本へ帰還後の作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。』

つまり?大敗北について誰にも責任は、なかった事になります。落ち度もありませんでした。

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インドネシア独立戦争で戦った元日本兵<2023年6月

2023-06-22 19:02:26 | 歴史

両陛下、元日本兵も埋葬の英雄墓地で供花
2023年6月20日 15:36 発信地:ジャカルタ/インドネシア [ インドネシア アジア・オセアニア ]
https://www.afpbb.com/articles/-/3468988?cx_part=top_latest

戦争に負けた後、母国に戻らず植民地独立戦争に参加した元日本の兵士や将校がいます。帰らぬ人となった人もいますし生きて現地の女性と結婚してその地にとどまった人もいます。

大日本帝国の多くは、間違いでした。しかし、その戦争目的の中には植民地解放もあったのは事実です。だから、日本の敗戦後連合国に降伏する事を拒み、独立戦争に参加した人々がいました。

8月15日を過ぎても戦争を続けた日本兵の末路 「帰りたくても帰れなかった」男性が語った理由
2020/08/19 11:30
https://toyokeizai.net/articles/-/369751?page=2

残留日本兵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5

インドネシアと同数程度の元日本兵がベトナムでも戦っています。それが立派だと言っているのではありません。しかし、時代の記憶です。

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(遊牧民の帝国)匈奴の謎が蘇る・<2023年4月

2023-04-20 13:02:23 | 歴史

古代の遊牧民が築いた帝国の秘密、DNAで解明
2023.04.19 Wed posted at 18:07 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35202772.html

古い時代には、記録に残っていない帝国は沢山あります。
特に中央アジアは、東西どちらにも記録が少なく蛮族扱いされています。

社会の上層にいた人たちの墓の発掘や遺伝子解析により、これまでとは異なる研究がされるようになりました。

「実際のところ匈奴が残した影響は強大で、ユーラシア大陸の平原を起源とする後世の遊牧民族の王国も彼らに感化されていると、ミラー氏は語る。チンギスハンを初代皇帝とするモンゴル帝国もその一つだという。」

つまり、中央アジアの最初の遊牧民帝国である可能性が示唆されています。

古代中国や古代ギリシャの文献による記録しかありませんでした。だから、中央アジアの蛮族の扱いになります。
匈奴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4

ほぼ中国の史書に記されたとおりに理解されていましたが新しい事が判明するかもしれません。

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