おだにゃら記

地元小田原市中心のゆるゆるフィールドワーク備忘録。
歴史、神社関連、あとはいろいろ。

中村党を追ってみる 中村宗平の館跡と五所八幡宮

2023年05月30日 15時57分00秒 | 中村党を追ってみる
前回書いた土肥実平は中村党の祖、中村宗平の次男です。
前々から中村党ってなんとなくカッコいいな〜と思ってたので、
少し追ってみることにします。


中村荘司(現在の中井町)であった中村宗平は長男重平を跡取りとし、
次男以下を土肥(湯河原町)土屋(平塚市)二宮(二宮町)境(中井町)に分家させ、娘を有力豪族に嫁がせたりして勢力を拡大していきます。


(相模武士ー全系譜とその史蹟 湯山学 より)

こうして組織された中村氏の血縁武家集団が中村党。
平安末期の相模武蔵には他にもたくさんの党があり、
鎌倉幕府創建にあたって貢献したり敵対したりしていくのです。

中村党は三浦党と共に源義朝の代から頼朝の信頼厚く、伊豆での挙兵時から一族の多くが参戦しています。


中村宗平は老齢のため(佐々木のじいさんたちと同世代)戦には参加せず、
後継の重平は早世してしまったのでその子景平と盛平が参戦しています。
この頃には中村党のリーダーは本家から土肥実平に移っていたと思われます。


さて、土肥実平の館跡についてはすでに触れましたが
中村宗平の館はどこだったのか?



(相模武士 より)

土肥の館同様、遺構が残ってるわけではないので
地形や地名や言い伝えで想定するしかないのですが

上の図で
五所八幡宮(五所宮)の西側の「城ノ内」
五所八幡宮すぐ南側の「荘司屋敷」
そしてさらに南に1キロほどにある「鳥ノ久保(とんのくぼ)」
この3箇所が中村宗平の館跡ではないかと言われています。

特に「鳥ノ久保」は検知帳に「殿ノくぼ」という表記が見られること、
付近に五輪塔が散在してること、三方を山で囲まれ中村川に面していること、などなどから館跡である可能性が最も高いようです。



現在の鳥ノ久保(殿の窪)
畑の三方は山



説明板建ってます

こういう地形を東面馬蹄型っていうんですね。

この説明板から北に少し歩くと右に細い道があり


中村一族のものと伝わる五輪塔が集められている場所があります。
(画像はタウンニュースから。
 私は場所わからなかった)

あと、滝の前(館の前)の住宅地にも五輪塔が残されています。
(これも私はわからなかった)




中村宗平の崇拝した五所八幡宮

五所という名の由来は
宇佐八幡宮から数えて五番目に勧請された八幡神だからだそうで

1.宇佐八幡宮
2.岩清水八幡宮
3.鶴丘八幡宮
4.壷井八幡宮
5.五所八幡宮


この並び
俄かに信じ難いですが…
でもまぁいいや


ちなみに土肥実平のいる湯河原にも五所の名がつく五所神社がありますが、
それは天照大御神など五柱を祀ることから名付けられたので
こちらの五所とは意味が違います。







八幡宮の真ん前が荘司屋敷と呼ばれたところ



境内に中村宗平の墓と伝わる五輪塔があると聞いて探したんだけどわからなくて

もしかしたらこれかな
と思ったのが鳥居くぐって右の庭に。

でも何も書いてないから違うかも。



八幡宮の裏手の庚申塔
寛文8年(1668)

中井町の庚申塔は古いものが多いですね。


五所八幡宮の周辺には
馬場、矢馬、屋敷下、滝(館)ノ前など館の存在を匂わせる地名が多くあり
役所があったとされる久所(ぐぞ)という地区もあります。

地図を見る限り
どこに館があってもおかしくないんじゃない?あちこち越したんじゃない?
なんて思ってしまうわけですが
やっぱり地形的に殿の窪が一番なんでしょうな。

中村党を追ってみる 土肥氏館跡 城願寺

2023年05月21日 23時30分00秒 | 中村党を追ってみる
 
昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で阿南健治さんが演じた土肥実平。
 
実平は湯河原を本拠地とした土肥氏の祖であり、その館は現在の湯河原駅から城願寺周囲にあったといわれています。
 
 

湯河原駅前の土肥実平夫妻の像
 


阿南さんは昨年の武者パレードに実平役で参加されてたのですね。
湯河原町出身の船越英二さんが源頼朝役。
 

城願寺から伝土肥城の城山を抜けて、
頼朝が隠れたしとどの窟までは2時間弱のハイキングコース。

しとどの窟も城山もとても面白いのでオススメです。
(膝痛になってない頃歩いた)


源頼朝の鎌倉幕府成立に貢献したり争ったりした坂東武士たち。
土肥実平はその中の中村党、中村宗平の次男で
土肥、現在の湯河原を本領にして土肥姓を名乗ります。


城願寺は実平が持仏堂を建てた場所が始まりとか。

寺の周囲の地名は城堀といい、湯河原駅付近から城山までなかなか広範囲です。
実平の館の遺構は何も残っていませんが、やはりほぼ平地の湯河原駅あたりに居館があって、
城堀と呼ばれた館裏の山に持仏堂を建てたのかな
と想像します。



真新しい善導寺型灯籠が目を引きます。
ハートの猪目が可愛い。


そういえば昔、城願寺に行った時に
堀跡が残る場所があると聞いたのですが
どこだったのか、それとも聞き間違いだったのか、
なんでも忘れてしまうので不明です。





実平手植えと伝わる樹齢900年のビャクシン(柏槙)
国指定天然記念物













七騎堂

石橋山で敗れ、真鶴岩から漁船で房州に逃げた頼朝以下主従七騎。俗に言う頼朝七騎落ち。
昭和49年にその七人の像を納め建てられたお堂。

七騎とは
源頼朝、岡崎義実、安達盛長、新開忠氏、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱

吾妻鏡の記述とはちょっと違います。


頼朝はあちこちに座る

実平さんも座る




伊能忠敬がお墓参りに来てくれたらしい


階段の上に土肥一族の墓


ここにも伊能さん記念碑

伊能さん来てくれたことはすごい名誉なのね





中央の大きめな五輪塔が実平や息子の墓でしょうか



たくさんあります


こちらは無縫塔が多いです。
珍しい形のもの、幼い子供の供養塔もあります。



実平の息子、遠平は早川庄(小田原)を本領としたことから小早川を名乗り
のちに実平と共に所領であった安芸国沼田庄に下り、その子孫はあの有名な戦国武将小早川一族となりました。


実平も遠平も安芸で亡くなっており、城願寺の墓は分骨されたものです。


なお、遠平の子維平は和田合戦で和田方につき、2人の息子は討死、維平は処刑されました。


維平たち親子が亡くなった和田合戦以降、
土肥一族の相模での勢力は失われてしまったようです。



墓地からの眺め

ちょっとだけ海が見えます





鎌倉の入り口 龍口寺と龍ノ口刑場

2023年05月13日 09時44分00秒 | 
藤沢市片瀬の龍口寺へ。

134号線で境川を越えてすぐ左の道の突き当たりす正面に建つインパクト大の寺。

ギリギリ藤沢市にあり、境内を東に出ると鎌倉市になります。
源義経が腰越状を書いた満福寺までは数百メートルの距離。
今も昔も鎌倉の入り口。



江ノ電が山門の真ん前を通るので撮り鉄さん達にも人気あるらしい。
(この画像は龍口寺 | 鎌倉タイムより)





仁王門の左手
龍ノ口刑場跡の石碑


龍ノ口は鎌倉幕府の刑場で
元朝の使いである杜世忠や中先代の乱で捕えられた北条時行らが処刑されています。

はっきりとした場所はわかっておらず
片瀬川(境川)の河口あたりなのでだいたいこの辺かなということらしい。

1271年(文永8年)
幕府に迫害されていた日蓮が龍ノ口で処刑される寸前に奇跡のようなあれこれが起きて助かった出来事(龍ノ口法難)があり

鎌倉幕府滅亡後の1337年(延元2年)
龍ノ口刑場跡に弟子の日法がお堂を建てたのが龍口寺のはじまり。



仁王門

山門


本堂



日蓮が一晩幽閉されたと伝わる土牢。
元々やぐらだったのか、最初から牢として作ったのかは不明。

日蓮以外の人も処刑前にはここにいれられたんでしょうか?



上にも牢みたいなのがあります


こちらの新しそうなやぐらにはかっこいい観音様


日蓮聖人像



江ノ電ちょっと撮れた


五重塔


仏舎利塔
お花が綺麗

五重塔から仏舎利塔までぐるっと散策できるようになってます。

途中休憩したりお弁当食べたり寛いでる方もいました。



龍口寺から海に出るとすぐ江ノ島


これは神奈川あるある というか西湘あるある かもしれませんが

湘南地区のことを湘南とはまず言わず、
「江ノ島」と言います。
「江ノ島」とは一つの島ではなくもっと広い地域を指すのです。

私の感覚では茅ヶ崎から稲村ヶ崎あたりまで「江ノ島」

昔、地元のある友人は「西湘バイパス降りてから逗子マリーナまでが江ノ島」と豪語していました。


でかいな江ノ島。











居神神社例大祭 暴れ神輿

2023年05月06日 01時17分00秒 | 小田原のいろいろ
今年はようやく北条五代祭りが通常通りに開催され大変な賑わい。

我が家の氏神様である居神神社の例大祭も無事に執り行われました。







5日夜
神輿の宮入りの様子




















 
居神神社の神輿巡行は創建の翌年(1521年)に始まりました。
祭神である三浦荒次郎義意を乗せる暴れ神輿として有名です。

荒次郎は怪力の猛将、荒ぶる神ですので、
暴れれば暴れるほど喜んでくれるそうです。



コロナ禍が終息に向かい
市内各地でお祭りが再開できて
今年のGWはいつもよりキラキラして見えますね。