おだにゃら記

地元小田原市中心のゆるゆるフィールドワーク備忘録。
歴史、神社関連、あとはいろいろ。

小田原動物園の終焉 サル舎解体 

2024年02月28日 21時24分00秒 | 小田原城
梅まつりも最終週を迎えている小田原市。






小田原城址公園ではサル舎の解体工事が行われています。

お猿さんたちは昨年12月に茨城県の東茨城ユートピアに引越し。
この解体工事をもって小田原動物園70年の歴史は幕を閉じることとなります。



猿山も撤去されてただの平地になってしまいました。



昨年6月のサル舎の様子


昭和25年10月の小田原市報より
小田原こども文化博覧会

このこども文化博覧会のために象の梅子が来城。
他にもタヌキ、キツネ、猿、ワニ、孔雀、水鳥などの動物が飼育されたそうです。
小田原動物園の始まりです。

イラストのゆるい感じがたまらないです。特にまんなかの梅子がキュート。


それにしても
ワニって…なにかの間違いでは 笑


私は今はなき城内高校出身で、
授業中にキキーッとかケーッケーッなどとけたたましい動物の声が聞こえるのはしょっちゅう、
というかそれが日常の学校生活でした。

今はお猿さえいなくなって
聞こえる鳴き声といえば小鳥たちくらい。
国指定史跡にふさわしい姿に変貌していくのは嬉しい反面、やはり昔のことを思うとさみしいですね。





梅林駐車場散歩道の梅もほぼ終わってました。



梅の宴 幕山公園

2024年02月21日 15時26分00秒 | 博物館、イベントなど
2月とは思えない陽気だった昨日、
湯河原の幕山公園の梅林へ。



幕山の山肌に咲き誇る4千本の梅の木。

ということで
「梅の宴」期間中の土日祝はそりゃもう大変な混雑で、
何年か前にチャレンジしたら第6駐車場までいっぱいで諦めて帰ったことがありました。


昨日は平日。
なんと第1駐車場にとめられました。
平日バンザイ🙌





公園に向かうと見えてくるこの幕山の姿。
開花状況は湯河原町の情報によると7分咲きですがじゅうぶんに素敵です。








公園とはいえ山の斜面なので
階段が多く急な坂もあったりします








枝垂れ梅はまださみしい感じだけど
他の種類はまずまずの見頃












まちなかの梅園と違って背景が深い山なので梅花のぽわっとした姿が引き立って見えます。



それにしても
暑いっ🥵

この時の気温23℃
半袖でもよかったくらい。
かなり汗かきました。



幕山は溶岩ドームで柱状節理で囲まれてます。
ロッククライミングができることでも有名。




ブラタモリでおなじみの柱状節理



園内にはこんな大岩も


ヒキガエルがいてびっくりした池




たくさんいるー

野生のヒキガエル見たのって小学生以来かも




売店近くの河津桜は満開


お休み処
一面ウッドチップが敷いてあってフワフワ気持ちいい。

17時閉園10分前くらいの様子ですが
まだまだお客さん寛いでました。



公園入り口の新崎川にある製鉄遺跡の説明板

正宗とは鎌倉時代の刀匠五郎正宗のこと。
幕山公園周辺の地名は鍛冶屋といい、古代からたたら製鉄がされていました。
正宗五郎の作業場もここにあったそうです。

それほど盛んだった湯河原の製鉄は
江戸時代にはなぜか隠さねばならない事情があったようで

ここの地名は鍛冶屋で
製鉄所はたくさんあるけど鍛冶職人は一人もいないんだー

という変な報告。

すぐ近くの五郎神社なんて
明らかに五郎正宗関係なのに
鎌倉権五郎景政という別の五郎さんを祀ることにしたよー

という複雑怪奇。


そのあたりについては
別の機会に考えてみたいと思ってます。




曽我梅の里 瑞雲寺さんぽ

2024年02月13日 23時23分00秒 | 小田原のいろいろ
曽我の梅林では梅まつり開催中。

メイン会場の曽我別所は混雑するので避けて
瑞雲寺でひっそり梅見。













地元ニュースではこの三連休が見頃とあったけど実際は全体的に6分咲きくらい。

昨年のブログ確認したら2月20日に満開寸前だと書いてるんですよね。
今年は暖冬の影響で早いかと思いきや、やはり来週以降が本当の見頃のようです。















閻魔大王


唯念名号塔





花は少なめでも快晴のもと瑞雲寺周りの散策は気分爽快。

11日は寺の無料駐車場が満車で諦めたのですが、翌日連休最後の12日はガラガラで人も少なくのんびり歩けました。





小川沿いの河津桜は2分咲きくらい


須賀神社

元は瑞雲寺持の第六天社。上曽我村の鎮守。
神仏分離令により須賀神社と改め、祭神は須佐之男命に。








迫力ある曲がり方のクワノキ。
倒れないか心配です。




帰りに菅原神社へ




こちらの梅はまだまだこれから。


菅原神社のムクノキも幹がだいぶ衰えてるようで心配です。

以前にはなかった車止めが設置されてました。

御殿場の浅間神社ぜんぶまわる その11 東田中 和田義盛と孝行息子

2024年02月08日 23時13分00秒 | 御殿場の浅間神社ぜんぶまわる
愛猫るなが10日間の家出から無事帰宅して2週間。
世の中には重いニュースが続いておりますが、
我が家はすっかり日常に戻りニャン達と穏やかな2月を過ごしております。



さて
御殿場の浅間神社。11番目は東田中です。





東田中の浅間神社は平成後期に開通した新橋深沢線沿いにあります。

周辺の田畑が分譲地等に開発され
自然が減ってしまったのでガランとした御殿場らしくない風景。


そんな変わりつつある御殿場の風景の中に残された浅間神社。


なんだか「ちいさいおうち」っぽい佇まい。






社殿が新しく社叢と呼べる木々がほとんど伐採されてるので明るく開放的な雰囲気。

そのためか神社自体の歴史が浅いと勘違いされることもあるようです。



(昭和18年 五万分の一地形図)

この付近は源頼朝の富士の巻狩りで和田義盛が陣を張った場所で、和田という地名が残っています。
(東田中という文字で見えませんが浅間神社は緑色の位置)

巻狩り開催地周辺には和田義盛の伝説が多いです。
裾野市には和田一族が落ち延びた下和田という地名もあります。
鎌倉時代の豪傑として頼朝に次ぐ人気者だったのでしょうね。





現在の浅間神社のある場所はかつては和田の森と呼ばれていました。
義盛が箸代わりに使った楓の枝を地面に挿したところ根付いて森になったそうです。すごい。
広報ごてんば 御殿場に伝わる富士の巻狩より)

どんな森だったのか、今では想像の余地もありませんが
人気者の和田義盛の名が残るくらいなので
地域の人々から大事にされていたでしょうし、神聖視もされていたかもしれません。



境内の幣饌料供進社の碑には田中神社とあります。
大正8年当時はここの名称は田中神社でした。

田中村はかつて御殿場に存在した大きな村で、正保元年(1647)小田原藩による検知で西田中村、東田中村に分かれたそうです。

田中神社が田中村の鎮守だとすると1647年以前から存在していたことになります。

和田義盛所縁の森になんらかの社ができ
その後田中村の鎮守となり
大正以降に浅間神社と名称が変わった。

という認識に落ち着いてきます。



道祖神



他にもいくつか石碑が



面白いのがこれ
「孝子佐五右衛門の碑」


寛政年間に東田中村住みの佐五右衛門という人が孝行息子として小田原藩に表彰され、
のちに大正天皇御成婚の際に顕彰碑が建てられました。

石碑の文字は読みづらいですが
勝間田二郎氏の「続 御殿場・小山の伝説」に詳しい孝行話が掲載されています。

当時の藩では時折こうして農民を表彰して励ましていた、
というか
貧しくても頑張れ!とやる気を出させていたようです。


鳥居前から見た富士山



素敵な写真お借りしてきました。
実は東田中浅間神社の鳥居越しにこんな素晴らしいダイアモンド富士が撮れるんですって。
知らなかったー