MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



昨日の夕方、自宅に居たみらんくんのウニャウニャに嫌気がさして、それを助長する意味不明の援護的な会話の奥さんにも辟易とした。

甘えさせるのと、甘やかすのとの境目、その基準は人それぞれで良いと思う。ただ、自分の都合の良い解釈を都度しているように見えるのは、いくら奥さんでも、いくら子供でも我慢ならん。その時だけ、取り繕って話をすると言うのは絶対に嫌だったので、会食の前に少し玄関前で話をしたが、お為ごかしの抱っことかは拒否して、時間切れだからこれ以上は話さないと伝えて家を出た。もちろん、その後彼はお風呂後に早く寝るので、おいらが帰宅しても話すことはない。それは分かっていたので、モヤモヤしたまま出掛けた。

そして今朝起きてから、話をした。

彼なりに考えた言葉で、自分の気持ちをしっかりと、伝えてくれたことが分かったし、パパはこう思ったよ、だからこうした、と言う話をした。一発で全てが分かるとは思わないし、一回の行為で全ての彼との親子関係が崩れるとは思わないけれど、なんでもかんでも、自分の好きなタイミングだけで、ことが成り立つとは思うなと。抱っこって言えば抱っこしてもらえ、泣いたらそれで全てが成就するなんて言うのは甘やかし。絶対に許さん。許容しない。それをやったら終わり。

昨日の夕方の話ではないが、ある時、車の中でこんな会話をした。

もし新たに車を買うのだとしたらMaseratiレベルの5年経ったら価値の下がる車ではなく、Ferrariの方が良いのでは、と。おいらとしてはそう言われるとその通りだとは思うが、Ferrariの世界に飛び込むと言うのはマンション一つ買えるような話だからなぁと。だからこそ、一見すると高く見えるが、BMWやアルファロメオのような車を、5年にわたって分割して支払っていくことが、節税対策として完全に費用計上が可能な最も適した解決策だと思っていた。いずれにしても、好きな車を5年スパンで買い替えしていくしかないと思っているんだが、結局、いずれ、みらんくんが大きくなった時に、パパ、車貸してよ、と言ってくると思っていて。勿論貸してあげると思うが、その時に多分、彼としては人生初の車はBMWだったりアルファロメオだったりするんだと思う、と話をしていた。そしたら奥さんは、それは違うと思うので自分で頑張って買えと。世田谷の家も須走の家も、ウワモノの価値は下がるかも知れないが、子供に残してあげられるもの、として考えていると言う意味では車も不動産も同じだと思うが、車は自分で頑張って買えと言うような話は意味が通じないと思った。だが奥さんはそう言った。おいらとしてはそこに自己矛盾があると思うけれど、彼女はそうは思っていないらしい。単なる意見の相違なのかも知れぬが、子供に対して、普段接している態度を何かのシーンだけは切り取って違う対応をする、と言う意味でおいらはそういうことは嫌だと思っている。と言うかすべきではないと。

子供は親の論理矛盾をよく見ていて、話が通じないなと思ったら、子供は親をevaluationして、時に上辺だけの会話にしておこうと思うことが段々増えていく。

ロジカルな話だけではないかもしれないが、状態として話が通じないやつと思われるタイミングが中学生くらいの時にやってくるのが、いわゆる反抗期なんだろうと思う。何にせよね。学術的なことは知らんし、あまり意味はないと思う。子供を相対的に見て、そのくらいの年齢でやってくる親離れを親目線だけで見たらそういう表現になるんだろうなと思っているから。親の馬鹿さ加減の反省はどこにあるんだ?って思えない学者が、言葉として「反抗期」なんて付けたところで、バカと話したくないって普通だろ?って子供目線での話を考えていないんだとすると、そんなもの研究でもなんでもないって小さい頃から思っていた。現実として、見限り、と言うことをしてきたので。話をしていて、考えが浅すぎて、4ステップくらい先の会話までを想定することなんて、容易いと思っていたけど、2歩で会話が止まることが続くと、話をする意味を感じなくなくなった。それを反省しないまま過ごしていくんだろうなと思ったので、自分が親になったら、どう接していくべきか、とても考えてきたな。


子は考えない親を馬鹿にするし、学生は凝り固まった考えの先生を馬鹿にする。


これを当たり前と思わないと、反省をしないし、親だから、先生だからと立ち位置が上だと勘違いしたまま、会話が成立しないのは、子供が反抗期だから、とバカの思考停止に陥るのみとなる。それは違うと思っていて、やはり子供は年齢は小さいものの、一人の人として接せねばならないと思っている。だからこそ、会話が成立するためには話をしきるための思考を停めてはいけない。考えて、何故と言われればこういう理由だから、と答え続けていくことが親の責務だし、子供だからこんなことは考えられないだろうなんて、高を括っていると知らぬ間に見限られる。それで良ければそれまで。考える能力が低い人は確かにいるかも知れないが、考えることを停めたのか、拙くても考え続けたのかは結果が異なると思っている。

だからこそ、3歳児だからこの程度で伝えておけばよいだろうとか間違っても思ってはいけないと思っていて。

説明しても分からないと思って、なんて言うことを自分の言い訳として言う良い歳した人がよく言うが、それは単に伝える言葉を考えなかった怠慢でしかない。思っている以上に3歳児は賢い筈と思って会話をしなければならないと最近、前よりも一層、肝に銘じて接するようにしている。だから今朝きちんと、短いながら話をした。



感情コントロールが難しいのかも知れないが、それでも矛盾したことを許容することはしない。それこそ子供だからと、言うなれば馬鹿にした話としか思えないからだ。3歳児だろうと、きちんと考えている筈。咀嚼、理解のスピードは大人程早くないかも知れないが、話せばきっちり伝わると言う前提で、変な大人の解釈を挟んだりするのは間違っている。だから今日の朝の会話はとても良かったなと。その結果として、彼が家族に見せてくれるこの笑顔が見られるんだと思うようにしている。無条件に親に対してはずっと笑顔、だなんて思ってはいけないよね。親は話が出来る相手だと思ってもらえるように努力を重ねていくことが親としての責務。


今朝の会話で最後に伝えたけど、変わらず、ずっと君のことを愛していますよ。
これは絶対に変わらない。



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