会いたかった人、秩父山の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。ずっと前から写真では見たことがある像でした。日本武尊の母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の墓とされる日岡山は宮内庁のお墨付きの古墳で(だからといて正しいわけではありませんが)わたしにとっては幼稚園の頃から小中学校まで遠足やデートコースの場所でした。
しかし、しょっちゅう言っているように住民ディレクター活動をスタートした山江村をはじめとする14の人吉球磨地域で生活する中で熊襲を知るまでは加古川市の日岡山が日本武尊と関係があるなんてこれっぽっちも知りませんでした。奇しくも免田町を舞台に住民手づくりドラマ「熊襲復権ドラマ」を制作することになり調べはじめたのです。が、熊襲を調べるうちに日本武尊という人物が気にかかり、さらに調べるうちに自分の生まれ育った土地、加古川こそ日本武尊の誕生と大きな関係があることを知りました。
古事記、日本書紀と読み解いて行くうちに征伐されたといわれる熊襲こそ日本武尊の何倍も大きな人物であったとの結論に到ります。記紀では熊襲征伐に続いて出雲猛、蝦夷へと父、景行天皇から命ぜられ蝦夷征伐の後に立ち寄った場所の一つが秩父山の三峯神社と伝えられイザナミ、イザナギを祀る宮を日本武尊が建てたといわれています。だからここにこの像があったのです。
実は少し前に千葉県の山武市にやはり住民ディレクター講座に行った時、走水から荒海を渡ろうとした日本武尊のために身を投げて助けた妃の弟橘媛の神社に連れて行ってもらっていました。その頃に何とはなしに次はここと感じていた所でもあります。タケルはその後、大和路への帰途で病になり今の三重県で命を落とし白鳥になって大和に帰ったという白鳥伝説があります。
そしてこれもたまたまではありますが今週末は加古川に戻ることになっています。加古川市の名前になった「加古川」という川は一級河川で日本武尊の産湯を使った川と地元では伝えられていることも随分経って知りましたが、今年の帰郷は少しその歴史を紐解く旅になりそうです。