テレビのことをやりはじめてすでに約30年を過ぎました。間違って熊本のテレビ局に入ってすぐに感じたのがエラい人ばかりいる場所だということでした。「わたしには合わないなあー」、といつも違和感がありましたがいつしか「朱に交われば赤となる」のことわざ通り、知らぬ間に自分もエラくなってしまっていました。
そのことに気づいたのはまさに市町村で人知れず自分のことではなく他の人達のことを考えて静かに動いている方々がいることを知ってからです。そう!!そういう方々のために何かできることを黙々とやらなければ、との気持ちが、そういう方々の行動を見て自然と生まれてきました。その方々が今もわたしの支えであり、叱咤激励され続けてきて「住民ディレクター」の発想になっています。
しかしこの30年間変わらないのは「人はあっという間にエラくなる」という一つの傾向です。わたしは幸い、アシスタントディレクター(AD)から記者、ニュースデスク、プロデューサー、営業、経理、タイムキーパーとあらゆる業務をすべてやってきたのでいつも他者ができないことをやる究極のAD(アシスタントディレクター)でした。穴があいたらそれをやるのがわたしのプロデュース力です。全部やってきたから穴があいたらそれもできる。しかし通常のプロデューサーはそんなに色々なことは経験してませんから(例えばカメラマン、編集、タイムキーパー、経理、営業など全てをやってきたプロデューサーはまずいません)穴があいたからと言って自分ができるものではありません。誰かに指示するわけです。
わたしは指示する前に自分でやってしまいます。例えば萩本欽一さんを熊本に呼んできて熊本がオープニングで開けた24時間テレビ「愛は地球を救う12」の時はわたしが熊本市体育館のステージの裏で欽ちゃんと五歩一プロデューサー、神戸ディレクターと3人で欽ちゃんの背中を押してその年の24時間テレビははじまりました。が、同じ年のその24時間テレビのフィナーレでエンディングテーマをみんなで歌ってる時に、たまたま会場の壇上に並んでいた小銭が詰まった瓶類が振動で倒れ落ちて割れてしまいました。
しかし、みんなフィナーレに酔いしれてしまっていてADやボランティア誰一人それを掃除して片付ける人もいません。わたしはその年の総合プロデューサーでしたが、一人ホウキとチリトリをもって壊れた瓶類を集めていました。あれから約25年経ち、今は住民ディレクター活動の総合プロデューサーですが、今もってADをやっています。わたしがADをやめられない理由は?正直言ってみなさんがあっという間にエラくなってしまってADをやれなくなるので、結局万年ADを今でもやめられない、というのが今の実情です。エラくなる人達はなっていいですが、何故そんなに簡単にエラくなっていかれるのでしょうか?
*写真は黙々と人吉球磨地域のために活動してきた日本のおふくろ 山北幸さんと、幸さんの後継者 人吉「ひまわり亭」の本田節さん。