藤本義一さんの追悼文を書いたばかりのところに放送評論家志賀信夫さんの訃報が入りました。志賀さんにはテレビ局時代から大変可愛がってもらいました。平成5年に熊襲復権をテーマに熊本県免田町で住民手作りドラマを制作したとき一番に各誌で紹介いただきました。熊本での放送として作ったドラマでしたが全国で地域活性化に取り組む自治体にも紹介して全国放送も目指そうと東京の銀座熊本館で試写会を催した時も一番に挨拶に立ってくださいました。
わがテレビ局の東京支社に協力を求めたところ「5人も来ないよ」と揶揄され、「では一人でやる」、と開催したところ熊本館の2階が約70人もの記者や自治体関係者で溢れ、熊本県東京事務所からの連絡で慌てて支社の社員が飛んで来た程でした。志賀さんのおかげでその後、新聞の全国紙はもとより週刊新潮やアエラなど当時の有名雑誌にも次々と扱われ免田町とわがテレビ局は一躍有名になりました。
テレビ局を退職して住民ディレクターを核に地域づくりの会社を起業した時も一番に声をかけてくださいました。一時は志賀さんが中野で書斎に使っていたアパートを東京事務所としてホテル代わりに使わせてもらっていました。山江村で市民メディア全国集会を開催した折りも無償で駆けつけてくれて壇上で「わたしの後継者」とまで言ってくれました。
放送評論家としての活動の基本に「人には知られる権利がある」とおっしゃっていてわたしの住民ディレクター活動の根本に触れる精神をいつも共有させていただきました。志賀さんとは随分語り合いましたので書きたいことはいっぱいありますが、今夜は心よりご冥福をお祈りして筆をおきます。
@記事は西日本新聞社新聞から