山の辺の道は、三輪から奈良へ通じる上古の道である。大和平野には南北に走る上・中・下ツ道の官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。
上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山の辺の道である。現在、その道をはっきり跡づける
ことはできないが、歌垣で有名な海柘榴市(つばいち)から三輪、景行陵、崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられている。
JR桜井駅から大神神社(おおみわじんじゃ)、狭井神社に届け許可得て三輪山への登山も加え、山の辺の道を歩き石上神宮を経由しJR天理駅まで
およそ20数kmである。
桜井市街地から山の辺の道へ
仏教伝来の地碑 欽明天皇の時代に日本に仏教が最初に伝えられたといわれている所。また、山の辺の道の 南の起点。
金谷の石仏
平等寺
大和平野を臨む 右 耳成山、左 畝傍山
大神神社 三輪明神ともいい、背後の三輪山をご神体とするわが国最古の神社
三輪明神参道
大美和和の杜展望台からの遠望 耳成山、三輪明神の大鳥居と二上山
左畝傍山、右耳成山
二上山
狭井神社で三輪山へ登るための手続きをし、登拝登山のたすきを請け下山後返却する。大神神社のご神体であるので種々の注意事項説明を受ける、撮影も禁止
三輪山への登山口 三輪山は高さ467mで全山、杉・松・檜におおわれ、行程4㎞で往復2時間ほどである。
二上山遠望
三輪山を臨む
纏向遺跡は箸墓古墳付近から比較的広範囲に考えられている。
相撲神社 當麻蹴速と野見宿禰が相撲を取った場所(日本書紀)として伝えられている所で、相撲発祥の地といわれている。
三輪山 額田王が奈良から近江への途上の歌 万葉集 巻1の17 (奈良を離れる際、遠く雲に隠れる三輪山を惜しんで)
味酒 三輪の山 あおによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道のくま い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見さけむ山を こころなく 雲の 隠さふべしや
反 歌
三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなむ隠さふべしや
景行天皇陵前方後円墳
崇神天皇陵前方後円墳
長岳寺
内山永久寺跡の説明
内山永久寺は「西の日光」と呼ばれるほどであったが、明治の廃仏毀釈の際、寺宝は内外に持ち去られ廃絶した。
内山永久寺跡 本堂池跡だけが残る
石上神宮 は大和の王の武器庫であり、その軍事を担当した物部氏の氏神であった。百済王と関連の「七支刀」鉄剣が伝えられている。
石上神宮本殿
石上神宮の出雲建雄神社拝殿(国宝):この拝殿は明治の廃仏毀釈のため内山永久寺(「西の日光」と呼ばれた)からこの場所に移築されたものである。
この出雲建雄神社拝殿は内山永久寺の姿を伝える唯一の建物となっていつ。
天理教本部壮麗な建物である
天理駅前広場
上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山の辺の道である。現在、その道をはっきり跡づける
ことはできないが、歌垣で有名な海柘榴市(つばいち)から三輪、景行陵、崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられている。
JR桜井駅から大神神社(おおみわじんじゃ)、狭井神社に届け許可得て三輪山への登山も加え、山の辺の道を歩き石上神宮を経由しJR天理駅まで
およそ20数kmである。
桜井市街地から山の辺の道へ
仏教伝来の地碑 欽明天皇の時代に日本に仏教が最初に伝えられたといわれている所。また、山の辺の道の 南の起点。
金谷の石仏
平等寺
大和平野を臨む 右 耳成山、左 畝傍山
大神神社 三輪明神ともいい、背後の三輪山をご神体とするわが国最古の神社
三輪明神参道
大美和和の杜展望台からの遠望 耳成山、三輪明神の大鳥居と二上山
左畝傍山、右耳成山
二上山
狭井神社で三輪山へ登るための手続きをし、登拝登山のたすきを請け下山後返却する。大神神社のご神体であるので種々の注意事項説明を受ける、撮影も禁止
三輪山への登山口 三輪山は高さ467mで全山、杉・松・檜におおわれ、行程4㎞で往復2時間ほどである。
二上山遠望
三輪山を臨む
纏向遺跡は箸墓古墳付近から比較的広範囲に考えられている。
相撲神社 當麻蹴速と野見宿禰が相撲を取った場所(日本書紀)として伝えられている所で、相撲発祥の地といわれている。
三輪山 額田王が奈良から近江への途上の歌 万葉集 巻1の17 (奈良を離れる際、遠く雲に隠れる三輪山を惜しんで)
味酒 三輪の山 あおによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道のくま い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見さけむ山を こころなく 雲の 隠さふべしや
反 歌
三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなむ隠さふべしや
景行天皇陵前方後円墳
崇神天皇陵前方後円墳
長岳寺
内山永久寺跡の説明
内山永久寺は「西の日光」と呼ばれるほどであったが、明治の廃仏毀釈の際、寺宝は内外に持ち去られ廃絶した。
内山永久寺跡 本堂池跡だけが残る
石上神宮 は大和の王の武器庫であり、その軍事を担当した物部氏の氏神であった。百済王と関連の「七支刀」鉄剣が伝えられている。
石上神宮本殿
石上神宮の出雲建雄神社拝殿(国宝):この拝殿は明治の廃仏毀釈のため内山永久寺(「西の日光」と呼ばれた)からこの場所に移築されたものである。
この出雲建雄神社拝殿は内山永久寺の姿を伝える唯一の建物となっていつ。
天理教本部壮麗な建物である
天理駅前広場
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