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英語の話 ④ ― 日本語文法と英文の和訳

2018-06-07 01:12:40 | 英語のはなし

日本語の文章型と英語の五文型の関係

日本語の文型と英語の文型

永井津記夫

  日本語は英語と非常に構造の異なる言語だと考えられている。事実、日本語の文は通常、用言で終わり、英語の文は通常、述語動詞の後に補語や目的語が来る。これを捉えて、文化人類学などでは、

  日本語=SOV言語  S=Subject 主語  V=Verb 述語動詞  O=Object 目的語

     (C=Complement 補語; S、V、O、C---文の要素; M=Modifier 修飾語)

  英 語=SVO言語     

と呼んでいる。

  現在、高校で教えている英文法では、無数に存在する英語の文を、文の要素であるSとVとOとCを用いて、五つの文型に分類する。これを(基本)五文型と呼ぶ。次のようになっている。

   ①    S V  ・・・・・・・・・・・第1文型

   ②    S V C  ・・・・・・・・・第2文型

   ③    S V O  ・・・・・・・・・第3文型

   ④    S V O O  ・・・・・・第4文型

   ⑤    S V O C  ・・・・・・第5文型

  これを見れば明らかなように英語の文には常に (主語) と (動詞) があることになる。もちろん、英語にも、「Fire! (火事だ)」というような一語だけでできている文(一語文)もあって、必ずしもS V が常に文に存在するとは言えないのだが、一語文は例外とするのである。

  これに対して日本語は、文尾には通常V (用言)があるけれどもSは欠くことも多く、その点において不完全な言語であると言う研究者が少なからず存在したが、文法学者の三上章氏は日本語は英語のようにS(主語)とV(述語)が結び付いて文を作るのではなく、「主題」「解説」が結びついて文を作る(主題のない解説だけの文もある)と説いたのである。主題と解説は次のように言うこともできる。

  主題=題目、問題、

  解説=解答、説明、論述、説述、

 この言葉を見て気づくことは、「主題」について「解説」したり「論述」したりして、何らかの結論を導くのが「文章」、とりわけ、「論述文」の本質であるので、日本語においては、文章の型(構造)が文の型(構造)と一致すると言ってもよいことになる。

  私は、論述的文章(論文)をその構造から二つの型に分ける。それは、

    ① 問題・解答型

    ② 問題・討論・解決型   

の二つである。これについては、説明していくと、制限のある紙幅の中におさまらないおそれが強いが、例を出して簡単に説明しよう。例えば、次の幾何の証明問題の文章は「問題・解答」型の文章になる。

 

 

 【問題】

 三角形の二辺の中点を結ぶ線分は第三辺に平行で、その長さは第三辺の半分であることを証明せよ。


 【証明】  

   

  △ABCの辺ABと辺ACの中点をそれぞれM、Nとすると、

   AM:AB=AN:AC=1:2 ・・・①

   ∠MAN=∠BAC ・・・②

 ①と②より、2辺の比とその挟まれている角が等しいので、△AMNと

△ABCは相似である。

 よって、MN:BC=1:2、つまり、MN=1/2 BC

また、∠AMN=∠ABCとなり、同位角が等しいので、MNはBCと平行である。

 以上により、三角形の中点を結ぶ線分は第三辺に平行で、その長さは第三辺の半分であることが証明された。


  この文章は「問題」と「証明」の二つの部分から構成されており、「証明=解答」であるから「問題・解答」型の文章になる。

 ところで、この「証明」の中の最後の段落「以上により、三角形の中点を結ぶ線分は第三辺に平行で、その長さは第三辺の半分であることが証明された」という部分に注目し、この部分が比較的長くて、全体をまとめている文章のような場合は独立させて、

  解答(証明)=討論+解決

というように、「討論」と「解決」に分けるのである。そうすると、論述文は、

  問題・解答型

  問題・討論・解決型 (cf. 序論・本論・結論)

の二つに大別できることになる。

さて、重要なことは、日本語では「文章」の構造と「文」の構造が一致する場合が非常に多いということである。例えば、次の文は、

  象は 鼻が長い        (象は  鼻が  長い。)

  主題   解説          (問題 討論  解決)

  問題   解答      (※上は解説(解答)を「討論」と「解決」に分析した場合)

  題    説(述)  

というように分析できる。つまり、「象」問題について、その「解説」「解答」をしている文である。「象」についていろいろと「解説」すれば一つの文章ができあがるが、この文はそれを一文で実現したものといえる。

  英語では、文において主語(=主格)と述語動詞の結びつきが強力であるため、英文法家といえども「問題・解答」や「問題・討論・解決」という文の構造をとらえることはできていない。英語の主語は私の言う「問題(主題)」の場合もあるが、そうでない場合も多い。例えば、

 In Osaka we have a lot of rivers and bridges. (大阪には川と橋が多い)

            S    V              O

という文では、“we”と “have”の「主語・動詞」の関係を最重視し、次に動詞との関係で、“a lot of rivers and bridges”を「目的語」として重視しているが、“in Osaka”は修飾語句(場所を示す副詞句)として処理する。しかし、この文は「大阪」を問題にしていると考えられるし、主語のweは訳す必要のない軽い語であるので、

   In Osaka we have a lot of rivers and bridges.  (大阪には 川と橋が多い) …(ア)

    主題            解説         主題     解説

    問題            解答         問題     解答

    題             説(述)      題      説(述)

といように理解した方がよい。英語の主語(S)と動詞(V)は、文中の重点の置かれている語に対応しているのではなく、動詞とそれに主として動作主(agent)としてかかる語との関係を示している。

  日本語は語彙として「は」という提題の助詞をもっており、見た目にもはっきりと、

   文の構造(文型)=(問題、主題)・(解答、解説、説述)=文章の構造(文章型)

   (※私は題・説を用いているが三上氏のよく使う題・述を用いることもできる。)

となる言語であるのに対して、英語における「主語」は、文において「題 (問題)」となる場合とならない場合があり、英文法の説く「主語・述語」にとらわれているかぎり、英文の中に「題・説」の構造を見いだすことはむずかしい。もちろん、英文にも「題・説」の構造がある場合も多いが、日本語の提題の助詞「は」のような語彙的な(lexical)標識がない(*注1)ので日本語に較べて見分けにくいということである。

 とりわけ、英語において人称代名詞の場合は、「題」にはなっていないことがほとんどなので、強勢のない he や she や they などを「彼は」「彼女は」「彼らは」と訳すと原文のニュアンスからはずれてしまうと思われる。例えば、次の英文は、

   Where did you go yesterday? ---I went to Kobe. ・・・・・(イ)

   君は昨日どこへ行ったんだ?  ---私は神戸に行った。

というように you や I の人称代名詞を訳出するのではなく、

  昨日どこへ行ったんだ? ---神戸に行ったんだ。(行ったのは神戸さ)

というように和訳した方がより原文(イ)のニュアンスに近いと考えられる。英語の人称代名詞は強勢(アクセント)がかかる場合を除けば、日本語には訳出しない方が原文の持つニュアンスに近い場合が多い。(イ)は実際の会話では、

   Where did you go yesterday? ---(To) Kobe. ・・・・・(ウ)

   昨日どこへ行ったんだ?    ---神戸さ。

というようにI went (to)は省略する方が自然だろう。

  『英語はこんなにニッポン語』(筑摩書房刊 1991年)の18~19頁の中でロビン・ギル(Robin Gill)氏は、

  英語と日本語では、主格という名のつく代名詞は比較にならないほど異なった言語学的生態の中に存在する。誰もが〈Ⅰ〉で文章を始める国においては、わざわざ〈Ⅰ〉を省略するのがかえって目立つのはきまっている。日本人の「美徳をドブに捨てる」より、〈Ⅰ〉を使った方が自分に注目を呼ばない、ということをしっかり覚えておいた方がいい。換言すれば、〈Ⅰ〉は十中八九、It rains. の〈It〉と同様に、そこにいながらいない便宜上の存在にすぎない。自分を指しているなどの感じはない。

 にもかかわらず、いちいち〈Ⅰ〉を立てるのはやはりくどいのだ、と思うことはもっともだろうが、言語の生態学(専門家のいう統語論ないしシンタクス)の相違はこの問題を解決する。英語の主格は、「は」や「が」や「φ=一息あける」によって文脈の中で独特な言語的“小島”として目立つ日本語と違って、文脈の中に沈んでいる。英語では「私はですね、・・・・・・」のような主格成句は到底不可能であり、「私は」くらいの自己中心的な発言も〈Ⅰ〉ではなく、‘As for me’‘In my case’となる。それに「うれしい、あたし」というように一人称をもって文章の末尾に色気を添えるやり方もなければ、「ぼくちゃん」のごとく〈‘Master I’=昔、米国の南部の子供のファースト・ネームの前にMasterをつける習慣があった〉一人称を名前にまですることも考えられない。‘a beautiful Japanese cat’(美しい日本の猫)とは言えるが、‘Beautiful Japanese I’(美しい日本の私)とか「私のあなた」「あなたの私」では英語にならない。せいぜい、meを使って一つの慣用句‘little ole me’(わたくしメ)しかできない。

 「君ではなく、‘I’ll do it. オレがやるから!!’」といった特別なケースを除けば、強調アクセントは「Ⅰ」にではなく、動詞の方に与えられる。‘I’m going.’を「私は行きます」と直訳すれば、その「私は」の加重値は助動詞とスムーズに同化する〈I〉より何倍も高いのだ。どうしても直訳したいのなら(英語的感覚を知りたければ)、恐らくこうなる---「キマス」。

と述べている。つまり、「アイ(I)…主語」と「行きます(will go)…述語動詞」は融合して、

  I’ll go.

となり、これは「たしはイキマス」ではなく、イキマス」くらいに縮合した感じになる、つまり、「わたしは=I=イ」でイキマス」というようになると述べているのである。

 英語では人称代名詞の “I” 等がよく使われるが、それは自己主張をする言語であるからではなく、そうせざるを得ない言語なのであって人称代名詞は非常に軽く動詞についているとロビン・ギル氏は述べているのである。人称代名詞が非常に軽くなり話者に代名詞としての意識がなくなると、それは「人称接辞」と呼ばれる。

 人称接辞とは、例えばアイヌ語では、

   Kuani Ainu ku-ne. (私はアイヌである)・・・・・(エ)

      I        Ainu      I-am.

と言うのであるが、文頭のKuaniは「私は」という意味の独立した単語である。ku-neの‘ne’は「である」という意味であるが、「私」について述べる場合は必ず「ku-」が付く。他の動詞、例えば「kor(持つ=have)」という動詞では「私」について述べる場合は必ず「ku-kor」というように「ku-」が付く。(エ)の文頭の Kuani は省略して

   Ainu ku-ne.

としても「私はアイヌである」という基本的な意味は変わらないが、「ku-」を省略して、

   Kuani Ainu ne.

というような形は正しい文ではなくなる、つまり非文となってしまう。このような「ku-」は「私(一人称)」を述べるときに必ず使われ、話者はそれを「私」を意味するとは意識できないような形態素であり、人称代名詞ではなく「人称接辞(personal affix)」と呼ばれるものである。

 アイヌ語の人称接辞の「ku-」を勘案すると、英語の “I” などの人称代名詞も非常に軽く必ず動詞に前接する形で用いられるのであるから、かなり「人称接辞」的な要素を持っていると考えた方が理解しやすい。私見であるが、英語の人称代名詞はある程度「人称接辞」になっているとも言える。完全に、人称接辞にならないのは英語がすでに筆記された言語であり、教育を通して文字による視覚からの影響のため、意識される人称代名詞から無意識的な人称接辞に転換することを妨げているからであろう(※欧米の文法学者で、I などの人称代名詞が人称接辞化 しているというような考えを出している人は私の知るかぎりいない。前述のロビン・ギル氏は言語学者ではないので[日本語に対する造詣も深く、俳号を持ち俳句や狂歌についての著書もある外国人の枠を超えた日本語の達人である]、“人称接辞”という用語を持ち出してはいないが、英語の I が半分くらい人称接辞化していることは感覚的に理解している。ギル氏が人称接辞が頻出する言語、アメリカ先住民族諸語やアイヌ語などの知識が少しでもあれば、“人称接辞”という用語を使っていたと思われる)。

 ここで私が強調したいことは、英語の I や you や he や she や it などは、強勢がかかり意識的に訳し出す「人称代名詞」として機能する場合もあるが、ほとんど訳出する必要のない、「人称接辞」と言ってもよいような代名詞として理解する方が良い場合も少なからずあるということである。

 とりわけ、“it”は、訳出しない方が良い場合が多い人称代名詞である。例えば、

   What is that? ---It’s a camera. (あれは何ですか?---カメラです。)

   What is that? ---That’s a camera. (あれは何ですか?---あれはカメラです。)

というように訳すべきである。‘It’s a camera.’を「それはカメラです」と「それは」を入れて訳すのは誤訳に近いと私は考えている。‘It’は概して「それは」とは訳さない方が良い場合が多いのである。It の特別用法として説明される次の文、

  It rains. (雨が降る)  It is cold. (寒いね)

における it も意味のない it と言われているが、三人称単数の動詞に-sが付くように、動詞に前接している人称接辞のようなものと考えることができる。つまり、

  It-rains.  It-is cold. (=It’s cold.)

というように動詞に融合していると見ることもできる。

 人称代名詞の“me”と“it”が同時に一つの動詞の目的語になる場合、

    ○ John gave it to me. …① (ジョンはそれを私にくれた)

   ○ John gave it me.   …②

        △? John gave me it. …③

というように、③の“me it”という語順はまず用いられない。これは、私がこの小論で説いているように、“it”がほぼ人称接辞化しているためではないだろうか。“it”は“me”よりもさらに人称接辞化しているので動詞に密着して用いられる、と考えられる。

 さて、次の英文はどのように分析し、和訳したらよいのだろうか。

  That boy runs fast. (あの少年は速く走る→あの少年は走るのが速い)・・・(オ)

     S  V M

 この英文は通常「あの少年は速く走る」と訳している。That boyは主語(S)、runs は動詞(V)として文の構成要素として重要視されるが、fastは修飾語に分類され、五文型で言う文の構成要素とは見なされない。しかし、この文で fast がないと、

   That boy runs.(あの少年は走る→「あの少年は走ることができる」の意味?)

という文になり、これはどういう状況を実際には示しているのか、ほとんど説明できない文になる。したがって、(オ)は fast という語があって成り立つ文で、fast は主語の that boy と同じくらい重要な要素であり、SVOC の中に入れてもらえない修飾語Mの地位しか与えられていないのは不当といってもよい。

 しかし、ここに、日本語の文章や文の文法をもってくれば、fastに相応の地位を与えることができる。

   That boy  runs fast.       That boy   runs  fast. 

    問題(主題)   解答(解説)     問題   討論  解決

   あの少年は 速く走る。      あの少年は 走るのが 速い。・・・・・(カ)

また、和訳も英語の語順と合わせて、「速い」を最後に持ってくる方が、原文のニュアンスをよく伝えているように思われる。

  修辞学 (rhetoric) では文中の語の並び方に注目する。文頭文尾は文中で強調され目立つ場所とする。この考え方を(オ)の英文に適用すると、‘That boy’と‘fast’が文中で強調される位置にあるから、それに合わせて日本語の訳も文頭と文尾に英語と同じ語を持って来れるなら、それにこしたことはない。(カ)は「問題」と「解決」を重視した訳である。

  日本語の文は「主語・述語」の構成になっているのではなく、「題(主題)・説(解説)」の構成になっていることを説いた文法家・三上章氏は、文を「有題文」と「無題文」に二分し、さらに、有題文を「顕題」「陰題」「略題」の三つにわけている。

   文:  有題文・・・顕題、陰題、略題

        無題文

   

   顕題: コウモリはけものだ。 (「~は」がある文)

   略題: コウモリはけものだ。鳥ではない。(後半の下線部の文は「コウモリは」という題が省略されている)

   陰題: 山田さんが到着したんです。 (=到着したのは山田さんです)

   無題: 風が吹いている。 

(※「無題文」については私自身は三上説にやや異論をいだいている。“今は”や“外は”のような“隠れた題=隠題”を考慮すべきかもしれない。「(今は) 風が吹いている。」、「(外は) 風が吹いている。」のように「隠題」を想定した方が理解しやすい。)

  上の簡単な例だけでは、有題文と無題文を理解するのはむずかしいかもしれないが、この考え方を英文に応用すると、和訳の仕方が英文本来の意味内容に沿ったものになると思われる。たとえば、次の対話文はどのように訳すべきか。

   What is Tom like?  --He runs fast.

 この文は普通、

   トムは どんな人ですか? ---彼は 速く走りますよ。

   問題   解答(解説)    問題  解答(解説)

と訳す。英語の‘he’などの人称代名詞は一度前に出てきたものを承けており、本当は省略したい軽い言葉であるが、英語では構文的に省略ができないので動詞に付いていると考えてよい。前述した人称接辞のようなものである。そうすると、日本文の略題と同様に考えて、

   トムは どんな人ですか? ---走るのが速いよ。

   問題     解答(解説)    解答(解説)

というように「彼は」という言葉は入れずに訳した方が原文の示す内容により近いと思われる。

 次の対話文はどう訳せばよいのか。英語の人称代名詞は特別に強勢がある場合を除けば日本語では省略されるものと考えてよいので、

   Do you often go out?  ---Yes.  Three days ago I went to Kyoto. 

            Yesterday I went to Kobe.  Tomorrow I will go to Nara.

 「よく出かけますか?」---「はい。三日前に行ったのは京都です。昨日行ったのは神戸です。明日行くのは奈良です。」

と訳せる。もう少し省略して、より会話文らしくすると、次のようになる。

   Do you often go out?  ---Yes.  Three days ago, (to) Kyoto. 

   Yesterday, (to) Kobe.  Tomorrow, (to) Nara.

   「よく出かけるかい?」---「ええ。三日前は京都。昨日は神戸。明日は奈良よ。」

 英文の方の構造は、

       Do you often go out?  ---Yes.  Three days ago I went  to Kyoto

       問題(主題) 解答(解説)     解答    問題(主題)     解答(解説) 

      Yesterday I went to Kobe.   Tomorrow I will go   to Nara.

      問題    解答        問題      解答 

    「Do you often .............go to Nara.」までで一つの「文章」となる。"Do you often go out?"は「問題部」て、“Yes.”から“to Nara.”までは「解答部」という形になる。「問題・解答」型の文章である。“Do you often go out?”の“Do you”を「問題」と下に書いたが、“you”に強勢がなければ文全体を「解答」と考えてよい(この辺は本格的な説明をすると長くなりすぎる)。文全体を「解答」とすると、三上文法の「無題文」となり、私の言う「隠題文」になる。私の上記の主張の流れからは“Do you”を「問題」とせずに、「often go out?」と一緒にして文全体を「解答(解説、説明)」とする方が適切であろう。この場合、最初の文は一文としては「解答」であるが、文章の構成部としては「問題部」となる。このような場合、「解答」が「問題部」になると言うと混乱する人がいるかもしれない。      

 ※{以後、問題の後の(主題)、解答の後の (解説)の追加表記は省略}

      Three days ago,  Kyoto.    YesterdayKobe.    TomorrowNara.

     問題    解答      問題  解答    問題  解答 

     題     説       題   説     題    説 

           三日前は   京都。   昨日は   神戸。    明日は  奈良よ。

というように分析することができ、英文の構造と日本文の構造の一致点がよく分かり、その訳も対応するように訳せるし、その訳の方が原文に即しているように思われる。

  日本語の文の構造、つまり、三上氏の説く「主題・解説」や、私の説く日本語の文章の構造、「問題・解答」型、「問題・討論・解決」型は、英語の文章と文の構成や分析によく適用できるし、さらに、英文の和訳にも役立つと思われる。

 

 

疑問文とその答の文はその二つで一つの「文章」となっていると考えるべきであろう。その場合「疑問文」は「問題部」、答は「解答部」となる(“部”は文章を構成する単位で段落より成る。段落は通常複数の文より構成されるが、一文の場合もある)。

 英語の文を五文型に分類して説明するように、私は文章を「文章型」で分類して、説明する。本当はもっと説明が必要であるが、簡単に表にして示したい。

(主題)

question

problem

subject

序論

introduction

議題

案件

agenda

issue

始め

beginning

入り

entry

質問question

疑問query

話題topic

課題theme

[題]

(展開)

discussion

development

expansion

本論

body

討論

検討

discussion

process

開き

expansion

answer

解説explanation

説明explanation

論述statement

 

 

[説]または[述]

または [説述]

、結論

resolution

conclusion

solution

結論

conclusion

決議

conclusion

decision

終わり

end

結び

close

 

 討論と解決を合わせて、「解答」「解説」「説明」等の用語を使うことができるだろう。もし、合わせた方が文章の内容に合っているなら、その文章は二部構成の文章、つまり、「問題・解答型」の文章ということができる。

 文章において、問題部、討論部、解決部はそれぞれ1つ以上の段落で構成されるのが原則。討論部と解決部を合わせたものを「大きな解決部」と呼びたい。場合によっては「大きな」を略して単に「解決部」と呼ぶこともあり得る。

 文法学者の三上章氏は、文において「~は」に対する用語の問題、話題、主題などを合わせて「題」とし、「~である、~する」に対する解答、解説、説明、論述、解決などを一括して「述」と呼んでいるが、私は「述」とほぼ同じ意味で「説」も使いたい。文や文章の構造に言及するとき、「題」と「説(述)」を使うのは簡素な用語で適当だと思われる。

***********************************************************

*問題部≧1段落; *討論部≧1段落; *解決部≧1段落 (※1段落≧1文≧1語)

*****************

*二部構成の文章は、問題・解答以外に次のような言葉で表すこともできるだろう。

問題・解答; 前半・後半; 問い・答え; 疑問・解答; 質問・解答; 話題・解説; 課題・解説

※ 題・説; 題・述

*「題・述」は「主語述語」つまり「主・述」に対応する表現として適当。また、「題・説」は「解説」や「説明」の「説」を重視した用語である。

 

※注1 英語の as for は日本語の提題の助詞「は」の働きをするが、日本語の「は」のようによく使う言葉ではない。

   As for winter sports, I like ice-skating.  ウインタースポーツと言えばアイススケートが好きです。

  →ウインタースポーツは、アイススケートが好きです。

 英文法で使う“主語”という言葉は英語のsubjectという語を訳したのであるが、このsubjectはラテン語に由来し、本来の意味は「支配下にある(もの)」という意味であり、「subject people(支配下にある国民=臣民)」、「a subject state(属国)」におけるsubjectがその意味をよく表している。が、文法用語として使われると“主語”“主題”と和訳するような意味になってしまう。subjectの本来の意味を取って直訳すると「支配下語」か「従属語」となるはずであるが、そのようにはなっていないし、英米人の文法家もそのような意味で subject を使ってはいないようで、日本人が“主語”と訳したのはその点で間違いではない(誤訳ではない)と考えられる。が、そのためか、英米の英文法家は主題と主語(=主格)を混同しているように私には思われる。つまり、彼らは三上章氏が指摘するまで“主題”と“主格”の区別があいまいで、彼らの用いる“subject”には“主題”になるものもあれば、そうではなく“主格”にすぎないものもある。 (2004年の拙論「日本語文法と英文の和訳」を追加修正、2018年6月6日記)

※※※コメント欄に「“文章”の定義」を付け加えました。(6月26日)

※※※※「三部構成の文章」は「題・論・定」という用語を主として使い、略称は「」としたいと思います。二部構成の文章は「題・」とし、略称は「」です。 (7月11日追記 9月21日追記) 


英語のはなし③ “find”の用法

2018-02-27 23:50:44 | 英語のはなし

   英文法の話 ③

 英文法の話が②でとまっていて、続きが書けていません。私は長年英語の教師をしてきたので英語にかんするブログを書きたいという思いもあり、テーマもいくつかあるのですが、あまりにも日本周辺の政治情勢がきな臭く、中国と韓国の日本に対する対応と北朝鮮の行動が常軌を逸脱していると感じ、政治的な意見を書いてきました。

 そして、英国のサッチャー元首相の演説 (*注1)  などもネット検索で出てきたので少し読んでみました。ところが、「鉄の女」と言われたサッチャー元首相の演説の中で、「あれっ?」と考え込んでしまう動詞のfind(見つける、分かる) に出くわしました。また、対日本との関係でとんでもないことを米国に「“そそのかしている”のではないか?」という疑いもわき起こりました (*注2) 

  *findの用法

 “find”の気になる用法に出くわしました。それはMargaret Thatcher Foundationの保管文章の中にあります。文章のタイトルは、

  "A Time for Leadership"  

となっており、サッチャー元首相が首相退任して11年後の2000年7月19日に米国のフーバー研究所で行った演説の中に出てくる文です。この文のfindは私の知っている意味「見つける、分かる」と直訳すると意味のとれない訳文になります。

  We really have no excuses. We know what works - the Anglo-Saxon model of liberty, property, law and capitalism. And we know where it works - everywhere it’s actually applied.  私たちは本当に言い訳はできません。私たちは何がよく機能するのかを知っています―アングロサクソン型の自由・財産・法と資本主義が機能するのです。そして、どこでそれがよく機能するのかも知っています―世界のあらゆる場所において実際に当てはまるのです。

  We must not be paralysed by false modesty or even good manners. Promoting the values that find their expression in America isn't imperialism, it's liberation. 

 私たちは虚偽の謙虚さや行儀の良い態度に感覚を麻痺させられてはならないのです。米国においてその表現が見いだされる価値を押し広めることは侵略(帝国主義)ではなく、解放なのです。

  And all of us who enjoy that liberty today should make our own the words of the poet Longfellow:

      Sail on O Ship of State!

      Sail on, O Union, strong and great!

      Humanity with all its fears,

      With all the hopes of future years,

      Is hanging breathless on thy fate!

 そして、今日その自由を享受している私たちは皆、詩人ロングフェローの次の言葉をわがものとしなければなりません。

  進航すすめ、ああ、 合衆国アメリカの船! 

  進航すすめ、ああ、連邦の船、堂々の船!

  世よのひとは、かぎりなき 怖れをいだき、

  未来への かぎりなき 希望をいだき、

  すがっているぞ、息ひそめ 汝の命運に! (※和訳は永井津記夫による)

 ※“the Union”は米国では、「アメリカ合衆国」を意味し、南北戦争中なら「北部連邦(=北部諸州)」を表す。一方、the Unionは英国では「連合王国(=the United Kingdom)」を表す。英国の国旗は“the Union Jack (=the Union flag)”である。   “State”は「州」と訳したりするが「国」の意味である。この場合は単数であるが“States”の意味で南北戦争前の米国(アメリカ合衆国)を表している。Unionもアメリカ合衆国を表すが、南北戦争中(1861-1865)は奴隷解放を目指す北部諸州(=北部連邦)、つまり、リンカーン大統領を戴くアメリカ合衆国 (奴隷制維持を主張する南部11州のアメリカ連合国[the Confederate States of America]を除く) を表す。リンカーン大統領は、南北戦争開始の際に、ロングフェローのこの詩を読み、涙し、数分のあいだ沈黙し、「兵士の心をゆり動かすことができるすばらしい贈りものだ」とだけ述べたと言われている。ロングフェローは戦争前から、奴隷解放側を応援していた。  そして、この詩(The Building of the Ship)が第二次世界大戦でも重要な意味を持つ詩として使われたのだ。米国大統領ルーズベルトは戦争が始まってすぐの1941年1月に英国のチャーチルにこの詩を手書きで手紙にして送り、攻勢を続けるドイツに対して劣勢の海洋大国・英国の奮起を促したのである。  

  findの使い方 : このfindは、一見して、私の文法知識からは違和感のある形に見えました。恥ずかしながら、“find expression”という熟語に出会ったことがなかったからです。サッチャー首相が間違った英語を使っているとは思えないので、この英文を理解するとすると、findをactivo-passive (能動受動態)の動詞と考えて、「(their) expression」を便宜的に(欧米の英文法家の理解不足は後で言及します) findの目的語と見ます。これは、

  This book sells well. (この本はよく売れる) SV (M)

  The Bible sells more than a million copies a year. SVO(聖書は年に百万冊以上を売る→~年に百万冊以上売れる→聖書は年に百万冊以上売られる)

 というように能動受動態のsellが目的語をとってい(るように見え)ます。この場合、目的語の「百万冊以上」を主語(主格)として、「~が…られる」と訳せます。つまり、日本語では目的語を主語(主格語)にして「~られる」と訳すとうまく収まります。これを応用すると(valuesの前の冠詞のtheは「その」と訳しておきます)

  the values that find their expression in America →The values find their expression in America.   →その価値は米国にその(自分の)表現を見いだす。→その価値は米国にその表現見いだされる

となります。そうすると、本文の

  *the values that find their expression in America 米国においてその表現が見いだされる価値

ということになります。説明はここで終えてもよいのですが、findが能動受動態として使われているとすると、その後に目的語(O)を取るのは不自然です。少なくとも、いわゆる学校文法で考えていくかぎり私には(昔の文法少年の私には) 納得いかないものがあります。

  欧米の英文法家は、率直に言うと、主格語(subjective)主題(theme…文の中に現れるもので、文章の主題とは異なる)の区別がよく理解できていません(日本の国語学者・三上彰氏が『像は鼻が長い』などの著書の中で主題と主格[主語]の違いを明らかにしました。日本語には「は」と「が」を使い分けるため明確に文の中に主題と主格の違いが出てくるのです。三上は一部の欧米の一流の文法家から高い評価を受けています。彼は明確に主題と主格の相違を示し、“主語”の曖昧さを指摘し、理解が十分でない欧米の文法家に文中の“主題”への注意を喚起せしめました)

   とくに、subjectという用語は文法書では「主語」という意味で(日本語の訳語も“主語”となっている)使うので、英文法を少し勉強しただけでは「主語」と「主題」の区別ができません。というより、英語のsubjectは辞書を見ればわかるように、「主語」と「主題」のどちらも意味しますから、文法学者を除けば、多分、大多数の英米人は、文中における「主題(文中の主題を文法用語としてthemativeとします (*注3) )」と「(動詞の行為者[agent]としての)主語=主格語(subjective)」の区別はつかないと考えられます(以後、「主語」の代りにできるだけ「主格語」を用います)

  This cloth feels soft. SVC…①

     S     V    C

この布地は柔らかく感じられる(~は手触りが柔らかい)。   

  feelsは能動受動態で「感じられる」という意味になり、自動詞で後のsoftは補語とします。伝統的な学校文法ではこのように理解します。しかし、clothはいわゆる主語(=主格語=subjective)ではなくて、主題(themative→T)だと考えると、“能動受動態”などの概念を持ち出さなくてもよいのです。①は日本語で、

  この布地は柔らかく感じるよ。   This cloth (I) feels soft.

  主題(題目)    説明(解説)        T      (S) V    C (五文型にTを取り入れた形)

と言えます。三上文法では、上のように「この布地は」の部分は主題になります。では、「感じる」に対する主格語、つまり、「だれが」感じるのか、ということですが、「私」が省略されています。というより、日本語では「私」などは入れないのが通常です。この日本語の構造を頭に入れると、①は、

  This cloth (I) feels soft. この布地は(ワタシ)柔らかく感じます。

  (?This cloth I feel soft.) (This cloth I feel to be soft.)

   → I  feel this cloth (to be) soft. ワタシはこの布地を柔らかいと感じる。…②

   S   V        O            C

つまり、①の英文には他動詞feelの主格語(=主語、subjective)“I”が隠れている(隠在している)と考えると、②の英文を導き出すことができます。今、①と②を並べると、

   This cloth feels soft. この布地は柔らかく感じられる。…①

   I feel this cloth (to be) soft. ワタシはこの布地を柔らかいと感じる。…②

       → (ワタシは) この布地は柔らかいと感じる。

 ①と②を三上文法にもとづいて考えると、”This cloth” は主題(~は)であって、主語(=主格語:~が)ではありません。feelも能動受動態(感じられる)というように迂回的にとらえる必要はなく「(ワタシが)感じる」という意味にとる方が理解しやすいと言えます。      

  This cloth I feels soft. この布地は (ワタシ) 柔らかく感じます。…③

というように和訳できますし、このような場合、日本語ではワタシはつける必要がありません。日本語では料理の作り方の説明に、

   豆腐はサイの目に切ります。 …④ <(あなたは)豆腐をサイの目に切ります。  (You) Cut tofu into cubes.

というような形の文で表現することが普通です。つまり、英語なら目的語になる語を日本語では“主題”にして動作主(主格語 subjective)は表現しない形で文をつくります。つまり、③の英文は、④の日本文に対応する形(深層意識的に同じ)と考えられます。つまり、③の“This cloth”は「主格語(subjective)」ではなく、「主題 themative」なのです。

 しかし、英米人は日本語の助詞の「は」と「が」に相当する語がありませんし、深く勉強(研究)した専門家でなければ、“主題”と“主格(=主語)”の区別はできません(英語のsubjectはもともと「主題」「話題」「問題」というような意味ですが、文法用語として、用いられ「話題の中心となっている語=主題」だけではなく「動作主を表す語=主格」の意味でも用いられています)

   では、ここで問題の英文にもどりましょう。上で、

 the values that find their expression in America →The values find their expression in America.

   →その価値は米国にその(自分の)表現を見いだす。→その価値は米国にその表現見いだされる

としましたが、findの前に“I”か“we”が省略されているとすると、

 The values (we) find their expression in America.…⑤ <The values find their expression in America.            

となり、⑤は、「その価値は米国においてその表現を見いだす」と訳すと、日本語としてまあ意味が通りますが、⑥のようにthe valuesを目的語の位置にもどすと、五文型的分類にしたがうなら、their expressionはC(補語)と考えざるをえません。

   We find the values their expression in America.

<We find the values to be their expression in America.

 S   V       O           C  (ワレワレは)その価値が米国における表現だと思う。

   →その価値は米国において言い表されていることだと思う。(このexpressionは受動の意味を持つと見る)

  研究社の『新英和大辞典』には、

   find expression 現れる 言い表される

とあり、これをそのまま活かして「The values find their expression in America.」を訳すと、

  その価値は米国において言い表されている。

となり、よく意味のわかるものとなります。

 ネイティブの立場で考えて見ると、findは明らかに他動詞として使われています。

   ① The values(S) find(V) their expression(O) in America. 価値(たち)は自分の表現を米国に見いだす。

 their はthe valuesという主語を承ける代名詞の所有格と見ることができます。名詞にも能動の意味と受動の意味があります。これは辞書や文法書では説明していません。たとえば、

  sight: He lost his sight. 彼は視力を失った。見ること→見る能力→視力

       a wonderful sight すばらしい光景 見られること→見られるもの→光景

sightは動詞のseeに由来する名詞ですが、「みること」「みられること」というように能動と受動の意味を持っています。私のブログ「英文法のはなし②」でも、この名詞の能動と受動(の意味)に言及しています。 sightと同じ意味合いでviewも受動と能動の意味があります。

さて、expressionですが、動詞のexpressは「表現する」「言い表す」という意味ですが、名詞のexpressionは「言い表し(ていること)」と「言い表され(ていること)」の両方の意味があると考えられます。そうすると、

   ①The values find their expression in America. 

    その価値は米国での自分の“言い表され”を見いだす。 

   →その価値は米国で自分が言い表されていることを見いだす。

というように無理やり訳すと、無生物主語構文として何とか意味がとれそうです。

 次のよく出てくる無生物主語の構文は、  

The next morning found him in the park. 次の朝、彼は公園にいるのがわかった。

   T         E(=(S) V O M)

The next morning (we) found him in the park.

      T             (S)   V    O    M  (Mは“修飾語(句)”です)

  この文では動詞foundの主語はthe next morningですが、深層意識ではweなどの人称代名詞が省略されていると考えればよいと思います。つまり、主格語のweは隠在しており、the next morningは主格語ではなく主題なのです。もちろん、このようなことを英語のネイティブに質問しても分からない(答えられない)と思いますが。  “find”の能動受動態の追求から、英文法家の「主題・主語(主格)」の混同まで、少し話がややこしくなりすぎたかもしれません。能動受動態の動詞はすべて人称代名詞(Iかweかyou)が動詞の前で省略されているとし、動詞の前の語(句)を“主題”と捉えると無理なく説明できる場合が大多数だと思います。

   This camera handles easily. (このカメラは簡単に扱える) <This camera (we) handles easily.

   That picture sells at a high price. (あの絵は高い値段で売れる)<That picture (I) sells at a high price. 

   This car drives easily. (この車は簡単に運転できる) <This car (we) drives easily.

上のhandleやsellやdriveは能動受動態としてよく使われる動詞ですが、一人称代名詞のIかweが(深層意識的に)省略されていると考えると理解しやすいと思います。

(*注1) サッチャー元首相の演説文“A Time for Leardership”の全文は3672語に及ぶ長文で、小見出しに、Back at the Ranch 「牧場」にもどって、The Hoover Institution’s Role フーバー研究所の役割、Lessons of Cold War 冷戦の教訓、Cold War’s Over….What Nest? 冷戦の終焉…次はどうなる?、Meeting New Threats新たな脅威の台頭[ロシア、中国、ヤクザ国家( North Korea, Iraq, Iran, Syria and Libyaを挙げている)]、Responding to Threats脅威への対応、Ballistic Missile Defence弾道ミサイル防衛、America in the Lead米国が一番、French Folliesフランスの愚行、Decision Time for Britain英国の決断の時、An American Century米国の世紀、となっています。

(*注2) サッチャーのこの演説は2000年に米国で行われたものです。彼女は在任中の1982年に訪中し“香港返還”について中国の最高指導者の鄧小平と交渉したが、香港の地位保全はかなわず、鄧小平が返還に応じなければ武力行使もあるということを述べたため返還に応じました。サッチャーはこの件で中国に対して“怨念”を抱いていたため、海洋国家として米国と英国の連帯をアピールするために(第二次世界大戦の時と同様に)このロングフェローの詩を持ち出したように私には思えるのです。

 が、サッチャーのこの意識が在任中(1979~1990)から意識され、米国との間で共通認識となっていたとすれば、“日米貿易戦争”で日本がしぶとく勝っていた1970年代から1990年代の前半にかけて、米国は日本に円高政策(プラザ合意)の要求、包括通商法(スーパー301条)の制定や日米構造協議などによって日本の対米貿易黒字を減らす(ごり押し)政策を要求してきました。この“日米戦争”にサッチャーが側面援助として、ロングフェローの詩持ち出したのではないか、というのが私の推測です。この詩は海洋国家の英国民と米国民を熱く刺激し、ナショナリズムを呼び起こします。サッチャーは首相在任中の米国大統領はレーガンで、親交もありました。また、レーガンの次の1989年就任したジョージ・H・W・ブッシュ大統領にも1991年3月にホワイトハウスで会見しています。このブッシュは就任直後の第一回年頭教書演説で、ロングフェローの“Sail on”の詩を持ち出しています。レーガン、ブッシュ、クリントン大統領の時代に米国は戦前なら戦争になりかねないスーパー301条などをつくり、日本を経済的に追いつめ、日本側の経済対策の失敗も重なり、日本に“失われた20年”をもたらした、と私は考えています。そして、その米国にロングフェローの詩を示して米英同盟で日本を苦しめたのがひょっとしたらサッチャーかもしれません。

  (*注3) ”themative”は普通の辞書にはない語です。文法家の中にはこの語を「主題」の意味で用いる人もいます。“explanative”は主題themativeに対してそれを承ける「説明」または「解説」の意味にあたる文法用語で、私の造語です。略称として、それぞれTとEとします。英語の文も日本語の文も“T・E(主題・説明)”という構成の場合と“E(説明)”だけの構成の場合があります。

  


英文法のはなし②

2017-07-26 16:06:29 | 英語のはなし

英文法のはなし②・・・辞書の意味は正しいか

  辞書に載っている訳語に関連して、1992年のことだったと思いますが、私が米国人のAET(Assistant English Teacher)のBill Griffinさんと話していて自分が大きな勘違いをしていたことに気づいたことがあります。

 問題の言葉は動詞“ask”です。私は、ask という動詞には大きく分けて二つの意味があると理解していました。「尋ねる、聞く」「求める、頼む」という意味です。

 (A)

  The clerk asked him his name. 店員は彼に名前を聞いた

  The teacher asked me where I lived. 先生は私にどこにすんでいるのか尋ねた

 (B) 

  Taro asked me for money. 太郎は私にお金を求めた→お金をくれと言った。

 Jiro asked her to marry him. 次郎は彼女に結婚してくれるよう頼んだ

  その経緯は忘れましたが、私はBillさんに「The verb “ask” has two different meanings? (動詞のaskは二つの違った意味がありますね?)」というような平叙文の文尾を上げる形で質問をしました。彼は私の質問の意味が全く理解できないというような顔をしました。私は上記のような例文を挙げて「意味が異なっていることを示したつもり」だったのですが、彼には理解できない質問でした。彼にとっていずれの“ask”も同じ意味を持っていると理解しているようでした。的はずれな質問をしていることが分かったので、私はその質問をうち切りました。

  その後、英英辞典(WebsterやThe American Heritage Dictionaryなど) で“ask”の意味チェックすると、

   seek something   ※seek=求める

ということで、something (=何か)に、information(情報)が来れば「聞く、たずねる」というように日本語に訳し、moneyが来れば、まさに「求める」と日本語に訳すのだということが分かりました。(※当時、日本の英和辞典の『ニューアンカー英和辞典』(学習研究社刊) はaskの基本義として「求める」をすでに記載していました。英語教師として恥ずかしいことですが、askなど自明のこととして辞書で調べることをしていませんでした。)

   ① Taro asked money from me.  太郎は私に 金を 求めた(asked)。

  ② Taro asked a question of me. 太郎は私にquestion を求めた(asked)。

 上記の①のaskedは「求めた」と訳してよい語ですが、②の英文のaskedを「求めた」と訳すと、questionは「質問」と訳すと意味がとれないことになります。

 ここで、“question”の意味を掘り下げて考えてみたいと思います。

 “question”は英和辞典を見ると、名詞として「質問」「疑問」「問題」と訳しており、動詞として使うと、「質問する」「疑う」という意味です。questionは語源から見ると、ラテン語のquaerereに由来しています。これは「求める(こと)」を意味しています。さらに、“quest”という語があり、この語もラテン語のquaerereに由来し、その点でquestionと同源ですが、questから直接にquestionが作られたのではないようです。questも名詞と動詞として使います。

  quest 名詞: 探求、追求、検死  動詞:捜す、探求する

 これから分かることは、questionは「質問」と訳しているのですが、語源的に考えると「求める(こと)」になります。そうすると、

   ask(求める) a question(求めること→求められること=答え)

となり、②の訳は、

  太郎は私に 求められること(=答)を求めた。

というような意味になりそうです。

  see the sights of~(~見物をする) Taro saw the sights of Nara. (太郎は奈良見物をした)

という表現があります。この場合の“sight”は「見るもの→見られるもの→景色、光景、名所」という意味です。

  Hanako trembles at the sight of a snake. 花子はヘビを見ると身震いする。

 この文のsightは「見ること」です。つまり、名詞のsightには「見ること」「見られるもの」というように能動的意味と受動的(=受け身的)意味があるということです。

   見る  見られるもの                  求める 求められ(てい)るもの

   see the sights             ask a question

  同族目的語という文法用語があります。「dream a dream(夢を夢見る)」「sing a song(歌を歌う)」などのdream やsongが前の動詞との関係で語源的にも同じで、同族目的語と言われていますが、fight(戦う)とbattle(戦闘、戦い)も、「fight a fierce battle(激しい戦いをする)」というように結びつき、語源的には異なりますが同族目的語として扱われます。そうすると、「see the sights」のsightはseeと同語源ですから、同族目的語であるのは言うまでもありませんが、「ask a question」のquestionも「求められること」という意味を含んでいると考えられますので同族目的語の一種と見ることができます。②の英文をここに再度示します。

  ② Taro asked a question of me.

    太郎は私に質問をした。…通常の和訳

 ここで、askedを「求めた」と訳そうとすると、questionは「質問」と訳すとおかしくなります。

  ②a  太郎は私に「求められ(てい)るもの(≒答)」を求めた。…異例の和訳

  私がなぜ②aのような和訳をするのかというと、①のaskedも②のaskedも英語を母国語とする人にとってほぼ同じ意味に持つ言葉に理解されているとしたら、②の「question」の訳語が適切さを欠いていると考える必要があるのではないかと考えたからです。 questionの訳語の「質問」は文字通りには「問い質ただすこと」、「問い質し」ですが、受け身の意味を持つと考えると、「問い質され(てい)ること」、「問い質され(てい)るもの」という意味になります。②の英文は、

  ②b 太郎は私に「問い質されているもの(求められているもの≒答)」を求めた。

とすると、askとquestionが結びつく場合も、英語のネイティブ・スピーカーはaskを「求める」という意味合いで理解していることが了解できると思います。

 つまり、“sight”という名詞が「見ること」と「見られるもの(=景色、名所)」というように能動と受動(受け身)の両方の意味で用いられるように、“question”も「問い質していること」と「問い質されているもの」という能動と受動の意味があると考えることも可能です。ここで、私が言いたいことはquestionの訳語として「質問」「疑問」「問題」だけでは不十分ではないかということです。

 最適かどうかは別として、ask(求める)に対するquestionの訳が「質問」が適当でないとして、それに代わる訳を新たに考えると、「被問」はどうでしょうか。“被”は「被告(告発されること、告発される人)」というように“受け身”を表すときに使われる語であり、日本語でいえば受け身の助動詞の「れる」「られる」に相当する語です。もちろん、「被問」は私の造語であり、辞書にはない言葉です。

   被問=問われ(てい)ること、問われ(てい)るもの →答

ということで、「被問」が裏に持っている意味は「答」ということです。

 さて、「ask a question」の“ask”が「求める」という意味で英語のネイティブは理解している(らしい)ということが分かってもらえたでしょうか。

 ここで、さらに理解しやすくするために、米国人から③と④の「きいた」について質問されたとしましょう。

   ③太郎は私の名前をきいた(聞いた)。  Taro asked my name.

   ④太郎はクラッシック音楽をきいた(聴いた)。  Taro listened to classical music.

 米国人の質問: ③の「きいた(聞いた)」と④の「きいた(聴いた)」は、意味がまったくちがっていますよね。③の「きいた」は英語にすると「asked」で、④の「きいた」は「listened to」になり、意味がまったくちがっていますから。

 私の答: ③の「きいた」も④の「きいた」も基本的には同じ意味ですし、同じ語源です。音や声を「聞く」ということですが、音楽を「聞く」ときには「聴く」を使うことになっています。③の「きいた」は「訊いた」とする人もいます。日本語では微妙なニュアンスの違いを漢字によって書き分けることがありますが、耳で聞く場合には③と④の「きいた」はほぼ同じ意味として理解しています。

 私がBillさんにした質問は、上記の米国人の質問と同じだと思われます。①のaskedと②のaskedがBillさんには同じ意味の言葉に聞こえるように、③と④の「きいた」が私には同じ意味の言葉に聞こえるのです。

  以上、この小論では、“ask”が二つの違う意味をもっているのか、また、“question”という単語を英和辞典はその意味を正確に捉えて訳しているのかを検討しました。外国語の単語を日本語に翻訳するのは非常にむずかしいことです。それぞれ意味する範囲がピタリと重なることは希で、どうしても重ならない範囲がでてきます。これを常に念頭に置いておく必要があります。現在の英和辞典のaskとquestionの訳(語義)が間違っているということではありません。不十分なところがあるということです。

(上の写真: 左に立っているのが40代前半の私[永井津記夫]。 右に座っているのがビルさん。家庭科の調理室を使わせてもらって会食をしています。1991年12月撮影。)

※Billさんは私からの文法上の質問に当惑の色を浮かべながら答える、気弱な、優しい性格の人でした。私は彼が熱心に日本語の勉強をしており、漢字に苦労しているのを見て、『英語の漢字クイズ(Nine-House Kanji Quiz)』を作ることにしたのです。  私はBillさんに文法的なことはあまり聞かないようにしました。彼は名門のGeorgetown大学卒の若者でしたが、専攻は英語や言語学ではなかったのであまり文法上の細かいことを訊くのは無理だということを悟ったからです。日本人で一流の大学を卒業していたとしても、国文科の出身で国語文法に特に興味を持って勉強した人でもないかぎり、米国人から「この助詞の『の』は格助詞ですか、終助詞ですか、接続助詞ですか、並立助詞ですか」、「この『の』は所有の『の』ですか、それとも所在の『の』ですか」というような質問をされたとしたら、答えられないのと同じです。

 Billさんとは会話中に“no way”という言葉が出てきて、一瞬、ムカッとしそうになったことがあります。

 私は考案した「Nine-House Kanji Quiz」を読売新聞が発行している英字新聞のデイリー・ヨミウリ(The Daily Yomiuri)に採用を依頼したところ、「Kanji Class」というコラムを作って毎週掲載してくれることになりました(Kanji Classは1992年から1999年まで連載されました)。それを、Billさんに知らせたときに、

  No way! (2秒ほどして) Congratulations!

とBillさんは反応しました。私は「no way=とんでもない、絶対にない」と理解していたので、「なんてことを言うんだ。失礼な」と一瞬、思ったのですが、彼は「Congratulations!」と続けたので「多分、no wayの意味を取り違えているのだろう」とすぐ思いなおしました。後で調べると、確かに、「no way=あり得ない→信じられない→すばらしい」というような意味でも使うのだということが分かりました。この意味のno wayはまだ普通の辞書には記載されていないようです。スラング(俗語)の段階の言葉なのでしょう。

                                                                  (2017年7月26日記)