*中国共産党政権の極悪非道*医薬保政複合体*シンプルで有効な小学生作文指導法*中国崩壊*反日の原点・鄧小平と朴正煕*

*中国共産党政権の極悪非道*いつ中国は国家崩壊するか*ヤクザ組織・国家への対処法*なぜ日本にテロが無いか*北朝鮮問題*

The Thought of Massacre Prevailing

2017-04-27 02:20:36 | 時事問題

The Thought of Massacre Prevailing

by Tsugio Nagai

 “The thought of massacre” is prevailing all over the world, which fact, I regret to say, hardly anyone recognizes. If “the thought of massacre” was applied to mankind, everyone of us would feel it to be horrible and dreadful and would firmly oppose it. However, when the dreadful thought is applied to insects or plants, we cannot recognize it but accept it as a matter of course. 


You find a lot of weeds in your garden, and you use herbicides in order to get rid of them. You find a swarm of ants in your kitchen, and you use ant insecticides to kill them. Herbicides and insecticides are, so to speak, “weapons of mass destruction” for weeds and ants.

You have caught tuberculosis, and you continue to take antibiotics to eliminate tuberculosis bacteria in the body. You have caught dysentery, and then, you take antibiotics to exterminate dysentery bacteria. It is quite natural that we take antibiotics for treatment because we will be killed without using them. But antibiotics are “weapons of mass destruction” for tuberculosis bacteria and dysentery bacteria, only a few of which manage to survive these weapons of mass destruction and obtain extremely strong resistance to antibiotics.

You have a slight cold, and you take a lot of antibiotics. As is well known, no medicine is effective against a cold itself. You have slight diarrhea, and you continue to use a lot of antibiotics. You use antibiotics far more than necessary. But you cannot eradicate all the germs. Only a few of them manage to survive antibiotics attacks and obtain too strong antibiotic-resistance.

In this way multi-drug resistant bacteria (super bacteria) have come to be created by us human beings because of our abusing a huge number of antibiotics and antibacterial detergents. So have several other multi-resistant bacteria . Those dangerous bacteria were not naturally born but we have created them.

Almost all antibiotics are now ineffective against those super bacteria (super germs). In the near future when they obtain perfect resistance to all the drugs we make, we, mankind, might finally be exterminated by those super germs created from “the thought of massacre.”

Living things try to survive all kinds of attacks threatening to destroy them, and leave offspring with much stronger resistance. It has become evident that different kinds of bacteria, when mixed up, can obtain other kinds of resistance by exchanging their resistance abilities. They are by no means foolish. Super tuberculosis bacteria are the heroes of those bacteria which have come into being for survival.

Defoliants used by the United States of America in the Vietnam War, herbicides, agrochemicals and insecticides probably come from “the thought of massacre,” which means “eradicating anything that hinders you.”

Everyone hates “harmful insects,” but they are named in that way from the standpoint of human beings. From the standpoint of “harmful” insects, human beings are the most “harmful” animals, or the most dangerous slaughterers.

I am also a member of human beings, and I accept others getting rid of harmful insects and weeds. However, when you, consciously or not, introduce “the thought of massacre” in order to get rid of them, I am afraid that it may lead to the extinction of mankind.

Using herbicides and insecticides all over our surroundings creates endocrine disruptors (endocrine disrupting chemicals), which they say do damage to the human generative function and threaten the survival of mankind.

I fear that to cope with living things harmful for mankind with “the thought of massacre” might be to lead mankind to extinction, namely, to “massacre” mankind.

Nuclear weapons and biochemical weapons are called weapons of mass destruction. They are, beyond controversy, weapons coming from “the thought of massacre.” They slaughter not only warriors, but also ordinary citizens, women, children, and even living things other than humans. They are, however, not the only weapons of mass destruction. Some drugs and some agrochemicals come from “the thought of massacre,” and one misstep could allow them to destroy mankind.

I believe that to renounce “the thought of massacre” will make human beings one level wiser and stop the destruction of them.
(written on April 26, 2017)

**I shall be very happy if you will give me a comment on this essay. Please click the Japanese コメント below.

Other Essays written in English by Tsugio Nagai:

*Japanese and Western people’s Misunderstanding of Freedom of Expression
*Ridiculous and Unfair Rule for Shorter and Smaller Ski Jumpers
*Change “Don’ts” into “Dos.” ---How to solve environmental problems
*How to Teach Other Countries’ Atrocities to the Next Generation
*“Do not stand at my grave and weep” altered by Tsugio Nagai
*The Root Cause of the Decline in Academic Ability

 


皆殺しの思想の蔓延

2017-04-22 11:59:27 | 時事問題
       皆殺し思想の蔓延 
The Thought of Massacre Prevailing
                                 永井津記夫

 「皆殺しの思想」が蔓延している。が、識者を含めて、疑問を呈する人は皆無という状況である。皆殺しの思想は人間に適用されると恐ろしいもの、大問題となるものであるが、これが、病原菌や害虫や植物に対するものだと、“皆殺しの思想”であるという認識がなく、当然のことのように受け入れている。
 肺結核にかかった。体内の結核菌を全滅させるために抗生物質を使う。赤痢にかかった。赤痢菌に対して抗生物質を使う。使わなければこちらが死んでしまうので、人間の立場からは正当防衛で当然の行為である。しかし、結核菌や赤痢菌にとっては、抗生物質は自分たちを絶滅させようとする大量破壊兵器である。からくも、絶滅をまぬかれたものが、耐性を獲得してそれを子孫に伝えて生き残りを図る。
結核は戦前は最も恐ろしい死病であったが、抗生物質のストレプトマイシンの登場によって治療によって治る病気になった。が、この抗生物質の乱用によって、スーパー結核菌(超多耐性結核菌)と呼ばれる“怪物”病原菌が生みだされた。どんな薬も効かない恐ろしい結核菌である。この結核菌が蔓延すれば人類は滅亡するかもしれないと言われている。この怪物は自然に生まれてきたものではない。人間がつくり出したものなのだ。
 ちょとした風邪をひく。有効でもないのに(風邪に効く薬はないと言われている)抗生物質を大量に使う。ちょとした下痢になる。抗生物質を使う。必要以上に抗生物質を使うことによって、絶滅をまぬかれた細菌は耐性を獲得し強くなる。
 スーパー結核菌のような怪物は、「人間を殺すバイ菌などこの世から消え去ればよい」という人間側の発想、つまり、「皆殺しの思想」から生みだされたのである。しかし、結核菌にしてみれば、生命体としての基本的な意志、なんとか命をつないで生き延びようとする強固な意志はもっている。人間の抗生物質等の各種の薬による“殲滅作戦”を切り抜けた固体は、薬に対して「超多耐性」を身につけるのである。これは人間が各種の細菌やウィルスに対して免疫力を獲得するのと同じことである。バイ菌も人間も生命体として生き延びて子孫を残そうとする強固な意志を持っているのである。
 生命体は自分の生存をおびやかすあらゆる攻撃から生き延びて、それらの攻撃をかわす能力を獲得して子孫に伝えて種として生き延びていくのである。しかも、異種の細菌間であっても、混ざり合えば他の菌が持つ耐性を受け継げることが判明している。つまり、異種の細菌間の情報交換である。彼らもバカではない。
 人類が細菌やウイルスに対して絶滅作戦を展開することは、スーパー結核菌のような怪物を生みだし、人類を破滅させることにつながりかねないのではないか。たしかに、人間を死にいたらしめる病原菌を駆除する、つまり、殺すことは人間にとって正当な行為であることは(人間の立場から見れば)疑いのないことである。が、それは駆除される病原菌の“立場からは”、容認できることではなく、生き残り作戦を展開するのは当然の行為である。スーパー結核菌は生き残るために生まれてきた結核菌の中のヒーローなのである。
 米国がベトナム戦争のときに使用した「枯れ葉剤」やそれと同様の性質を持つ「除草剤」や「農薬」、また、“害虫”に対する「殺虫剤」なども「皆殺し思想」から生みだされてきたものであろう。「じゃまもの(森林、雑草、害虫)は始末しろ」という発想である。
 “雑草”や“害虫”という考えは、人間の立場からの発想、命名であり、彼らから見れば人間ほど恐ろしい“害獣”、虐殺者はいないであろう。
 私も人間の一員であり、人間に害をなす“害虫”や“雑草”の駆除を否定はしないが、しかし、駆除するために「皆殺しの思想」を持ち込むと、逆に人類を破滅させる方向にすすませるのではないかという怖れを私は抱いている。
 除草剤や農薬や殺虫剤の大量使用は環境ホルモン(内分泌攪乱物質)生み出し、人類(他の動物も含めて)の生殖器官にダメージを与え、種の存続をおびやかすと言われている。これは現実に今起こっている問題である。しかし、それだけではなく、とんでもない“怪物”植物や昆虫をつくり出す可能性も皆無とは言えない。 “怪物”植物が登場するとすれば、たとえば、人類の生存をおびやかす有害な花粉などを空中にまき散らすのかもしれない。
 皆殺し思想をもって人類に害をなす生物に対処することは、人類の滅亡、つまり、人類の皆殺しにつながる可能性を高めることになるのではないだろうか。目には目を、歯には歯をの報復のサイクルが働くということである。
 人間は病気になったときに、病原菌によるものなら、その病原菌を駆除することは必要である。病原菌は殺さなければならない。蚊やアリなども必要に応じて駆除することは必要である。生命を絶対に害さないというような生活を送ることは不可能である。
 しかし、伝染病を運ぶ蚊や食品に害を与えるアリを皆殺しにすることは不可能であるし、もし、皆殺しにする薬が開発されたら、それはまちがいなく、結果として人類をも絶滅させるものとなる可能性が高い。
 核兵器や化学兵器は大量破壊兵器と呼ばれているが、疑いなく、「皆殺しの思想」にもとづく兵器である。戦闘員だけではなく、一般市民、女性、子ども、家畜などの人間以外の生物も含めてすべて殺戮する兵器である。が、これらのみが「皆殺しの思想」にもとづくものではないのだ。私たちのまわりの「薬品」や「農薬」には“皆殺しの思想”につながるものがあり、一歩まちがえば、人類の首をしめるものとなる。
 核兵器や化学兵器のみならず薬品や農薬を含めて、「皆殺しの思想」から脱却することが、人類を一段階高いレベルに引き上げて、人類の滅亡を阻止し、生き延びる道であると確信する。     (2017年4月22日記)

雄略天皇のクーデターと辛亥銘の鉄刀の銘文の訓み誤り

2017-04-13 22:19:25 | 雄略天皇と辛亥銘鉄刀銘文

雄略天皇のクーデターおよび稲荷山の辛亥銘鉄刀銘文の読みの再検討
 

 有名な辛亥銘の鉄刀の銘文の読み誤りを明らかにしたいと思います。次の文章は私が『季刊邪馬台国』などで発表した論文をまとめたものです。
 471年(=辛亥年)に雄略天皇は、有力な皇位継承者である二人の兄と三人の従兄弟を皆殺しにして(つまり、“辛亥の変”によって)、皇位を獲ったのだ、というのが私説の核心です。471年を雄略天皇の即位年とすることで、倭の五王の最後の王、武の宋への上表文との矛盾が氷解します。また、472年に百済の蓋鹵王は高句麗と激闘を繰りかえす中で、宋に朝貢しているにもかかわらず、宋の敵国の北魏に援軍を要請するという二股外交を展開している謎も解けます。
 471年を雄略の即位年とすることに賛意を示してくれる専門家も一部にはありますが、大多数の専門家は無視を決め込んでいるようです。このままでは真実が数十年うもれてしまうのではないかと恐れています。このブログを通じて私説が検討されることを願っています。
                         永井津記夫

***銘文中の「吾」はヲワケの臣ではなくワカタケル大王である。なぜなら、臣下は大王の前で「吾」を使うことはできない***

 私は『東アジアの古代文化76号』(大和書房 1993年)所収の拙論「辛亥の変とワカタケル」および、季刊『邪馬台国67号』(梓書院刊 1999年)に再掲載された同名の論文の中で「辛亥の変」と雄略天皇の関係を論じました。
 『日本書紀』の継体天皇二十五年のことろに、『百済本記』から引用した記事が載せられています。
 「太歳辛亥三月……又聞、『日本天皇及太子皇子倶崩薨』」
 (辛亥年三月に…また次のように聞いた。『日本の天皇と太子と皇子がともに崩じた』)
 この記事にもとづいて、継体天皇は六世紀前半の天皇であり、前半の辛亥年は531年ですので、この531年に、継体天皇が没したと書紀(『日本書紀』を書紀と表記することがある)の編者は考えたのです。そうすると、太子と皇子もともに死んでいなければならないが、書紀によると、継体天皇の時の太子も皇子も順に平和裏に皇位を継承して、安閑天皇、宣化天皇となっています。
 ここに大きな謎があります。つまり、
継体天皇が没したとき、太子と皇子がともに死亡する事件―「辛亥の変」が起こった、とする説と、「辛亥の変」は起こらなかった、とする説が対立しているのです。
 しかし、書紀が引用する百済系の史書、『百済本記』や『百済記』や『百済新撰』の中の日本関係の記事は干支によって年月が記されており、事件がいつ起こったか追求できるのですが、干支は60年ごとに同じ干支がめぐってくるため、事件ははじめに考えられていたよりも、60年後、120年後に起こったとすると整合性が得られることがあり、逆に、60年前、120年前に起こったとすると、うまく説明できることがあります。
 そうすると、継体天皇の没年とされる辛亥年の531年に起こったとされる“天皇と太子と皇子がともに死亡する大事件”は実はその60年前(=471年)に起こった大事件を指しているのではないか、という考えに至るのです。
 雄略天皇には、その即位前に「天皇と太子と皇子(たち)」が短期間で殺害されるという凄惨な事件が連続するかたちで起こっています。五人兄弟のなかの末弟の雄略は次兄の安康天皇が暗殺された直後、暗殺の犯人の眉輪王と二人の兄(坂合黒彦皇子と八釣白彦皇子)を殺し、そのあと、二人の従兄弟(市邊押磐皇子と御馬皇子)も殺害しました。その事件を、

  天皇=安康天皇
  太子=坂合黒彦皇子
  皇子=八釣白彦皇子・(眉輪王)
というようにとらえると、「日本天皇及太子皇子倶崩薨=日本の天皇及び太子、皇子がとも倶にほうこう崩薨した」という内容にぴたりと符合します。
 この考えが正しければ、五三一年に辛亥の変が起こったのではなく、その六十年前の辛亥年の四七一年に「辛亥の変」があったことになります。
 これは、古代史上において謎の世紀といわれる五世紀に一つの光明を灯し、雄略朝から武烈朝を経て継体朝にいたる古代史の謎を解明するのに、少なくとも二つの重要な手がかりを提供します。つまり、471年を雄略天皇の即位年として、謎の五世紀に一つの基点を与え、六世紀前半の継体朝から「辛亥の変」を消去し、そこから生ずる錯綜を除去することになります。
 雄略が470年後半から471年初頭にかけて政権奪取クーデターによって皇位につき、471年が雄略の治世元年であるとすると、辛亥銘の鉄刀銘文の「吾左治天下」の意味と、倭王武が四七八年に宋に出した上表文の「短期間に父兄を亡くし、服喪していたために軍を動かすことができませんでした」という内容とを矛盾なく整合的に説明できることになります。
 拙論「辛亥の変とワカタケル」(『東アジアの古代文化76号』[1993年 大和書房刊]所収の論文、この論文は『季刊邪馬台国67号』[1999年梓書院刊]に再掲載された)は五世紀から六世紀にかけての年代問題を確定するのに少なからず貢献すると自負していますが、私は同論文の中で鉄刀銘文の読みの通説に対して、銘文中の「吾」はヲワケの臣ではなく「ワカタケル大王」であるとする新説を提唱しましたが、あまり理解もされず、注目もされなかったように思われます。
 辛亥の変=雄略の政権奪取クーデター、辛亥年=四七一年=雄略の治世の元年と見ることによって、鉄刀銘文の作られた理由、ヲワケの臣の立場が非常によく理解できるのです。
私は「辛亥の変とワカタケル」の核心部分を抜粋し、多少、追加修正もして、鉄刀銘文に焦点をしぼり、とりわけ、「吾」と「臣」の意味内容を再吟味して、銘文の意味を再検討し、もう少しわかりやすい形で、通説の読みの誤っている可能性を追求したいと考えています。
 
【辛亥銘の鉄刀銘文の意味の再検討】

 昭和53年の秋に、埼玉県の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄刀に金象嵌の銘文のあることが発見され、そのことが新聞によって大々的に報道されました。
 岸俊男氏によると、鉄刀の銘文と、その読みは次のようになっています。

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也


 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、オホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(「寺」は「役所」の意)
   〔「稲荷山古墳鉄刀銘の読みについて」(『歴史公論 5』 雄山閣 1979年)〕
岸氏は銘文中の「吾」を〝ヲワケの臣〟と解している。ために、銘文全体の解釈が私とは根本的に異なるのですが、今ここでは便宜上、岸氏の読みとその解釈に基づいて、分かりやすく口語訳してみましょう。
 辛亥の年(四七一年)七月に{以下のことを}記す。
 ヲワケの臣の先祖はオホヒコである。その子はタカリのスクネである。その子の名はテヨカリワケである。その子の名はタカヒ(ハ)シワケである。その子の名はタサキワケである。その子の名はハテヒである。その子の名はカサヒ(ハ)ヨである。その子の名がヲワケの臣なのだ。代々、親衛隊の隊長となって{大王に}お仕えしてきて今日に至っている。
 ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の役所は{今}シキの宮に在り、私は{大王が}天下を治められるのをお助けしている。{それで}この百練の利刀を作らせて、私がお仕えする根原を記すのである。
 この銘文中の「辛亥年」は「四七一年」、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は「雄略天皇」とするのが現在ほぼ定説化しており、私もこれに関しては異論がないのですが、この読みは、刀も銘文もヲワケの臣が作ったとする立場からなされています。そして、銘文中の「吾」をヲワケの臣と解しています。
 一見、そのように読めそうですが、当時の君臣関係の常識はどのようになっていたのか。漢文の態(ボイスvoice)をどのようにとらえるのかによって、岸氏の読みは大きな誤りである可能性が見えてきます。


【通説は根本的に誤っているのではないか】
***「吾左治天下」と「吾奉事」の「吾」は雄略、「左治」は使役または受け身である***
 

 「人笑」という漢文は、普通に読むと
   人、笑フ。(人が笑う。)
という意味ですが、しかし、場合によっては、
   人ニ笑ハル。(人に笑われる。)
というように読む必要が生じます。つまり、能動に読むか受け身に読むかは文章全体の文脈の中で決定しなければならないのです。 
 そうすると「吾左治天下」はそのまま普通に読むと「私は天下を治めるのをたす左けている(天下を左治さじしている)」となりますが、「吾」が最高支配者のワカタケル大王(=雄略天皇)なら、大王が天下を左治することは有り得ないから、
  吾、天下を左治せらる。=吾、天下を(ヲワケに)左治せらる。
というように「左治」を受け身に読むことで文意が通じます。が、古代の君臣関係を重視し、君主は臣下に命令する立場を考慮すると、「左治」を使役に読むほうがよいかもしれません。つまり、
  吾、天下を左治せしむ。=吾、天下を(ヲワケに)左治せしむ。
となります。受け身と使役は大きくちがうように見えますが、根元的な状況、つまり、“吾(=ワカタケル大王)がいてヲワケが天下を左治している状況”は同じになります。
 それでは、私の銘文に対する読みと解釈を示しましょう。最初に、原文に段落をつけ、次にそれを読み下したものを示したいと思います。

辛亥年七月中記。
乎獲居臣。
上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余其児名乎獲居臣
世々為杖刀人首奉事来至今。
獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也。



辛亥(しんがい)の年七月中しる記す。
ヲワケの臣(おみ)
上祖(かみつおや)、名(な)はオホヒコ。其のこ児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカハシワケ。其(そ)の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサハヤ。其の児、名はヲワケの臣。
世々(よよ)、杖刀人(じゃうたうじん)の首(をさ)とな為(な)り、奉事(ほうじ)し来(きた)り今に至(いた)る。
ワカタケルの大王(おほきみ)、シキの宮に寺在(いま)す時、吾(われ)、天下を左治(さぢ)せしめ[せられ]、こ此の百練(ひゃくれん)の利刀(りたう)を作(つく)らしめ、吾(わ)が奉事(ほうじ)せらるる[せしむる]根原(こんげん)を記(しる)すなり也

というように読めます。語の順序も変えて、やや大胆に現代語に意訳すると、次の囲みの文章のようになります。

**********************************************************
 

  辛亥の年 七月
      記
     ヲワケの臣
上祖の名はオホヒコ。その子はタカリのスクネ。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。その子の名はカサハヤ。その子の名はヲワケの臣。
代々、大王の親衛隊の隊長となって、仕えてきてくれて今に至っている。
私は(汝に)天下を左治してもらっており、この百練の利刀を作らせて、私が(汝に)仕えられる[仕えさせる]根源を記しておく。
       於シキの宮 ワカタケルの大王


******************************************************
  この銘文は一つのテーマのもとに、まとめられた文章、つまり、一つの書式(フォーム)を持つ文章と考えられるので、細長い刀に刻むという制約から生じる〝直線的表記〟を四角い囲みの中の文章に変換することで見えてくるものがあるはずです。

 この意訳のポイントは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の部分を、
   鉄刀の授与者(=銘文を書いた主体)・・・・・ワカタケル大王
   大王の所在する宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シキの宮
を表していると見て、主文の外に出して、最後に付加したということです。
さらに、「吾左治天下」と「吾奉事」の「吾」をワカタケルとし、左治」と「奉事」を使役または受け身の意味を表すと見て、
 吾左治天下・・・吾われ、天下を(ヲワケの臣に)左治さぢせしめ・・使役
 吾(われ)、天下を(ヲワケの臣に)左治さぢせられ・・受け身
 吾奉事(根原)・・吾が奉事ほう じ)せしむる(根原) ・・使役
 吾が奉事ほうじせらるる(根原) ・・受け身
というように理解します。また、最初の「辛亥年七月中記乎獲居臣」の「記」を意味の上から「乎獲居臣」を目的語にとると見ると、
 辛亥年七月中記乎獲居臣・・・辛亥年の七月にヲワケの臣のことを記す 
というように解することができ、最初、そのように考えたのですが、銘文全体をヲワケの臣に対する感謝の言葉ととらえると、「辛亥年七月中記」と切り、次の「乎獲居臣」も独立した一文として扱う方がよいと思われます。つまり、銘文全体をヲワケの臣への感謝状と見て、「乎獲居臣」を「感謝状」の次に来る感謝される人物名と考えたのです。また、やや視点を変えていえば文章全体の中で、「乎獲居臣」はワカタケル大王からの「ヲワケの臣よ!」という呼びかけの言葉と見ることもできるでしょう。「記」を感謝状にかえると、

**********************************************
       感 謝 状(記)
     ヲワケの臣殿

(汝の)上祖の名はオホヒコ。その子はタカリのスクネ。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。その子の名はカサハヤ。その子の名はヲワケの臣。
代々、大王の親衛隊の隊長となって、仕えてきてくれて今に至っている。
私は(汝に)天下を左治してもらっており、この百練の利刀を作らせて私が(汝に)仕えられる[仕えさせる]根源を記しておく。
       辛亥の年 七月  於シキの宮     
              ワカタケルの大王 


**************************************************
となります。
 これで、銘文は私見のように「吾=ワカタケル大王」であり、ワカタケル大王が鉄刀を下賜する状況のもとでこの銘文を書いたと解釈できます。
これで、ヲワケの臣およびその系譜と、ワカタケル大王、辛亥年七月およびシキの宮との関係が完全に理解できるのではないでしょうか。
 この「感謝状」はヲワケの臣に対するものですから、ヲワケの功績を記しており、本文中の「吾」は、感謝の気持ちを書き記しているワカタケル大王となるのは明らかでしょう。
 さらに、ワカタケル大王は、ヲワケの系譜が第八代孝元天皇の第一子の「大彦」にまでさかのぼり、天皇(大王)家につながることを示し、それゆえ、自分がヲワケの臣に仕えられるのだ、つまり、系譜からヲワケは天皇家と親戚となり、それが奉事の「根原=根源」であると述べているのです。
 今、問題の「吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」を整理して示すと(熟語には歴史的仮名遣いを用いてあります)、

A 吾左治天下・・・吾は[ヲワケの臣に]天下を左治さぢさせており、
B 令作此百練利刀・・[吾は]此の百練の利刀りたうを[刀工(担当者)に]作つくら令
C 記吾奉事根原也・・・・吾わたしが[ヲワケの臣に]奉事ほうじされる根原こんげんを記しるす也のだ

となります。
 ここで、「左治」を使役とみることが可能としても、なぜ、Bのように使役の助動詞「令」がないのか、省略するのなら、Aで「令」を用い、Bで省略すればよいではないか、というような疑問をいだく人もいるかもしれません。
 「令」などの使役の助動詞のない使役表現と「令」について検討したいと思います。

〈使役の助動詞を用いない使役表現および「令」の位置〉
 『日本書紀』天武天皇朱鳥元年八月のところに、

庚午、度二僧尼并一百一。因以、坐二百菩薩於宮中一、讀二観世音經二百巻一。
庚午かのえうまのひに、僧尼并あはせて一百を度いへでせしむ。因りて、百の菩薩を宮中に坐ゑて、観世音經二百巻を讀ましむ。


というように使役の助動詞がなく使役に読むところが出てきます。この原文は、天武天皇の病状が重くなり、天皇サイド(皇后、皇子、重臣)は、八十名の僧を得度させ、さらに百名の僧と尼を得度させて天武天皇の回復を祈願している状況を示しています。そうすると、「百の観世音菩薩の像を宮中に安置する」のは、天皇サイドが命じた臣下か僧侶であると考えられるので、原文の「坐」は「坐(す)ゑて」ではなく「坐(す)ゑしめて」と読んでもよいことになります。
 鉄刀銘文の、
  吾左治天下、令作此百練利刀~
において、和語の影響から「令」が上に響いているとすると、

  吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作ら令め~
   =吾、天下を左治せ令め、此の百練の利刀を作ら令め~
ということになり、「左治し=左治せしめ」というように考えられるのではないでしょうか。
また、和語の影響を考慮しなくても、純粋の漢語においても最初の文に使役の助動詞が用いられておらず、次文に使役の助動詞が出てくる場合に、最初の文の動詞を使役に読むことはあり得ることなので、鉄刀銘文の「吾左治天下」の「左治」を使役と見ることは奇異なことではないでしょう。
 もう一つ、私見の正当性を示す例を挙げましょう。
 使役の「令」が二つ目(下)の動詞についている例が『日本書紀』の神功皇后摂政前紀にあります。
  皇后召武内宿禰、捧劒鏡令祈神祇、而求溝。

皇后、武内宿禰たけしうちのすくねを召して、劒鏡たちかがみを捧ささげ、神祇あまつかみくにつかみを禱祈いのりまさしめて、溝うなでを通とほさむことを求もとむ。

 この文は、神功皇后が朝鮮出兵を前にして、神田に川の水を引き入れようとしたが、大きな岩のために溝(運河)を通すことができませんでした。そこで、武内宿禰を呼び寄せて剣と鏡を捧げて(=捧げさせて)神祇に祈らせて、溝を通すことを求められた、という状況を述べたものです。
 この文では、皇后が武内宿禰に命じているので、常識的に考えると、「剣と鏡を捧げる」のは武内宿禰となり、「捧二劒鏡」の上に「令」があって「令捧二劒鏡」となっていてもよいわけですが、そうはならず、次の動詞の「禱祈いのる」の上に使役の「令」がついています。「令棒(捧げしめ)」のように「令」が用いられていないのは、下の「禱祈いのりまさしめて」の中に使役の「しめ(令)」があって、対偶中止法になっているからです。

【「左治」のように助動詞なしで使役と解せる他の重要な例】
 さて、「左治」のように「令」や「使」がなくても使役とする例は、すでに二つ挙げたのですが、ここでもう一つ追加しておきます。
その例は、私たちのよく知っている『魏志』「倭人伝」の中にあるのです。今、「倭人伝」の一部を次に引用しましょう。

其國本亦以男子爲王住七八十年倭國乱相攻伐歴年乃共立一女子爲王 ①名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以来少見者

 傍線部①の訳は武光誠氏の『魏志倭人伝と邪馬台国』(読売ぶっくれっと№10)によると、

①名づけて卑弥呼ひみこという。鬼道きどうに事つかえ、よく衆をまどわす。年已すでに長大なるも、夫壻ふせい無し。男弟だんていありて、佐たすけて国を治む。王となりてより以来、見る有る者少なし。
       〈現代語訳〉
 その名を卑弥呼といった。
 (卑弥呼は)呪術の道に仕え、人々を上手に眩惑させる。既に高齢だったが、夫はなく、弟がいて、補佐して国を治めた。王になってから姿を見た者は少ない。


となっています。特に傍線部①ですが、他の研究者もだいたいこのような読み下しや現代語訳をしているようですが、私には異論があります。
 傍線部①の中では「~は」という“主題 ”は、あくまで卑弥呼ですから、武光氏の訳を勘案し、原文も尊重した私の訳を示すと次のようになります。

名は卑弥呼といった。(卑弥呼は)鬼道につかえ、よく衆をまどわした。(卑弥呼は)年はすでに長大であるが、夫壻は無く、男弟が有って、国を佐治させていた


原文の「無夫壻」と「有男弟」は対句になっているから、二つに分けるのではなく一緒にしたほうがよいと思われます。
 この文の主題は前文で武光氏が「(卑弥呼は)」と示しているように「卑弥呼」ですから、その影響下にある「補佐して国を治めた」は、
(卑弥呼は)既に高齢だったが、夫はなく、弟がいて、国を治めるのを補佐させていた
というように「~させていた」と使役に訳すべきでしょう。そうすると、読み下しのほうも、
 (卑弥呼)年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有りて、国を佐治さぢせしむ。
というように「佐治」を使役として訓読したほうがよいことになります。訓読は原文に対する一種の訳ですから、全体の意味をとりそこねていなければ使役に読もうが非使役に読もうがかまわないのですが、辛亥銘の鉄刀の「吾左治天下」のように、動詞の「左治」を使役ととるか非使役ととるかで文章全体の意味内容がまったく変わってしまう場合には慎重に検討しなければなりません。

【「大王」と「臣」と「吾」】
 私は以前から気になっていることがあります。それは、大王は自分を「吾(われ)」と言うのは当然ですが、臣下が大王と並んだときに、「吾(われ)」と言えるかどうかということです。
これは、養老律令(757年施行)の儀制令に「凡皇后皇太子以下、率土之内、於天皇太上天皇上表、同稱臣妾名。對揚稱稱名(皇后・皇太子以下すべてのものが、天皇・太上天皇に上表するときには、臣○○、妾○○と称せよ。御前にて申すときは、単に○○と名だけを言え)」とあり、この儀制令(後世のものですが)に沿った形式と言える。つまり、臣下は天皇(大王)に上表するときや、その前では、「臣○○」か「○○」としか言えなかったわけで「吾」は使えなかったのです。これは、8世紀の天皇への上表時と御前での礼法ですが、6世紀の欽明天皇の時代にもあり、百済の聖明王が自身を「臣明」と言って欽明天皇に上表しています。
 雄略天皇の時代、つまり5世紀はどうなっていたのかですが、倭王武は宋の皇帝への上表文において、
 臣雖下愚(臣、下愚なりと雖も)  臣亡考済(臣が亡考済)
というように、「臣」という用字で、「吾」や「我」などの一人称代名詞は用いていません(「臣」を和語で読めば「やつこ」となります)。つまり、倭王武(=雄略天皇)は中国皇帝に対して、「臣」を用いていたのですから、倭国内においては、自分の臣下に対して「臣」を使わせていたと考えてもよいでしょう。また、養老律令の儀制令にあるように、単に名前だけを言わせることもあったと思われます。
五〇三年に製作されたと考えられる隅田の鏡の施主だと思われる百済の武寧王は「斯麻」というように無称号の諱で書かれています。
 倭王武の上表文中の「臣」、隅田の鏡の「斯麻」の無称号、百済の聖明王の「臣明」を勘案すると、雄略天皇(倭王武)の時代には、書紀編纂時の天皇に対する臣下の礼法とほぼ同様に、大王に対しては臣下は「吾(われ)」ではなく「臣(やつこ)」という謙称の一人称代名詞を用いるか、単に「○○」と名前だけを用いたと考えられます。
 つまり、雄略朝においても、8世紀の養老律令の儀制令と同様の礼法があったと考えられます。この雄略朝の礼法が、辛亥銘の鉄刀銘文が発見されたときは理解されていませんでした。
 もし、ヲワケの臣がこの鉄刀を作って、「自分はワカタケル大王を左治したのだ」と自慢しているのだとしたら、銘文は、
・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、吾左治天下・・・
ではなく、「吾」の代りに「臣」か「ヲワケ」か「臣ヲワケ」を用いて、
  ・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、左治天下・・・
  ・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、ヲワケ左治天下・・・
  ・・・獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮、臣ヲワケ左治天下・・・
となるはずです。雄略天皇の時代の礼法からすると、「獲加多支鹵大王」のあとで、「吾=ヲワケ」が出てきてはいけないのです。したがって、雄略朝の礼法からは、この「吾」は「ヲワケ」ではないと言えます。「吾」がヲワケではないなら、この銘文のもう一人の主役「獲加多支鹵大王=ワカタケル大王」とならざるをえません。
 また、漢文の流れからみても、「吾」のすぐ前の人物を表す言葉は「獲加多支鹵大王」ですから、「吾」はまずこの人物を指していると考える必要があります。それでどうしても文意が通らなければ、次の人物に移る必要が出てきます。
 しかし、ここは、「吾」を「獲加多支鹵大王」とし、「左治」を使役と考えれば文意が通るのですから、「吾=獲加多支鹵大王」とすればよいのです。

【雄略の即位と宋への遣使問題】
 雄略が私見の如く四七○年の末から四七一年の初頭にかけて政敵、つまり、兄と従兄弟たちをことごとくほうむり(辛亥の変を起こして)、天皇(大王)位についたとすると、その後、数年間は父兄(允恭、安康等)の服喪に入っていたために兵を動かせなかったと考えられます。
 服喪期間が三年か四年(敏達天皇や斉明天皇は没してから埋葬するまで五年七ヶ月ほどの期間があります)ほどとすると、四七五年ころには喪が明けて百済を救援する態勢をとることができるようになったと思われますが、時すでに遅しの状況であったと思われます。
 雄略の援軍を得られなかった百済の蓋鹵(かふろ)王は四七五年、高句麗の長寿王が率いる大軍のため、殺害され、王都漢城は陥落しました。が、からくも敵の手をのがれた息子の文周(もんす)が南行して熊津に都をつくったので、百済は滅亡だけは免れたのです。四七五年よりも二、三年前に倭が援軍を送るなどの手をうつことができていたら、百済が滅亡寸前まで追いつめられることはなかったと思われます。
 四七二年、百済の蓋鹵王は北魏の孝文帝のもとに遣使して、高句麗の南侵に対して援軍を要請した。これは、南朝から代々冊封されている百済王の巧みな二股外交のようにもみえる。が、蓋鹵王がこのような外交政策をとったのは、四七二年の時点で服喪中の雄略に援軍の派兵を要請できなかったため、せっぱつまって北魏にも支援を求めたものと考えられます。
 『日本書紀』によれば、蓋鹵王は弟の昆支王を四六一年に倭に人質として送ってきました。王族を人質として送ってきている同盟国・百済に雄略はなぜ援軍を送りださなかったのか。
 その答は簡単です。すでに説明してきたことで明らかなように、雄略は服喪中で軍を動かすことができなかったのです。書紀によると雄略は死去する年(四七九年)四月に、百済の三斤王が急死したことをうけて、昆支王の子どものうちの一人、末多王に護衛兵五〇〇名をつけて政治的に混乱状況にある百済に送り、王位につけた。雄略は百済を軍事的に援助する心を十分に持っている大王(天皇)でしたが、服喪中は雄略といえども朝鮮半島に軍を送り出すことはできなかったのです。それゆえ、せっぱつまった蓋鹵王は北魏にも支援を求めたのだと思われます。
 百済・北魏・宋・高句麗・倭をめぐる当時の国際情勢、つまり、朝鮮半島周辺の国際情勢からも、四七一年ころに雄略が即位し、その後数年間、服喪中で兵を動かすことができなかったと考えると、より合理的に当時の状況(国際情勢)を把握し説明できます。
 雄略が四七一年に即位したという私見は、第一義的には、いわゆる「辛亥の変」が継体朝の五三一年に起こった事件ではなく、その六十年前に雄略が起こした政権奪取クーデターであるという考えにもとづいているのですが、百済の北魏に対する外交も副次的な根拠となっているのです。
 百済における四七二年の対北魏外交と、四七五年の対高句麗戦争の敗北を同盟国の倭の雄略天皇の服喪状況と結びつけて説明した研究者は私がはじめてですが、四七一年に雄略が即位し、しかも、父や兄たちの喪に服していたとすれば当然のごとく生じる考えです。
 宋への雄略の上表文の内容と、即位後の服喪期間、宋への朝貢に対する高句麗の妨害期間、上表された年、四七八年(実際には四七七年末と思われます)を勘案すると、ある程度の確かさで雄略の即位年の四七一年を推定できることになります。
 雄略天皇の即位年は四七一年である、というのが私の結論です。これによって“謎の五世紀”に基点となる年が決まり、倭の五王の解明も可能となってきます。五世紀と六世紀の古代史の解明に大きく貢献します。

 倭の五王の解明や、継体朝の問題は次に発表したいと考えています。御期待ください。


教育勅語と現代語訳 The Imperial Rescript on Education Translated into Modern Japanese

2017-04-13 14:48:03 | 教育勅語の現代語訳と関連資料

 教育勅語の原文と現代語訳
                                                                     by 永井津記夫

 大阪の森友学園で、幼稚園児に教育勅語を暗唱させているとのことで問題となっています。「教育勅語」は戦後すぐに、主権在民の日本国憲法の下ではふさわしくないとして、衆参両議院で廃止することが議決されました。しかし、教育勅語の内容はすばらしいものだとする人たちもあって、この教育勅語の内容を精査する必要があると思います。
 ここに原文と私自身の現代語訳等を示し、どこに問題点があるのかを考える材料にしていただければ幸いです。

教育勅語(原文)
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日

教育勅語の現代語訳
 **できるだけ原文のニュアンスを残して正確に現代語に私が訳したもの**

(われ)思うに、我が皇国の始祖・先祖が国をはじめられたのははるかなる過去のことであり、積まれてきた徳は深く厚い。我が国の家来の国民(=臣民)は、よく忠義をつくし、よく孝行することができるのであり、全国民が心を一つにして代々このような美しいこと(=善きこと)をなしてきたことは我が国柄のもっとも優れたところであり、教育の根源も実にここに存する。
お前たち臣民(家来の国民)よ、父母に孝行し、兄弟仲良く助け合い、夫婦仲むつまじく、友だち、信じ合い、恭しく慎み深くして、博愛を衆に及ぼし、学問を修得し、技能を習得して、それによって知恵と才能を開発・錬磨し、徳と器量のある人物となり、進んで公共の利益を増進し、世のためになる仕事を起こし、常に国の憲法を重んじ、法律を遵守し、ひとたび、緊急の事態が生じたら正義の勇気をもって国家に奉仕して永遠なる皇国の運命を助けよ。
このようにすることは、単に(わ)が忠良な臣民(=家来の国民)であることになるだけではなく、お前たちの祖先の遺風・伝統をたたえることにもなるのだ。
この道理は、実に我が皇国の始祖・祖先の遺訓であり、その子孫と臣民(家来の国民)がともに遵守すべきものであり、全ての時代を通じてこの道理を誤ることなく、国の内外に示して正しい道を行くのだ。
(われ)とお前たち臣民(=家来の国民)とが皆一緒になって常に心に刻んで忘れずにこの美徳を守って実践していくことを切望する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・             
※明治天皇は、大日本帝国憲法下の天皇であり、主権は天皇にあり、大臣やその周辺の華族や官僚は臣下であり、その他の国民は“天皇に従属する民衆”であり、「臣民」と呼ばれた。天皇が王者としていわゆる「王者ことば」を使うのは当然であり、漢文訓読体の文章は天皇主権下の(今日の基準から見ると尊大に思われるが)「王者の言葉」を示すのに適している。私の訳は主権者として天皇の臣民に対する“王者ことば”を正確に訳すことを念頭においている。教育勅語に対する諸家の現代語訳は「王者ことば」の意味合い、ニュアンスを無視しており、「爾なんじ臣民しんみん」の意味合いを訳出していない。明治帝が王者ことばを帝国憲法下で使うのは王者(=主権者)として当然であり、それを無視するかのような訳をすることは明治帝に対しても失礼なことである。「朕」は古代中国で一人称代名詞としてだれもが使う言葉であったが、秦の始皇帝が皇帝のみが用いる言葉と定め、その後、歴代の皇帝に使われた。そして、日本にも入ってきて、天皇が使う「われ」の用字となった。

【原文の難しい漢字に読みをつけ、濁点にすべきところを濁点ににし、句読点をつけた教育勅語の文章】
朕惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實ニ此ニ存ス。
(なんぢ)臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)(こ)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。
是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんぢ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕爾(なんぢ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ、咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こひねが)フ。

*皇祖…皇室の始祖:語義としては天照大神を指すと思われるが、教育勅語の起草者の中心人物の井上毅は初代の神武天皇としていたとされています。 
*皇宗…歴代の天皇   
*皇国…天皇の統治する国
*我が…直訳は「私の」ですが、日本語の単語は基本的に単複同形なので、「私たちの=我らが」の意味にとる方がよいと考えられます。しかも「私たちの国の(=我が国の)」というニュアンスも込めているようです。この文章の起草者は「朕=明治天皇」と「我=日本人全員(天皇も含めて)」を使い分けているように私には思われます。
*朕…古事記が編纂されたころ(八世紀初頭)から、天皇が使う「われ」に対する用字として「朕われ」が用いられるようになりました。それ以前は天皇が使う場合でも用字として「吾われ」や「我われ」が使われていました。ここでは「朕=わたくし」と訳さず、「朕=われ」と訳しておきます。奈良時代の「朕=われ」は現代語の「わたくし」という言葉が有するかしこまった、あらたまった意味合いとは正反対のニュアンスの語であり、現代語のニュアンスで言えば、「おれ」に近い言葉であって、丁寧さを含まない言葉です。757年の養老律令によると、天皇の御前では皇太子、皇后以下、臣下はみな「われ」を用いることはできませんでした。この理由は「われ」には丁寧さがなく天皇の前で使うと無礼なひびきがあったためと思われます。が、当時の天皇は王者でありだれに対しても遠慮する必要はないので「われ」を使っていました。
 例えば、社長と二人の社員のあいだの次のような会話があったとします。
  社長:オレはこの計画に大賛成だ。
  社員A:わたしこの計画はうまく行かないと思います。
  社員B:自分失敗する可能性が高いと思います。
 この会話の中で社長は一番えらいので「オレ」という一人称代名詞を遠慮なく使えますが、社員は「オレ」は使いにくく、「わたし」や「自分」になると考えられます。古代の「ワレ」はこの「オレ」に近いニュアンスがあるのです。
 以上のことを踏まえ、朕のあとに「が」が続くときは「朕=わ」として、天皇が用いる「王者ことば」のニュアンスを出したいと思います。
  …吾許曽居…我許背歯…(吾われこそ居れ…我われこそは) 
    [万葉集巻一・1] (吾=我=雄略天皇…五世紀に在位)
  …我者将御在天皇朕…(我われは御在いまさむ、天皇すめらわれ)
    [万葉集巻六・973])(我=朕=聖武天皇…八世紀に在位)
  …朕裳裾尓…朕(わが)(も)の裾(すそ)(に)…(朕(わ)が裳(も)の裾(すそ)に) 
    [万葉集巻巻一九・4265…752年に作られた歌] (朕=孝謙天皇)
 このように「朕」は奈良時代には「ワレ(ワガ)」と読まれる用字でしたが、鎌倉時代のころに天皇の特別な地位を明確に示すためか「チン」と音読みするようになったようです。その音読みが戦前まで続いていたのです。教育勅語は明治二十三年に作られたものなので朕はワレではなくチンと読むのが原則です(しかし、歴史的経緯を勘案すると、ワレと読んでもまちがいとは言えません)。
*克よく…よく、十分に、耐え抜いて~できる(be able to=can) 
*億兆…万民、全国民  *世世=代々 
*美=善いおこない、美徳  *精華…もっともすぐれたところ、真髄
*爾(なんぢ)…敬意を含まない二人称代名詞、現代語の「おまえ」に近いニュアンスの語。ここでは「なんじら」と同じ意味で複数形の意味を持つ語として使われています。日本語は基本的に名詞も代名詞も単複同形として用いられます。
*臣民…君主に従属する国民、わかりやすく訳すと「天皇の家来の国民」ということになりますが、家来は通常「殿様とその殿に仕える武士」という文脈で使われるので、厳密には「家来」も適切ではありません。「臣民」は一般庶民であり、天皇のまわりの臣下(華族、官僚)とは異なります。
*爾臣民…多数の専門家と見なされる人たちが「国民の皆さん」というような訳をしていますが、これは意図的な誤訳でしょう。米国大統領が米国民に呼びかける時に使う“my fellow citizens”などとは意味合いが大きく異なり、王者が家来に呼びかける言葉です。「爾臣民」は「お前たち家来の民(よ)」という意味合いで使う言葉です。
*学…学問のこと。教科的には修身、国語、算術、歴史、地理など。が、もっと広く、学問一般も指しているでしょう。  
*業…技術、技能のこと。教科としては図画、裁縫など。が、もっと広く、仕事一般に対する技能のことも含めているかもしれません。
*「学」と「業」を合わせて「学業」であり、「修」と「習」を合わせると「修習」となります。教育勅語は基本的に学校の生徒に対する勅語であると考えられますので、この「學ヲ修メ業ヲ習ヒ」の部分は「学業を修習せよ」、ひらたく訳せば「学校での勉強(=学問的教科と技能的教科)をしっかりとやって身につけよ」ということになるでしょう。  
*智能…知恵と能力、智恵のはたらき *徳器…徳と器量、りっぱな人格  
*世務…世の務め、世のためになすべき仕事、世の事業  
*世務を開く…「開」は「ひらく」という意味ですが、「発」も「ひらく」という意味で使われ、「おこす=起こす」という意味にもなります。そうすると、「開」にも「起こす」という意味合いがあると見ることができます。「開店」という熟語は、“朝9時に開店します”というようによく使いますが、“新たに店を開く、店をおこす”という意味で使います。「開国」も古くは「建国(=国をおこす)」の意味で使われました。「開発」という熟語も存在します。これらを考え合わせると「世務を開く」は「世のためになる仕事、事業を起こす」という意味にとることができます。明治時代は人口が爆発的に増加していく時代であり、農業中心ではすべての労働力を吸収することはできず、産業を興し、国民に多くの働く場を提供する必要がありました。1940年の文部省図書局の「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書」においても「世のためになる仕事をおこし」というように訳されています。いくつかの教育勅語に関する本やインターネット上で教育勅語の現代語訳では「開」を「行なう」としているものがあり、「世務を開く」を「世のためになすべき仕事を行なう」と訳しています。これは「開」の意味を誤解していて誤訳といっていいと思います。 
*天壤…天地  無窮…きわまりないこと、無限  
*皇運…皇国の運命  扶翼…たすける(=扶助、扶も翼も「たすける」の意)
*遺風…昔から伝わっている(良き)風習
*義勇…正義と勇気、正義を愛する心から生じる勇気
*遺訓…残された教え *拳拳…捧げ持つ、固く握って放さない  
*服膺…こころに留めて忘れない。

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文部省図書局『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』(1940年)より。明治天皇から勅語を賜った文部大臣が管轄する文部省自身による「正式な現代語訳」とされる文章 を以下に示します。

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。
汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む

 

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Know ye, Our subjects:
Our Imperial Ancestors have founded Our Empire on a basis broad and everlasting and have deeply and firmly implanted virtue
Our subjects ever united in loyalty and filial piety have from generation to generation illustrated the beauty thereof. This is the glory of the fundamental character of Our Empire, and herein also lies the source of Our education.
Ye, Our subjects, be filial to your parents, affectionate to your brothers and sisters: as husbands and wives be harmonious, as friends true; bear yourselves in modesty and moderation; extend your benevolence to all; pursue learning and cultivate arts, and thereby develop intellectual faculties and perfect moral powers; furthermore advance public good and promote common interests; always respect the Constitution and observe the laws; should emergency arise, offer yourselves courageously to the State; and thus guard and maintain the prosperity of Our Imperial Throne coeval with heaven and earth.
So shall ye not only be Our good and faithful subjects, but render illustrious the best traditions of your forefathers.
The Way here set forth is indeed the teaching bequeathed by Our Imperial Ancestors, to be observed alike by Their Descendants and the subjects, infallible for all ages and true in all places.
It is Our wish to lay it to heart in all reverence, in common with you, Our subjects, that we may all thus attain to the same virtue.
The 30th day of the 10th month of the 23rd year of Meiji (1890)

英訳は、明治40年の文部省発表のものです。
※この英訳は教育勅語の意味するところをよく押さえてかなりの程度、直訳的に訳していますが、そうでなく、意訳しているところもあります。
  まず、最初の言葉、
  Know ye, Our subjects:
ですが、「なんじら臣民よ、(以下のことを)知れ:」と命令文になっています。これは「朕惟フニ」の部分を訳しているのでしょうが、大胆な意訳です。yeは古語で二人称代名詞複数形主格であり、「なんじら(あなたたち)」の意味です。現在、英語の二人称代名詞複数形主格は、you(あなたたち[は])が使われるが、これはもとは目的格(あなたたちを)でしたが主格yeの代りに使われるようになったのです。Know yeは、聖書にも見られるもので荘重な表現と言えます。
 「世務ヲ開キ」の部分の英訳は「promote common interests」となっています。直訳すると「公衆の利益を促進せよ」ということになり、直前の語句「furthermore advance public good(さらに公共の利益を増進し)」と同じような意味の語句を繰りかえしていて、「世務を開き」の部分を正確に訳出していないことになります。当時の文部省がなぜこの部分にこのような英訳をしたのかはよくわかりませんが(故意にこの訳をしたのか、「世務を開き」の意味をよく理解できずに誤訳したのか、何かほかの意図があるのかよくわかりませんが)、私が英訳するなら、
  produce jobs and businesses useful for society
    (社会にとって役立つ仕事、事業を生み出せ)
としたいと思います。produceはcreate(つくり出す)を使ってもよいと思います。
 この英訳において、原文の「我が」と「朕(が)」はすべてOurで訳していて、英語では所有格を付ける必要のあるところ、または付けたほうがよいところには、日本語に「朕」や「我」がないところであってもOurを付けています。これは英国の国王、女王が自分のことを述べるときに、Iやmyではなくweやourを使うのと同様の使い方です。原文に見られる「朕」と「我」の使い分けは考慮されていないようです。最初の文字が大文字の“O”になっており、これは聖書などで主やキリストに対する人称代名詞は大文字で始めるのと同趣旨の使い方でしょう。天皇は戦前は現人神でした。

 

※ 「世務ヲ開キ」の部分は1940年(昭和15年)の文部省図書局の『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』では「世のためになる仕事をおこし」と正しく解釈しているので、この英文の作成者は解釈を間違ったのであろう。この部分はとくにあやふやにしたり誤魔化したりする必要のない部分である。戦後から現在に至るまで「世務を開き」の部分を正しく解釈していない人が多数いるので、1907年の時点でも解釈を誤ったものと思われる。

「世務ヲ開キ」の部分を英訳を担当した当時の文部官僚が正しく解釈できなかった、という私の上記の考えは間違っているかもしれません。なぜなら、この部分は素直に文字通りに解釈すればいいのであって、当時の文部官僚が解釈に苦しむような難解な部分ではないように思われます。もし、わからなければ周囲にいる漢文(や漢文訓読体)に堪能な人に聞けばすむことです。したがって、この部分は、ひょっとしたら、英訳の助言をする英米人がいて、その助言者が(「世務ヲ開キ」の部分の真意をよく理解できず) 前の語句「furthermore advance public good」との関係性、整合性の点から「promote common interests」を主張したのかもしれません。英米人の助言者を用いる場合、日本語をかなり話せても読み書きまでできる人はごく少数であり、日本語が理解できずに、日本語との整合性をまったく考慮せず自分の意見を主張する場合があります。その主張を容れた場合に日本語の原文と英文が許容の範囲を超えて意味的ずれてしまうことがあり、誤訳になる場合も起こり得ます。

 現在の文科省や他の省も英米人を用いて英文を作成している場合があると思われますが、その英米人の採用には注意する必要があります。英米人で英語が得意で(英語を英米の高校以上で教えることができるくらいの能力のある人で)、日本語がかなり話せて、日本語の読み書きがある程度できる人がよいでしょう。日本政府の公式説明として英文で示す場合には特に注意する必要があります。          (2017年8月14日追記) (2018年1月24日追加修正)