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四人組いじめ教師の問題点

2019-10-06 17:37:25 | 時事問題

四人組いじめ教師の問題点

                                永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

  私は昨年7月に下記のようなブログを書いた。『いじめ問題の「問題点」』という題で、2016年の神戸の女子中学生のイジメ自殺事件に関連して、その5年前に起こって大問題となった大津市の中学生のイジメ自殺事件に関して私がHPで書いたものを再掲するかたちで、さらに意見を追加してイジメ問題の問題点に迫った。イジメ問題に関しては、評論家やマスコミがまったく言及しない闇、つかれると“痛い点”というより“痛苦”を引き起こすところがあると思われるし、読者にも同様なものを与えるかもしれない。しかし、ここを問題にしないとイジメ問題は解決しないと私は考えている。

  その問題とは、“傍観者”の問題である。

  学校におけるイジメについては、イジメを見ていて何もしない傍観者の生徒も、イジメを行なっている生徒の次に“悪い”という認識に立って、その傍観者をどのように救うか(心ある生徒は深く傷ついている)を考えないイジメ対策は、日本の諸活動、政治や企業活動にも致命的な影響を及ぼすのではないかと私は怖れている。傍観者の生徒は生徒の大多数を占めており、イジメを見て放置していたことを表面的には忘れ無意識の底に沈んでいるが、政治家になり、官僚になり、教師になり、ジャーナリストになり、経済人(商売人)などになっているのだ。彼らが政府や官僚組織や教育界やマスコミや経済界の中心になって活動するとき、日本国民のために、生徒のために、日本国民の利益のために怖れることなく正しく活動ができるのか、ということである。

  

  

いじめ問題の「問題点」

永井津記夫 

  神戸の中学三年の女子生徒が2016年10月に自殺したが、イジメに関するメモが市教委によって隠蔽されたとして現在、大きな問題となっている。もう7年も前のことになるが、2011年に大津市の中学二年生が自殺する事件が起こり、イジメ自殺として当時大問題となった。以下の文章は大津市の事件の翌年に私がホームページに載せたものである。今もイジメ自殺は発生しており、学校側や教育委員会の姿勢が問題になることが少なくない。

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  大津市の中学生のいじめ自殺問題(2011年10月自殺)がマスコミに大きく取り上げられて、教育委員会や警察がいじめ問題を被害者側の立場から取り組んで行こうとする姿勢が見受けられるようになった。マスコミと世間に“お尻をたたかれて”のことであるが、これは問題解決の方向に前進する一つの形であると言えるだろう。

 いじめ問題において悪い“やつ”はだれだろうか。

 一番悪いのはいじめている生徒(たち)であることは言うまでもないが、マスコミは相手が少年ということもあり、少年法に守られている彼らに非難の矛先を向けることはほとんどないように思われる。

 次に悪いのが見て見ぬふりをしたり(またはイジメを悪ふざけと見なしたり)して、適切に対応しない教師集団(学校側)であり、次に悪いのがいじめ問題をできるだけ矮小化しようとする教育委員会というようなことになっているようである。マスコミの矛先はこの両者に向くことが多い。確かに、学校側に大きな問題がある場合も多いように思われる。

 しかし、マスコミもいじめ問題に詳しい評論家たちも全く見落としている(または、故意に見落としている)としか私には思えない視点が存在する。

 それは、生徒がいじめられているのを目撃しても傍観し何もしない生徒集団である。言い過ぎを覚悟で言えば、二番目に悪いのがこの集団である。大津の事件の場合でも、自殺の後でのアンケートではいじめに言及した生徒は多数いたと思われるが、いじめが始まった段階でそれを目撃した生徒がそれを学校側に果たして報告していたのだろうか。いじめを最初に目にするのはほとんどの場合、生徒たちであるが、その現場を止められる生徒は皆無と言ってよい。現場で止められないことを私は非難するつもりはないが、そのような状況が継続しているとするなら、それを止めるための行動を起こすことは求めたい。つまり、学校側等への通報である(注1)

  かつて、電車内での暴力に見て見ぬふりをする乗客がほとんどであることが問題になったことがある。2006年にJR北陸線の満員電車の中で一人の男に女性が痴漢行為をされ、そのまま車内トイレに連れ込まれて乱暴されたが、乗客はみな見て見ぬふりをしてそれを止める者も通報するものも一人もいないということが起こった。一般的に言って、凶暴なこの男の行為に見て見ぬふりをする人がおそらく99.9%であろう。

 生徒間のいじめにおいても常に同様のことが発生している可能性が高い。が、適切な “いじめ通報システム” があれば、直接的にいじめをとめられなくても「通報」をする勇気のある生徒はある程度はいるはずである。もちろん、通報する生徒の安全と「通報を受ける組織の信頼性」の確保をどうするかという問題は残る。一種の「不作為の作意」でいじめ側に間接的に協力している生徒集団の行動を変えることが必要だ。

  ここで注意しなければならないことは、嫌な失礼な言い方になるけれども、教師集団や教育委員会に所属する人たちも(マスコミに所属する人たち、教育評論家たちも含めて)まずこの99.9%の「見て見ぬふりをする集団」の中に入っていることを承知したうえで各種の対策を構築していく必要がある(注2)

 世界のいくつかの国でいじめ防止対策授業がおこなわれていると聞くが、「見て見ぬふりをする」側にいる生徒たちをどのように巻き込んでいくのかも大切なポイントになると思う。良心を持ちながら「いじめを見て見ぬふりをする」生徒は大きく傷ついているだろう。日本でもすべての生徒を巻き込むいじめ防止授業を開発することはできると思う。

  もう一つ、いじめ自殺の報道に関して、マスコミ側の対応にクレームをつけておきたい。いじめ自殺をテレビで取り上げて、自殺した生徒の「“しめやかな”葬式」を報道することを止めることが必要であろう。「いじめられて自殺を考えている生徒」がそのような映像を見ると、「自殺したら、あのように同情されて泣いてくれるのか」と思い、より自殺を助長することになりかねないからだ。自殺や心中に関しては、日本人は寛容な面が強いが、キリスト教や仏教などの世界の主要な宗教で自殺を容認するものはない。自殺とは「自分を殺す」ことであり、“人殺し” であることに変わりはないのだ。“人殺し”の葬式を報じる必要はない。また、「自殺」は両親に対する最大の“親不孝”でもある。

 そして、私が心配していることは「見て見ぬふりをしていた生徒」が政治家や教師やジャーナリストになっていった時に何が起こるのか、ということである。いじめる側は“強者”であり、いじめられる側は(弱者)であるが、見て見ぬふりをする傍観者も“弱者”になってしまうのだ。横暴な強国に対して何もできない政治家暴力に対して何もできない教師集団、横暴な大国や政治集団、強者の組織に対して真実を報道しないジャーナリストが生まれるのではないかと恐れる。(2012年8月記) 

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  以上が2012年の8月に書いたことであるが、私が心配していることはほとんど改善されていないのではないのかと思う。

 “横暴な強国に対して何もできない政治家、暴力に対して何もできない教師集団、横暴な大国や政治集団、強者の組織に対して真実を報道しないジャーナリストが生まれるのではないかと恐れる”と最後に書いたのであるが、これはどれも改善されていない。すくなくとも私にはそのように見える。

  日本のまわりは、ヤクザ国野蛮国がむらがっている。報道の自由など全くない人権を抑圧する国家、中国北朝鮮がいて常に日本を陥れようとしているし利用しようとしている。この二国と同類と考えてもよいのが韓国である。この三国には在日も多数いて(在日中国人、在日コリアン)日本の政治家やマスコミに陰に陽に圧力をかけ、非合法なことも行なっている可能性が高い。が、これに対応する政治家やマスコミが“イジメに対して見て見ぬふりをしていた生徒の側(弱者)”に属していたとしたら(その可能性は極めて高い)、簡単にヤクザ国の要求に応じるということになる。また、マスコミも脅しに屈して批判的なことは一切報道せず、相手が流してほしい情報(映像)(要望に応じてか忖度してか)垂れ流すということになる(一、二度おどせば、後のことも弱者は忖度しがちになると思われる)

  今年(2018年)518日に東京都渋谷区のNHK放送センターを出てきた男性が刃物で切りつけられるという事件が発生した。犯人は韓国籍の李宰弦という男で翌日警察に出頭して逮捕されたのだが、警察発表は530日と10日以上も経ってからことだった。ここでこの犯人の実名を新聞に載せたのは産経新聞であるが当事者のNHKは実名も出していない。犯人は『NHKの報道内容に腹が立った』『日本のメディアに腹が立った』というような趣旨のことを言っているようである。私も日本のメディアに対してこの男と同じ気持ちになることはある。中国、北朝鮮、韓国の悪辣非道な言動は、外国人に対する恐怖心のためか、あるいは、イヤガラセやおどしをしてくる在日に対する恐怖心のためか、ぜひとも報道すべきことすら報道していない、と“腹が立つ”ことがある。

  私が常々心配していることであるが、報道関係者にはイジメられっ子とその傍観者の集団の出身者が大多数を占めているのではないかということである。強者から少しおどされると沈黙し、大丈夫と見ると弱者と見なして居丈高に攻撃する、元イジメられっ子、または、元傍観者の面目躍如だと言ったら言い過ぎになるだろうか。報道人は“ペン”という高度な、ある意味最強の武器をもっているのだから、しっかりとした報道規準を設けて、“強者”の非をとがめる必要がある。もちろん、日本の政府も強者(日本国内では最強者)であるから、非があればとがめるのは当然であるが、悪辣な人権無視国家の中国や北朝鮮の非道はとがめることができず、嘘を平気でつく国家の韓国にも何も言えない状態を放置している。日本のメディアは本当に内弁慶・腰抜けマスコミである、と私から言われても仕方がないのではないか。

  野蛮国は米国である。私に言わせれば“銃器野放しの訴訟過多の”野蛮国である。政治家、官僚、マスコミ関係者、評論家などにはこの米国に留学等の経験のあるものも少なからずいて、胸には日の丸をつけているが、背中には星条旗をつけている者がかなりいるようだ。彼らは、みずから米国に取り入ったのか、米国に(金などの利益関係で)籠絡されたのか、米国に利益を与え、日本国民に大きな損害を与え、国民が豊かになるのを阻止する形で米国のために働いて何らかの利益を得ているのだと思われる。米国の既得権層はこの星条旗組を長年に渡って巧みに操ってきているようだが、トランプ大統領の公約は“既得権層(=支配層)から国民に権力を取り戻す(transferring power from Washington D.C. and giving it back to the People   ※Washington D.C. = the establishment=既得権層)ことであるから、星条旗組を操る既得権層との考え方とは大きな相違があると考えてよい。汚染されていない日本の政治家と官僚はこの点(トランプ大統領が戦後の歴代大統領とは異なる状況、立場にあること)を利用する必要がある。

  日本のメディアや評論家のほとんどは、トランプ大統領について彼からフェイクニュースと非難されているCNNテレビニューヨークタイムズなどの論調に合わせて批判しているが、ここ何代かの大統領とは異なり、彼は米国の人々(一般大衆)の生活の質を本当に向上させようと(他国にとって迷惑千万な政策も実施しながら)彼なりに努力しているという点で私は評価している。今後、真の改革を目指し大衆の生活の質の向上を実現するためには、米国内の富の偏在(1%の人が米国の富の50%を、10%が富の90%を握る状態)を大きく是正する必要がある(是正できなければ、人種問題ともからんで、私が「中国はいつ国家崩壊するが」「中国の国家崩壊2」「中国の国家崩壊3」で述べているように、2031年頃までに中国だけではなく米国も国家崩壊に直面する可能性がある)。また、人権問題に関しても、もう少しスマートなやり方があるのではないかとも思っている。

 北朝鮮問題に関しては、彼の本気の脅しが奏効し金正恩委員長も尻尾を巻いたようである。612日にシンガポールで米朝会談が行われたが、その前の524日に会談を前にして北朝鮮の敵対的声明にトランプ大統領は頭に来たのか、会談を中止するとし、その内容を書面で発表した。その文章の最後の方に次のような恐ろしい文がある。

You talk about your nuclear capabilities, but ours are so massive and powerful that I pray to God they will never have to be used. (あなたは自国の核能力について語るが、我々の核能力は非常に大量で強力であり、使う必要がまったくないことを神に祈る)

  これはトランプのとんでもない“脅し”に他ならない。ヤクザの親分顔負けの脅迫である。「核能力(=核兵器)使う必要がないことを神に祈る」ということは「使う必要があれば、大量で強力な核兵器を使うぞ」という意味である。これを日本のマスコミも米国マスコミも歩調を合わせたように正確には理解できなかったように見える(“理解できないようなふりをしていた”と言う方が正確か)。日本の北朝鮮関係の評論家の多くも(故意か、無知からか)的はずれなコメントをしていたようである。トランプの脅しが金正恩に効き続けるかどうかは、今後の脅し方次第である(“外交”とは相手にもよるがいかに“おどす”かである。トランプは[金正恩も]そのことをよく知っている。戦後の日本の“良家のお嬢様風”外交とは異なる)。

  私は自分のブログ「北朝鮮問題に米国はどう反応するか」「北朝鮮問題」「北朝鮮問題3」において“核で吠える”北朝鮮にどう対処するかについて、「米国が本気で核を使って北朝鮮を滅ぼそうとしている」ということを日本のマスコミは北朝鮮に伝える必要があることを強調した。そうすることが日本人全体の利益につながるし、北朝鮮人全体の利益にもつながるのである。トランプ大統領は(“野蛮国”の頭領としてさすがに)ヤクザ国に対する脅し方はよく心得ているようであり、私がブログで述べているようにほぼ行動してくれているようである(まさか、私のブログを読んでくれているとは思わないが)。  (2018年7月18日記)

 

 (注1)通報システムが構築され、イジメを受けている生徒のために通報する生徒は“勇者”である。イジメられている生徒を救うだけではなく、イジメている生徒(加害生徒)も救うことになる。

 (注2) 私はイジメ問題でコメントする識者、評論家の中で「見て見ぬふりをする生徒たち」を問題にした人を見たことがない。深層意識においてイジメに際して自分が傍観者であったことを隠すために「二番目に悪い見て見ぬふりをする生徒集団」に言及しないのではないのか、と思うことがある。 


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※※上で「見て見ぬふりをする人が99.9%」と私は書いてしまったが、これは言い過ぎのように思う。2006年のJR北陸線の暴行事件を後で知ってなんと「情けない腰抜け乗客(男)たちだ」と思って感情移入し冷静さを欠いていたための言い過ぎである。“99.9%”は“大多数”に訂正したい。    (2019年10月7日記)

◆◆ この事件の背景が新聞報道等で明らかになってくるにつれ、この小学校の教師集団が校長、教頭の管理職を含めて自浄能力のない集団、私が上で述べている“傍観者”の集団であることは否定のしようがない。しかも、子どもではなく大人であり、イジメには厳正に対処する必要のある教師だ。このような教師集団では生徒間のイジメをくい止めることはできないであろう。

  教師になるものは元生徒であり、元傍観者集団に所属していても(大多数が傍観者集団に所属していたはず)仕方がないが、教師になるときにはその傍観者意識をしっかりと克服しておく必要がある。国や都道府県単位で“傍観者意識克服プログラム”を実施するべきであろう。 それよりも前に教室から(学校内外)から生徒のイジメを根絶することが“イジメ傍観者”をつくらず、イジメ傍観“大人”(教師、政治家、官僚、ジャーナリスト)をつくらない基本である。 (10月9日追記)

◇◇ 関西電力の幹部連中が多額の金品を、解放同盟員であった故・森山栄治 高浜町元助役から受け取っていた。「解放同盟」は“差別解消”を目指す運動団体であり、まともな目標を有する運動団体(差別解消を目指す団体は解放同盟のほか複数存在する)である。が、その傘下の地域の団体には“はね上がり者”、“はみ出し者”もいて、“問題行動”を起こしたことも希ではなくあった。この森山栄治元助役も福井県連の支部長を2年間やり、その事実を背景に関電に“おどし”をかけたとされている。しかし、解放同盟自身が組織として関電に脅しをかけることは、組織の自殺行為であり、まずあり得ない。森山栄治が“は恐い”という一般に流布されている意識を利用し(これは差別行為)、関電幹部は、“傍観者集団の元生徒に属し、「は恐い」という差別意識を持つ”連中である。私に言わせれば、関電と森山両者の“差別行為”の結果が今回の原発をめぐる金品授受騒動である。  そして、このような問題に拍車をかけるのが、朝日新聞やNHKなどの“問題”関係の事件を報じない“腰抜け・内弁慶”マスコミである(参照:拙ブログ「差別とは何か」)。 私がこのブログで問題にしている“”イジメの傍観者“”をどのように変えるか、これは学校教育の中で行なわれるべき課題であり、今後の日本の将来に大きな影響をもたらす事柄である。政府文科省は積極的に動く必要がある。が、残念なことに文科省は能力が欠如しているのか意欲に欠けるのか積極的に動こうとはしない。 “傍観者問題を取り上げない” 評論家、コメンテーター、教員、ジャーナリスト(マスコミ)は物事の本質を押さえられない(いな、押さえようとしない)臆病者である。(10月12日追記)

※※自分の文章を読み直してみた。政治家、官僚をはじめ、評論家やジャーナリストなどの中には、世界の平和を願い、日本国民の利益(安全・名誉・幸福)に与くみする立派な人もいる、ということを付け加えておきたい。 (10月23日追記)

 

大学世界ランキング *国語教育の重要性

2019-10-02 15:15:42 | 時事問題

ツイッター上での私の見解2

  永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  現在、ツイッター(https://twitter.com/eternalitywell)で様々な意見を発表しています。とくに、日本周辺の国々に対する日本のマスコミなどの報道に関して意見を述べることが多くなっています。時折、トランプ大統領や他の報道機関の英語による見解に対しても私の見解を表明(主として英語で)することがあります。

  2019年9月24日、読売新聞の社説欄に世界大学ランキングについて論評していたので私も昨年に世界大学ランキングについてのツイートを下に出したあと、さらに意見を述べたいと思います。(下記の私のツイートは2017年2月の逸見龍生氏のツイートを引用するかたちで書いています。)

 

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 ※昨年(2018年)11月8日のツイート

引用ツイート

 

Hemmi Tatsuo

@camomille0206

 · 2017年2月9日

 「大学世界ランキングを上げるために外国人教員を100人雇おう」という京大の「再配置定員」計画、学長変わってもまだ続いているのか。文科省に出してしまったのだから、変更できないのだろうが、おかげで現場の教員はなおも混乱にあるらしい。結局100人もまったく集められずにいるとのこと。

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eternalwell*永井津記夫 NAGAI Tsugio

@eternalitywell

午後6:20 ·2018年11月5日

世界第何位か?に弱いし、惑わされるのが日本人である。大学世界ランキングの判断基準に日本語の読み書き能力(日本には世界各国の文学書、学術書が無数にある)を入れたらハーバード、オックスフォードなど100位以下に落ち、日本の三流大学さえランクインするだろう。英米人の基準などいい加減だ。

万葉の時代は漢語、現代は英語強いコンプレックスを日本人の多数が持っており日本人自身がそれを増大させている。英語は話せるに越したことはないが、その読み書きも大切だ。もっと大切なのは日本語の読み書きである。優秀な日本の頭脳は日本語の鍛錬が必須である。日本語を読む力と書く力だ。

英語コンプレックスに毒された国会議員や官僚や大学教員は多くの教科で英語によって大学の授業を行なうことが良いと考えているようである。間違っている。優秀な頭脳は母国語の完全な習得と、外国語の格闘から生まれる。小学校から英語を導入し、国語の時間を奪う形の教育は生徒の能力を損なう。

 

 

  上の文章は、ツイートの制約があるため字数を意識しながら書いており、意を尽くしていないところがあります。

  小学生低学年から英語を教えるのはあまりよくないことだと私は考えています。なぜなら、小学生低学年の生徒にとって日本語は“外国語”も同然だからです(※ )。しっかりと母語である日本語の読み方、書き方、話し方を学び習得する必要があり、そこに英語などの外国語の学習が入ることは母国語学習の時間を奪うだけではなく日本語の習得も阻害することになりかねません。

 “話し方”については国語教育の中でいちばん軽視されていると私は思います。米国では小学校の低学年からスピーチ(speech)に準じるような授業があり、Essay Writing(小論文)の書き方の指導も確立しており、小学校高学年になると創作文(Creative Writing)の指導にも力を入れています(拙ブログ「小学生のための国語作文指導法」参照)。米国には明確な作文の指導指針があり、良いテキストもあり教師は自信を持って生徒の指導にあたっているようです。が、日本には、とくに創作文に関しては、良いテキストもなく、ごく少数の自覚した人たちが指導をしているのが実情です。

  このような不十分な国語(日本語)教育環境の中で、(おそらく英語コンプレックスで正常な判断力を欠き、経済界からの不当な圧力もあり)政府文科省は小学生低学年から英語教育を開始しだしたのでしょう。そして、(恐ろしいことに、というより勘違いしているのでしょうが)中学や高校などの英語教育の中でWritingの力(英語だけではなく日本語のWritingの力)をつけようと目論んでいる節があるように私には見えます(国語教育と英語教育の連携は可能で良いことですが、まず最初に国語教育の徹底と国語作文教育の米国並みの充実が必要です)。日本語で論理的に組み立てて文章を正確に書くことをできない者が、英語の文章を書けるはずもなく、英語を正確に読むこともできません。

  日本語を正確に読め、書き、話せる者が、英語を正確に読め、書き、話せる者となります。もし、日本人で英語の方が日本語より優れていれば、それは日本語ではなく英語を母語とする者ということになるでしょう。

  日本の小学校の国語(日本語)教育は、米国に比して、書き方(Writing)と話し方(Speech)の教育カリキュラムが極めて貧弱だと思います。つまり、その指導に時間を十分に取っていません。ここに英語を導入していったいどういう“英語使い”の養成を目指そうとしているのでしょうか。

  少し英語が話せる、聞き取れる者を大量に増やすことは無意味ではありませんが、それで世界と議論し説得力のある英語の文章が書けるわけではないし、英語で議論のできる者が生まれるとは思われません。日本語を用いる場合で考えても分かるように、説得力のある文章を書いて世間に発表でき、口頭で各種の議題に対して他の者と議論できる者は多数いるわけではありません。

  1990年代の初頭から始まった、英語を話すことと聞き取ることに重点をおいた英語教育(逆に言えば、正確に読みとることに時間を割けない英語教育)の結果として生まれてきたのが、現在の日本人の英語運用能力(英語を正確に読む、書く能力の低下、聞き取る、話す能力は向上)ではないでしょうか(注1)

  「大学世界ランキング」という本題から少しそれて“英語の運用能力”と日本の国語教育の不十分さに言を費やしました。日本人は「日本は世界第何位?」を非常に意識する(気にする)国民だと思います。が、そのランキングの基準は欧米人が作っており、大学世界ランキングは英国のメディア関係の基準による“評価”であり、私が上記のツイートの中で述べているように、日本語の運用能力を評価基準に入れれば、英米の大学など100位以内に入ることは不可能です。

  特に英国の評価基準で怪しいし、日本人の学生の能力を下げる可能性のあると私が懸念する基準は「外国語で行われている講座の比率」です(注2)。これによれば、アフリカのナイジェリアは、初等教育は現地語で行なうが、高校、大学などは旧宗主国の英国の言語、つまり、英語を用いて全ての授業が行なわれていますから、ナイジェリアの大学ランキングは高いはずということになりますが、どうなっているのでしょうか(注3)

  英米以外の国で英語を公用語にしている国はかつて植民地であったという理由だけではなく現地語(母国語)で全ての教育を受けることができないことが、国家の発展を阻む一つの理由になっているのではないかと私は考えています。心に響かない言葉で教育を受けても身に付かず詩人や哲学者も育たないでしょうし、発明や発見をする力も与えにくいと思われます。

  日本で英語を公用語にすべきだと言った“愚かな”政治家がいましたが、詩人や哲学者を生み出す膨大な語彙を有する日本語があり、主要な国の文学作品の翻訳もある日本に、小さな子供に英語の授業を押しつけ、国語の授業を充実させることもせず、日本語も正確に読めない、書けない生徒を大量に生み出し(かなり大量に生み出されていると思われます)、英語は少し聞き取れて話せるが、正確には読めて書けて話すことができない生徒を大量生産するような教育をして日本をいったいどこに連れて行こうとしているのかと思います。

  大学でも外国語学部なら英語や他の外国語で授業をするのは理解できますが、理系の科目を英語でするのは私には馬鹿げているように見えます。日本はアフリカなどの元植民地ではなく、11世紀初頭に世界で初めての長編小説『源氏物語』を生み出した国です。8世紀には『万葉集』も編纂されています。世界有数の豊富な表現力と豊かな語彙を持つ言語、“日本語”を子供たちに習得させ、その基礎の上に外国語を教えることが肝要です。日本語が子供の頭を鍛える(頭の良い子を育てる)重要な要素であることを政治家や官僚は分かっていないし、学者も分かっている人は少数だと思います。

  2008年リーマンショックで世界的な金融危機がおとずれました。その時、サブプライムローン関連金融商品に高い格付けをして多数の欧米の銀行などを倒産させた格付け会社“ムーディーズ”などは私に言わせれば“詐欺会社”です。このような不誠実な(そうでなければバカな) 会社は廃業させるべきなのになぜか生き延びています。私が言いたいことは、大学の“格付け”も経済商品の“格付け”も英米人のやることには裏があり不誠実な場合が少なからずあるということです。そして、それに惑わされ大騒ぎするのが日本の(不勉強の)マスコミであり、日本政府だということです。

  日本のマスコミや政党は日本人のやることには目くじらを立て重箱の底をつつくような批判をするのに、外国の格付け(国連も含めて)には無批判に盲従することが多いのです。また、外国で「△◆賞」などを取ると、それまで全く評価しなかったのに、手のひらを返すように称賛するのが日本のマスコミであり、大多数の日本人の通常の姿です。本当に情けないし、恥ずかしいことです。評価すべき日本人は日本人自身が評価すべきです。

 

(※) 日本語は小さな(平仮名、片仮名は読める)子どもにとって“外国語”そのものです。そして、この“外国語”の読み方の習得(勉強)を妨げているのが“漢字”です。これが欧米だと難しい単語でも(日本語の平仮名に相当する)アルファベットで書かれていますので一応読むことはできます。英米ではませた(優秀な)子だと小学2年、3年でも大人が読む小説や雑誌などを読む者がいるそうです。そして、努力すれば意味もある程度きちんと把握できます。英語の辞書はアルファベット順に並んでいて小さな子どもでも慣れればすぐに引けます。それに子ども向けに字義をやさしく解説した辞書もあります。ところが、日本語の場合、漢字と熟語があり、小さな子どもが漢和辞典で漢字の読みと字義を調べるのは簡単ではありません。ませた(優秀な)子が大人の小説や雑誌を読もうとしても欧米の子どもに較べてハードルが高いのです。

  が、このハードルを下げる方法が一つあります。それは、戦前のように全ての漢字にフリガナ(ルビ)をつけるのです。これで優秀な日本の小さな子どもは意欲さえあればフリガナを利用して(子ども用の)国語辞典を引いて字義を知れば大人が読むような小説や科学雑誌なども読めるようになります。そして、このフリガナは日本語を学ぶ外国人にも非常に役に立ちます。彼らも最初のうちは日本人の小さな子どもと同じだからです。だれも言及していないと思いますが、戦前の漢字にフリガナを付けた読み物(小説、科学雑誌など)が小さな(ませた)子どもを刺激し後年の小説家や哲学者や科学者を生み出したことも少なからずあったのではないか、と思います。つまり、漢字にフリガナをつけた読み物は下手な“早期天才教育”より優れた刺激を子どもに与えることができるように思えるのです。

 

(注1) 新聞はトランプ大統領の就任演説の原文とその和訳を載せていたが、どの新聞も“highway”を「高速道路」と訳していた。NHKも就任演説のあとに速報訳として就任演説の和訳をネット上に流したが、これも「高速道路」と訳していた。これは“誤訳”、つまり、間違いである。

  “highway”は「幹線道路」「公道」という意味で、意訳すれば「国道」である。東名高速も「国道」に含まれるが、“国道”はすべて「高速道路」ではない。私の住む大阪には国道25号線も26号線も走っているが高速道路ではない。国道の全てが高速道路になってはいない。これは米国でも同じで、高速道路になっていない“highway(幹線道路)”はいくらでもある。

  私が高校生の時に“東名高速道路”が完成した。教科書などで“highway”という単語が出てきたとき、「これは“高速道路”という意味とはちがいますよ」と英語の先生が言ったのをよく覚えている。“highwayman”という“路上強盗”が17世紀の英国に現れた。17世紀の英国に高速道路はなく、highwayは“幹線道路”で、そこに馬にのって現れる強盗をhighwaymanと言ったのである。

  私の世代で英語ができた生徒でhighwayを高速道路と訳すものはいなかったと思われるが、2017年のトランプ大統領の就任演説のhighwayを高速道路と訳す世代が生み出されたのだ。これは単なる思い違いとして済ませたいのであるが、朝日、毎日、日経、サンケイの各紙が「高速道路」と訳していたので、中学、高校時代に教師からhighwayの意味を教わらず、その意味を正確に押さえる勉強をしなかった“元生徒”が翻訳に当たったのであろう。

  英語の意味を正確にとらえられない者が新聞に載せる英語の翻訳をしたり、外交文章の翻訳をしては国の存亡にかかわる時がある(NHKのネットに流れた速報訳にはhighway以外にも文法を知らないための誤訳、日本語の文法に反する文章の書き方による誤訳もあり、それで私は堪らず「英語教育は破綻するか」というブログを書いた)

  太平洋戦争の末期、連合国側がポツダム宣言を受諾するように迫ったとき、鈴木貫太郎首相は「黙殺する」と言ったのを当時の日本国内の通信社は“ignore it entirely(それを完全に無視する)”として伝えたとされている。この“ignore(無視する)”が“reject(拒否する)”と同意と見なされて広島、長崎の原爆投下につながったという人がいるが、それが真実かどうかの問題があるが、英語の単語をもっとも適切な日本語に置き換えられない、日本語をきちんと英語に翻訳できない生徒を大量生産してはいけないことは確かである。

  現在の日本の国語教育と英語教育は、日本語も英語も中途半端な生徒を大量に生み出しかねない危険性がある。

  ※参照:「英語教育は破綻するか」

   https://blog.goo.ne.jp/151144itnagai/e/9b9e2ea671f7b2aa7074f1599755dec0#comment-list

 

(注2) 英語で行なう講座の比率などは英米などの英語を母語とする国の大学の基準であって英語を母語としない国がこの基準によって大学世界ランキングが決まるのはおかしな(absurd)事であるが、これをおかしな事、不条理なことと思わないのが英語コンプレックスに毒された政府文科省(国会議員たち、官僚たち)である。この基準を日本の大学に適用すれば、外国人留学生は日本の大学で学びやすくなるが、日本人の大学生には逆に負担になり、とくに理系の学生には世界的研究をする妨害をすることにつながる。世界がどこまで進んでいるのかを読む英語力があればよく、それから先の前人未踏の領域は世界に類を見ない“優れた”日本語で考えればよい。今、私がここで述べていることは簡単、明瞭なことであるが、日本のマスコミも正常な判断ができていない。

  ついでに言うと、戦前は高峰譲吉(アドレナリンの抽出結晶化)や北里柴三郎(破傷風の治療方法の開発)などではノーベル賞を与えられず、戦後は、日本を属国化して支配できると米国が考えていたためか、湯川秀樹(中間子論)を皮切りに、朝永振一郎(量子電気力学)、尾崎玲於奈(半導体トンネル効果)、白川英樹(伝導性高分子)など発明発見にノーベル賞が与えられてきた。私には核兵器や軍事兵器に転用可能な発明・発見を優遇しているように見える。 米国の国語(=英語)教育は、書くこと(Writing)、発表すること(Speech)に重点を置き(もちろん、読むこと Readingが基本にあり)、日本より優れているが、これは口が物を言う商売、弁護士などには有効であるが、理系の優秀な生徒を生み出すことにはあまり成功していないように見える。が、世界一の軍事力の優位性を保持するために金の力(ドルの力)で世界から優秀な学者をかき集めて大学教授等のポストを与えて研究する場を提供している。 中国が特許などの“技術窃取”をする国(自国の14億の民から技術開発者を養成することはできないようだ)として非難されているが、米国は金の力で世界から技術を吸い上げている、と言ってまちがいではない。しかし、高峰譲吉のアドレナリンの件や戦後には岩手農業試験場の多収穫小麦“農林10号”を盗み、ノーベル賞をとり、また、光ファイバーにおいても西澤潤一の発明を米国コーニング社は中国系英国人学者のチャールズ・カオと組んで横取りした。米国は私に言わせれば中国と同様の狡猾な面のある“技術窃取”の国である。

  日本は技術を盗まれないようにどのように国家を運営するか、教育をどうするか、技術者、研究者の国外流失をどのように防ぎ、世界の人々の幸福のためにどのように貢献するか、よく考えなければならない。政府や文科省だけではなく、大学関係者、マスコミも含めて英語コンプレックスを脱し、真剣に世界の中で日本の行く道、世界平和構築の道(#PaxNipponica 参照:拙ブログ「サッチャーは米国の対日強硬策の黒幕か」)を追求する必要がある。

(注3) 私は数年前に退職後、講師として勤めていた高校でよくできる生徒を集めた英作文の講座を担当した。そのとき、ナイジェリア大学出のナイジェリア人の男性が大阪府のNET(Native English Teacher)として採用され私の勤務する高校に配属されていて私の英作文の講座に配分された。英作文は日本語が分からないと基本的には教えられない。日本文を英訳した英語が文法的に正しいかどうかは英語が話せるだけではなく、正確に英語が読めて書ける力がなければならない。文部省が採用したAET(Assistant English Teacher)の場合は英語のネイティブを採用し大学もある程度以上のところを卒業していてそれほど問題はなかったのであるが(1980年代中頃に来た最初のAETはオックスフォードなどの一流大学を出たものが多かった。また、不況の英国を脱出して日本で働く英国青年もいた。必修クラブ講師として私の高校に教えに来たオックスフォード出の男性になぜ日本に来たのかと訊ねると“For work.”と短く答えた)、大阪府が採用するNETにはやや問題のある教員もいた。生徒が英作して私が添削したものを彼はチェックすることができなかった。彼は中国で学生に英会話教えていたと言い、中国人の学生はもっと日本の学生よりも上手に英語を話せると言うので、「中国人の学生は英作文ができるのか」と私が質問すると彼は黙ってしまった。このナイジェリア人NETはこのあと夏休みを挟んで退職し、今度は米国人で30年ほど日本に住み日本人と結婚している白人男性がNETとして私と英作の講座を教えることになった。彼は米国の音楽関係の大学を卒業していた。私と年齢も近かった。ある時、若い英語の教員から英文法問題集の問題について質問されて答がわからず私に聞きに来た。在日米国人のイーデス・ハンソンさんも日本の高校や大学入試問題の英文法の答が分からず苦情を言っていたことがあったが、英米人といえども(日本人が作った)英文法の問題を解けない場合はいくらでもある。二文が同じ意味になるように空所に適語を入れる問題であったが、(英文法少年であった)私にもすぐには答が見いだせず空き時間の1時間を使って問題の意図を考えて答が出た。難しい単語が入っているわけではない。しかし、なぜこんな問題を作るのかというような変な問題だった。ただ、今の英語教育では英文法は軽視されている。英文の誤り訂正問題など出すべきではないという英語教師(日本人と英米人)もいるが、正確な英語を書くため文法力をつけるという点で、日本の生徒には有効な問題だと私は考えている。

  英作文の授業に英語のネイティブを入れる場合は、担当する日本人の教師に相当の力量が必要とされる。英語のネイティブも英米の高校以上の学校で英語(つまり、英米人の国語)を教える能力がなければならない。英語が話せる程度では英作文のチェックはできない。これは、あまり勉強のできない(日本語は一応話せる)日本人が英米の学校で日本語の作文をチェックできるかどうかを考えれば分かることである。少し難しい漢字熟語は知らない、新聞や小説に出てくる少し難しい言葉を知らない日本人が外国の学校で日本語を教えられるはずがない。

  ある進学高校で教えていた時に生徒が書いてきた英語の文章のチェックをAETに丸投げする教師がいた。AETが生徒の英語を見て当惑しているのを見て私は気の毒になって助け船を出した。自分の町の祭について英語で書いてきて見てほしいと言ってきたのだが、私も何を書いているのか分からず、日本語でいろいろ聞いてやっと書きたい内容を把握できたが英語が無茶苦茶であった。元の日本語もきちんと説明する日本文になっていない。これでは英文の添削はできない。

  例えば、あなたがモンゴルに行ってモンゴル人の日本語担当教師とともに日本語を教える立場になったとする。あなたはモンゴル語がほとんど理解できないとする。モンゴルの生徒が日本語の作文を持ってきたとする。モンゴル人の先生はあなたにその作文のチェックを依頼されたとする。

  ① わたしに きのう 東京と いいました。…要訂正文

   (ア)わたしに きのう 「東京」と 言いました。?

   (イ)わたしは きのう 「東京」と 言いました。?

   (ウ)わたしは きのう 東京へ 行きました。◎ (正しい文)

   (① わたし きのう 東京 いいました。)

 作文を持って来たモンゴル人の生徒とコミュニケーションができず、(日本文の作文の添削ができるほど日本語に堪能ではないが、かなり日本語ができる)モンゴル人の教師も手伝ってくれないとしたら、あなたは誤文の①の日本文を(ウ)のように訂正できるだろうか。一個所の間違いなら一文でも訂正できる可能性が高いが、二個所に間違いがあれば非常に難しく、三個所間違っていれば正しい訂正はほぼ不可能になる。これを理解していない日本人の英語教師がたくさんいる(もちろん、文科省関係で英語Writingの到達目標などを書いている者も分かっていないと思われる)。