https://www.facebook.com/profile.php?id=100064405491191
ユングスタディ報告
9月7日【第7回】
.
今回からは、ユング「チベットの死者の書の心理学」を読み進めていきます。
.
■ C.G.ユング「チベットの死者の書の心理学」(1935)
邦訳:『東洋的瞑想の心理学』所収 湯浅泰雄・黒木幹雄訳、創元社
1983.11(第一版)、2019.1(新装版)
.
「チベットの死者の書(バルド・テドル)」は、チベット仏教ニンマ派の埋蔵教典で、臨終の時から49日間のバルド(中陰)期間にわたって死者の耳元で読み上げられる書物です。死者の経る体験を三段階に分け、それぞれの段階において輪廻からの解脱やより良い生まれ変わりの方策を説いています。西洋ではエヴァンス=ヴェンツの英訳(1927)によって初めて紹介され、反響を呼びました。ヒッピーたちにも広く影響を与え、日本ではNHKスペシャル「チベット死者の書」の放映(1993)をきっかけに大きな話題となりました。
ユングは、この書のドイツ語訳出版(1935)の際、今回のテキストとなる心理学的注解を寄せ、以降の「チベット死者の書」の受容に大きな役割を果たします。ユングはこの書を、意識の諸段階におけるあり方を示すものとして心理学的に読み解いていきます。
.
今回はまず最初に、当テキストを読む上で重要となるユング心理学上の観点を改めて確認しました。どれもこれまでスタディで取り上げられた問題ですが、主要なところは以下の通りです。
.
ある人が客観的かつ「所与の事実」として把握している世界や客体は、本当のところでは、当人が意識していない無意識過程の投影によって意味づけされ構成されている主観的世界である。この投影の無意識的プロセスを意識化するとき、その当人は、客体が主体に対して持っていた無意識の強迫的な力から距離を取ることができるようになる。これが心理学的観点から見た「解脱・解放・悟り」体験である。
こうした気づきは、わたし(自我)以外の無意識的な心の諸要素を、自分自身の内部に発見することでもある。その結果として、自我中心だったわたしのあり方は、わたしの心のすべての要素の中心たる「自己 Selbst, self」へと移行する。この「自己」は伝統的には「神」などのイメージで表現されてきた超越的なものであり、自我に比べてより包括的で永遠的なるものに感じられる。こうした「自己」が顕わになる心理的過程こそが、ユングの言う自己実現であり個性化である。
人生前半期では、環境への適応が人生の課題であり、そのためには自我を確立させていくことが重要である(自我はもともと、生物の環境適応の機能に起源を持つと考えられる)。しかし、人は自分の得意な自我の機能を元に環境適応するので、得意でない未発達な部分は無意識へと追いやられてしまう。人生後半の、死に向かう準備期には、この無意識と向かい合うことで自己実現をしていくことが課題となる。死とは、いわば自我中心の構造が破綻・消滅することであって、死の受け入れに際しては、自身のアイデンティティの根拠を自我から自己へと移行させる必要があるからである。
.
これらの事項の確認をした後に、実際にテキスト本文へと入って行きました。
.
バルド・テドルにおいて、死者のたましいの経る過程は、真理から意識が離れて肉体的再生へと近づいてゆく過程を示します。仏教においては輪廻転生から解脱することが目的ですので、転生に近づいていく過程は、カルマ(業)によって再び迷いの中に入っていく過程でもあるわけです。この経典は、バルドの各段階に残されている救いの可能性に気付かせ、死者のたましいを解脱させようとするものです。
.
ユングはバルド・テドルの内容について、「すぐれて経験心理学的である」とします。これらを単なる空想物語ではなく、実際の体験の蓄積に基づく記述であると見ていることになります。
ユングは、「形而上的な主張というものは、元来その人間の魂の申し立て」であり「当然、それは心理的」なものだとします。死後の世界にしても、神々にしても、合理的な立場からは根拠のない事柄と思えようと、それらのイメージは人間の魂の表現であり、重要な心理的事実を反映しています。
西洋人にとって「魂」や「心理的なもの」とは価値のない主観的なものとみなされがちですが、実際には、先に確認したように、私たち自身の内にあるたましいこそが、すべての「所与の事実」なるものを与えています。バルド・テドルはこのことを前提に、死者の見るもの全て、現れる神々も何もかもが、当人の心の投影であると繰り返し述べ、その認識こそが解脱につながると説いていきます。
.
しかし一方でユングは、この認識には一種の意志の転回〔回心〕が必要になる、とも言います。無意識の意識化によって、自我から自己へと心の中心が移行すること、自我が(象徴的にでも)いったん死んで、自我中心の態勢が変化することが伴わないと、なかなかこうした認識は得られません。
ゆえに、世界中に存在する、いわゆる通過儀礼においては、回心を象徴的にあらわす死の比喩が広く見られます。バルド・テドルは、中陰の生におもむく死者の通過儀礼にほかならず、死とは「所与の事実」の世界から解放されて自由になることなのです。
.
**************
.
「バルド・テドル」の邦訳は、文庫で読むことができます(ちくま学芸文庫『原典訳 チベットの死者の書』川崎信定訳、1993.6)。これは1989年5月に出版された筑摩書房版の文庫化になります。この邦訳の元となるテキストはチベット仏教ニンマ派の「死者の書」で、ユングもこの英訳を読んでいたことになります。
.
一方、チベット仏教では「死者の書」と呼ばれるものが派ごとに複数あり、日本では上記邦訳の他に、チベット仏教最大の派であるゲルク派の「死者の書」も出版されています(平岡宏一編訳『ゲルク派版チベット死者の書 改訂新版』、Gakken、2023.3)。この邦訳の解説によれば、現地で実際により広く読まれているのは、ゲルク派版「死者の書」のほうになるとのことです。