ユングとスピリチュアル

ユング心理学について。

汚れなき悪戯 [DVD] 罪、犠牲、贖い、アナムネーシス(ヌミノース)

2021-04-02 23:29:53 | 心理学

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罪とは何か、死とは何かを考えさせられる作品と思います。言葉では表現できない心の内なる思いを表していると思います。私が初めに視聴したのが13歳で感動を覚えました、60代になっても今だにその感動は変わらず、生命力を保ち続ける数少ない映画の一つ。性別、年齢層問わず人間の本質に触れているのだと思います。エロスp24、ロゴスp176 ,ヌミノースp127,(ユング心理学辞典、創元社)。(聖なるもの、岩波文庫、オットー著)参照
311以来2015年日本の現状と共通するもの(罪、カルマ)の問題について考えさせられます。
聖書
1:マルコによる福音書/ 14章 50節
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

2:マルコによる福音書/ 15章 34節
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とい意味である。

「サムエル記下第1章26節」
我汝のために悲しむ、我が兄弟よ........

犠牲(いけにえ)
聖書【新共同訳】マタイ 10:39
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

犠牲という語は二つの意味に用いられる。一つは捨て去ること、もう一つは断念することである。心理学的に考えると、いずれも犠牲に適切な意味であるが、神聖化する、聖別化するというこの言葉の元来の意味がそこに十分汲み取られていない。断念という行為は、その人の現在の意識より高次にあり、なんらかの秩序を導きうる原理を承認することに等しい。

われわれは人生のいずれかの時点で犠牲を要する場面に召喚される、とユングは認識した。すなわち、神経症的であろうとなかろうと、それまで暖めてきた心理的態度を断念する場面である。そのとき、その場その場の適応にたいする要求のたかさを、断念への要請が必ず上回る。より大きな意味や意義をもつと思われることのために、自我の立場を意識的に諦める。

この事態をめぐる選択は困難であり、また、ある一つの視点から別の視点に移行することも難しい。この事態は、無意識内容が現れ、対立するものが葛藤を生じるときいつも、暗黙のうちに現れるパターンである、とユングは考えた(イニシエーション、変容)。

犠牲は、われわれが意識をもつことにたいして払う代償である。  犠牲に捧げる供え物はその人の人格や自尊心の一部を象徴する。しかし、人が犠牲を供するそのときに、犠牲の意味に十分気づいていることはあり得ない。神話や宗教の伝統的観点に立つと、供えものはすべて、あたかも壊されるためのものとして供えねばならない。

したがって、犠牲についての考察を進めると、神イメージとの関わりにおいても犠牲が意味を持つことに、直接的、間接的に必ずたどり着く。 ユングは、太古の迷信の名残ではなく、我々が人間であるために支払わねばならない代価の本質として、犠牲の必要性をとりあげた。 自己が私に犠牲を求めている(自己の促し)とするのが論理的な説明であるが、それでもなお、関与するこの二つの関係は明らかにならない。  分析の中でそのような交換関係に気づくと、こころの宗教的機能に目を向けざるをえなくなる。しかし、多くの分析家は、おそらく宗教的機能の分析と宗教の分析を同じとみなす誤りのため、そこに目を向けることに尻込みをする。しかしながら、犠牲について理解をもつことで、 失われていた意味の現存が確かめられ、しかも、崩壊の勢いを逆転させることも多い。

(犠牲は、文字通りであれ象徴的であれ、癒しに必要なものである。何ごとかをあきらめなければ、何も得られない。)
ユング心理学辞典 創元社p35

意識の変容(個人)集合的には文化の変容が滞っているとき行き場を失ったエネルギーが無秩序な破壊現象として起こっている。「意識の変容(エネルギー)は人間に定められた宿命。」

この映画はカトリックのミサを理解する意味(言語化できないもの。)で助けになります。
「アナムネーシス」Anamnesisアナムネーシス (哲学)
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9_(%E5%93%B2%E5%AD%A6)

人類の罪のあがないとして死んだイエスの血と体の「新しい契約」を記念し「最後の晩餐」 を想起(アナムネーシス)したミサがカトリック信仰生活の霊的中心です。
(なお私自身はカトリックではありません。)

(本映画は意味は理解できなくても直接的な身体感覚として意志は伝わります。) (ロゴスに対してのエロス。ロゴスに偏ると関係が切れたり、身体感覚としての実態からかけ離れてしまい話を聞いていてきつくなる時があります。) そういう意味でカトリックのミサは言語化しない(関係を切らないイメージ言語)でキリスト(宗教的には、人であり神でもある。心理学的には自我であり自己でもある。)を表現する意味においてより身体感覚に近いのではと思います。
説教をロゴス原理としたら、ミサ、賛美の音楽は(言語化できないもの)ヌミノース
そしてどちらもバランスを保ちつつ極めていく(境界領域)ことができるのではと思います。
どちらかではなくどちらも必要で両方のバランスが保たれていることが大切ではと思います。

内なる思いをイメージや概念に変換していくのは難しい、そのため、ミサ(儀礼→身体感覚、イメージ言語)(キリストの体(パン)、血(ワイン)へと聖変化)、告解制度、瞑想、黙想、観想を重視しているのは意味が大きい。

パンとワインを受け入れる意味は、集団内部で自浄作用を保つためでもあります。引き受ける人が神との関係で正しければ、祝福となり、正しくない時は、災いとなり、心の在り方に対しての判定(審判)が行われています。
自浄作用(罪、穢れがをそのまま温存すると連帯責任によって集団全体に災いもたらすためです。)
聖書
【新共同訳】
コリント第一の手紙
◆主の晩餐にあずかるには
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。

集団、大きな意味で、国、また、地球規模の災い(事件、事故、病、天変地異、戦争)なども自浄作用を失っている結果かもしれません。
どのような形で自浄作用を保ったらよいでしょうか?
自らの、罪、穢れを他の人に負わせてよいのであろうか?(集スト問題の本質)

ユング「心理学と宗教」より
「あの宗教改革以来、プロテスタンティズムは各種の分派の温床となるとともに、学問と技術のすみやかな発達を促し、これに目を奪われた人間の意識は、予測しがたいもろもろの力をそなえた無意識というものの存在を忘れてしまいました。・・・
 事態のこのような推移は運命的なものですから、私としては、その責任をプロテスタンティズムやルネサンスに帰することは致しますまい。けれども、ただ一つ動かしがたいことがあります。それはつまり、プロテスタントであると否との別なく、あらゆる現代人が、ローマ時代以来慎重に築き上げられ補強されてきた教会という防禦壁を広範囲にわたって失っており、この喪失の結果として、世界の破壊と創造との根源である灼熱地帯へ一歩ちかづいているということです。」
ユングのこの見方が正しければ、破壊と創造との根源である灼熱地帯へちかづいている世界に光があるとすれば、それは教会という防御壁を再建する以外にないのです。
引用

ミサ(儀礼)による、Anamnesisアナムネーシスが重視される点は、 心理学では自我に対して自己の立場(意識と無意識の中心)自我中心の日常に対しての補償としての自己であり、自我の立場を相対化していく上で大変重要と思う。
更に自己の立場を自我の分析によって相対化していくことでインフレーションを避ける、心のバランス保つため、相互関係にある。
分裂や対立の統合と関わる。自我によって細切れ、断片化した概念を人格の全体性のつながりの中に統合していく。
また別の表現では自己は自我に対して犠牲(聖化、神聖化)を求めている。自我の立場の絶対化に対しての補償と相対化。聖霊の持つ意味、役割でもある。
カウンセラーが資格を得るための教育分析は必須で、その後も継続的な教育分析を必要とする理由でもあります。

 宗教性(浄化、罪の購い)について抵抗のある一般の人々にとって、どのように浄化していったら良いであろうか?
行き場を失ったエネルギーがカオス化していくのだろうか?
 犠牲が形を変えて(罪)浄化できないエネルギーの代価としての、無秩序な破壊、全体の破壊を避けるための犠牲の制度(神話の歴史では、疫病、天変地異、戦争なども含む。)
ミサにおけるアナムネーシスはカオス化したエネルギーを秩序正しく水路ずける意味があります。(破壊的エネルギーを創造的エネルギーに変換)

「アナムネーシス」Anamnesisアナムネーシス (哲学)について
プラトンの用語。 手元に『メノン』があるので、 藤沢令夫先生の言葉を引用させてもらおう。 「人間の魂は不死であり、 われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、 すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。 だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、 じつは、「学ぶ」とか「探求する」とか呼ばれているのは、 すでに獲得しながら忘れていた知識を想い起すこと(アナムネーシス) にほかならないのである」 (プラトン、『メノン』、藤沢令夫訳、岩波文庫、1994年、145頁)

ウィキペディアの説明では想起を宗教的な意味で(ヌーメン性)を伴ったものとして捕らえてないように思います。

ユングの説明
『心理学と宗教』C・G・ユング著、村本詔司訳(人文書院)
「心理学と宗教」の一「無意志的な心の自律性」で、まず、ユングは宗教の定義に言及します。そこで彼は、 『聖なるもの』を書いたルドルフ・オットーの説を紹介します。

「宗教はそれを表わすラテン語から明らかなように、ルドルフ・オットーがいみじくもヌーメン性 Numinosum と呼んだものを注意深く良心的にみつめることです。

このヌーメン性とは力動的な存在もしくは作用で、意志の行為では惹き起こせません。反対に、その作用が人間という主体を捉え、支配するのです。

人間は、その作用の創造主であるよりはむしろ犠牲になっています。ヌーメン性は、その原因が何であれ、主体の条件であり、主体の意志から独立しています。(情動)

いずれにせよ、宗教の教え[と一般的合意]が常に、そして到る所で明らかにしているのは、この条件が個人の外にある原因に関係づけられなければならないということです。ヌーメン性は目に見える対象の属性か、(儀礼、元型的イメージ)それとも目に見えずに現存するものから(聖霊の臨在)の影響かのどちらかですが、それが意識にある特殊な変化を引き起こすのです」
ミサによるアナムネーシスとしての想起はヌーメン性の作用を意図的によびおこすことです。


カール・グスタフ・ユング@C_G_Jung_jp
意識以前の知についての神話の教えによれば、あらゆる知は(プラトン哲学の発想と同じ)「想起」であるという見解も説明できる。ツァディックについて以下のように言われているのはその意味である。「ツァディックは誕生以来失われていたものを見出し、それを再び人間のもとへもたらす。」(ノイマン)


ユングは、教義,信仰箇条と区別された宗教のメルクマールを、ヌミノース経験があるかないかにおいていた。   (ユング心理学辞典p72,天使と格闘するヤコブ)

砂漠の女王 The Story of Ruth (関連する共通のテーマでより意味は深まるかもしれません)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/B005HGCQ0O/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1507994425&sr=1-1&keywords=%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B

どちらの宗教的な立場であれ現代は多様化しているため安易に信じるのはリスクを伴います。慎重に吟味していくことが大切と思います。しかし現代の問題を解決するためには避けて通ることのできない分野と思います。

大地の希望−26 「民族の壁を越えて」2019.03.03
http://kawasima520.blog.fc2.com/

Mass
https://www.youtube.com/watch?v=aqIl7IB3n4g
ミサの意味を映画パッションと関連付けて理解しやすくしています。
https://www.youtube.com/watch?v=n2ePwz7FZUg


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