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職場の同じ組合員が立ちあがらなかった三村鉄工所争議 1925年の労働争議 (読書メモ)
参照 「協調会史料」(三村鉄工場職工解雇ニ関スル件 東京)
(組合つぶしの解雇攻撃)
東京京橋区の三村鉄工の場労働者97名中約60名は、1924年秋に造機船工組合に加入し三村支部を組織していた。1925年1月、三村支部は退職手当の制定、勤続手当の制定、賃金値上を要求した。1月22日、三村鉄工の工場主は、組合の中心人物である9名に対し、内容証明書で「会社の都合」という名目で解雇通知を郵送してきた。
1月23日、出勤時刻と同時に解雇された労働者9名が一般労働者と一緒に工場に入った。阻止する守衛ともめたが、労働者は工場内2カ所に集合し協議した。造機船工組合幹部2名が会社に面会を要求したが、会社は面会を拒絶した。
26日、9名と応援部隊は工場主自宅に押しかけ、結局工場主は、明日27日に正式な交渉をすることを約束した。27日、工場主ら会社役員と組合役員が交渉したが不調に終わった。
この間、いずれの日も職場内の51名の組合員はもとより、他の一般労働者も何らの動きを示さなかった。
(職場ビラ)
28日、午前6時30分頃より三村鉄工場と近隣の工場に出勤する労働者に向けて「親愛なる諸君に告ぐ」のビラを配布した。
ビラ
「親愛なる諸君に告ぐ
我々9名の者が去る1月23日手紙一本をもって馘首された事は諸君の良く知らるる処である。我々労働者は僅かばかりの報酬を得て細々ながら暮らしている。勿論貯蓄などある訳はなく、この大不景気に突然馘首されていつ就業ができようか。どうして暮らせようか。・・・・・。
諸君、我々職工は震災当時、工場が全焼した為、僅か五円の手当で解雇された。しかし、当時我々は工場の被害に同情し、これを快諾した。中にはその後ようやくにして日立製作所に就職して安定していると、何回となく工場主より復帰を求めるので遂に折角の就職を振り捨てて帰った者もいる。また、焼けた機械を修繕し工場を今日の発展に努力せし者ばかりである。こうした我々に今回取った工場主の態度は常識ある人情を知った者の行動であろうか。・・・
我々労働者は組合を組織することは自由であり、今や政府の公認するところである。いかなる頑迷な資本家といえども組合幹部なる為馘首することは出来ないのである。しかし、我々は諸君と共に昨秋組合を組織して「中間搾取制度」を撤廃して以来、工場の我々に対する態度がいかなるものであったか諸君の良く知るところである。・・・・
今社会は不景気のどん底である。多くの労働者が失業と飢えに襲われている。
我らは、今回の事件が単に我々の問題でなく、将来諸君の頭の上に降りかかることを思う時、奮然として決起し戦うものである。
希くは親愛なる諸君の同意あらんことを!!
大正十四年一月二十八日 工労組三村支部印」
しかし、職場の「組合員残留組」や一般労働者は何の行動を起こすことなく、就業していった。
また、「月島町民諸君に告ぐ」のビラを工場付近の路傍で住人や通行人に配った。
29日午前7時、被解雇者9名は職工に扮し工場に入場しようとし、守衛に拒絶されるも応援部隊の援助のもと9名全員で工場に入り機械部に集合した。その後事務所に向かい会社との交渉を要求するも拒絶された。午後5時争議団本部に引き上げた。
1月31日、9名は、この日も工場に入ろうとしたが、守衛に阻止され、社前前で示威行動をした。この日も職場の組合員や労働者になんらの動きはなく、平常通り仕事についていた。
2月1日、9名と応援部隊は、庶務係自宅前で抗議・解雇撤回要求行動。
2月2日、工場事務所で労資交渉はじまる。
2月4日、職場の組合員や一般労働者はいままで通り解雇された9名と行動を共にする者はいない。
2月7日、「解雇された9名に会社は合計950円の手当を支給する」で解決した。
感想
(職場の組合員は何故立ち上らなかったのか)
この協調会史料は、警察・特高による報告を警視総監から内務大臣らに提出された「労秘第一一九号大正14年1月24日」です。警察や特高が、この三村鉄工所争議報告の中で何度も強調しているのは、職場にいる解雇されなかった51名の組合員(いわゆる工場残留組)が、解雇された9名と共にストライキはおろかサボタージュやその他の争議行為に全く参加をしていないことです。工場突入や役員宅抗議などの示威運動などに動いたのは解雇された9名と造機船工組合などの応援部隊だけのようです。
警察や特高の報告を勿論そのまま鵜呑みにはできませんが、確かに9名以外の組合員の闘う行動は起きていません。解雇された9名は何度となく守衛とぶつかり、実力で工場に入り込み、残留組合員と話はしています。勿論必死にストなどの訴えもしたのでしょうが。
これでは、あまりにも不当な、組合つぶしそのものの解雇攻撃を跳ね返すことができず、最後は金銭解決で終わって、会社側の最大の目的である職場内から労働運動を消滅させるという会社のもともとの目的が完全に実現したことになります。
労働組合を潰す為、組合を弱体化させる為の解雇攻撃に、とりわけ職場に残っている組合員が、解雇された仲間とその家族たちの為に敢然とストライキで反撃する。一度のストでダメなら、またストをする。それでもダメなら再びストライキに起つ。デモや示威行動には全員参加で闘う。裁判や都労委には組合員全員で押しかける。こういう労働組合であれば、非組合員も感動するし、地域の住民もこぞって支援するはずです。なにより会社への打撃ははかり知れません。組合を潰す目的の解雇攻撃が逆に組合を強くさせてしまったからです。
21年9ヶ月の大久保製壜闘争の中で、東部労組本部の足立さんら先輩たちは「支援や裁判やデモにだけに頼って勝とうとするのはダメだ、職場の労働者との団結とストライキで勝つのだ。職場の一人の仲間との団結が会社にどれほどの打撃を与えるか、勝利への一番の近道は一人の労働者の決起なのだ」と僕らを口酸っぱく叱咤激励します。僕たち大久保製壜支部も必死にこれに応えようと頑張りました。そして職場の仲間たちが一人また一人と立ち上がってきます。ついに御用労組の青年20数名の決起で職場の過半数となり、この仲間たちと共に何十回ものストライキや様々な闘いをして最後の勝利となります。
また、金銭で解決するそのことがいけないのではなく、闘いを通して労働組合自身の団結が強化されたか、職場の仲間の団結が前進したか、職場や地域の労働者の決起に繋がったか、最後の決着が金銭解決であってもその後の職場や地域で労働運動が拡大したかどうかが問題です。勿論解雇撤回、職場復帰は一番望ましい勝利ですが、労資の圧倒的力関係で負ける場合や僅かな金銭で解決する場合もあります。しかし、戦前にはその敗北した争議から多くの闘士や活動家が生まれ、自ら新しい炭坑や鉱山や工場に潜り込み、そこでまた労働組合を結成し、再び多くの争議が起きるケースも報告されています。また労働争議で敗北して失業した者たちで作った「野武士組」のように、あらゆる争議の現場で検挙を怖れず自ら先頭に起つ者たちも出てきます。
三村鉄工所争議で、同じ組合員でありながら、解雇された9名以外の51名は何故立ち上がらなかったのか。これ以上の資料はなく詳しい事情は分かりませんが、現代の僕らの労働運動にも共通する大切な課題ではないでしょうか。