請負労働者の決起で勝利した田中車両工場争議 1925年の労働争議 (読書メモ)
参照 協調会史料(田中車輌工場ノ争議之件 大阪 1925年6月27日)
大阪市北区にある鉄道用車両製造会社の田中車両工場は、労働者約300名の内、立憲労働党系の関西車両組合に47名(後に68名)が加盟していた。尚、組合員の多くは、組立部、立具部、刻部の請負労働者であった。
1925年6月会社は賃金八分を減額し、請負の単価の2割を削減してきた。憤慨した請負労働者らは6月18日に以下の要求書を会社に提出した。
(要求書)
一、会社都合の解雇の場合の解雇手当の支給(勤続6ヶ月未満の者には日給40日分、勤続1ヵ年未満の者には日給45日分、勤続1ヵ年以上は1ヵ月増すごとに日給2日分を加算すること)
二、職工の自己都合の退職の場合は、解雇手当の半額を支給すること
三、出張手当の支給
四、請負工事の材料運搬人の賃金は工場が負担すること
五、工場都合による臨時休業は、日給の半額を支給すること
六、8時間労働制の実施
七、衛生設備の完備
(6月21日の追加要求)
八、日給を元通りにすること
九、年に一回の昇給をすること
(サボタージュ闘争)
6月18日から木工組立部等の請負労働者全員がサボタージュ闘争に入り、全労働者に以下の「檄」ビラを配布した。
『檄 !!!
田中車両工に在勤せる労働者兄弟に告ぐ
本日午後一時木工組立部一同の名によりて要求書を提出したことは諸君はすでに知っているだろう。我々が今度要求書を提出するに至りたる理由は、田中車両工場は我々労働者に対し事業不振を名として再度賃金を低下したのみならず、工場主が利益を独占せんがために請負賃金のごとき到底しのぶあたわざる程度に低減し、我々の生活の不安は今やその極に達している。
・・我々は生存権確立のため、涙をふるって田中車両工場に対して要求するのやむを得ざる事となった。
諸君の堅き結束の力と団結の威力は、この目的を達成すること、確信する。
田中車両工場に在勤せる労働者兄弟諸君よ!
団結は我々の武器である。この際、なんら躊躇することなく本党に加入し、我らと共に策応せよ。・・・兄弟よ最後の一人となるまで戦いを継続して目的を貫徹せん事を切望する。
大正14年6月18日
田中車両工場争議団本部
立憲労働党本部
関西車両工組合本部
日本建築労働協会本部』
(サボタージュ闘争の拡大)
6月19日、20日木工組立部の請労働者全員がサボタージュ闘争を続けた。
6月21日、新たに追加要求として、日給を元通りにすること、年に一回の昇給をすることを提出した。
6月22日、サボタージュ闘争が、組立部だけでなく、立具部、刻部の請負労働者全員に拡大した。
この日、会社は労働者の要求すべてを拒絶すると回答してきた。
(ストライキ決行)
6月23日、争議団は、『・・工場主は今や甘言と金力とをもって我々争議団の切り崩しを断行している。我々は我々自身と田中車両に働く労働者兄弟のために、要求を貫徹するまで、本日から断然罷業を決行する。・・・起て我らが同志、起ちて我らに声援を与えよ。・・・』とストライキを宣言した。
24日、25日組立部、立具部、刻部の全職場でストライキが決行された。全員請負労働者であった。
(争議勝利解決)
6月25日午後争議は解決した。
解決条件
一、会社は、解雇・退職手当を時機を見て自発的に発表する
一、出張手当を支給する
一、請負工事の材料・運搬人賃金は会社が負担する
一、衛生設備を完備する
一、会社は、本月の支払い時に約千円を補助する
一、犠牲者は出さない
こうして26日、スト参加者全員が工場に復帰した。