先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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野田醤油争議(その七) 闘い② 「よってたかって宮内省へ大押し出し闘争」 1927(8)年の労働争議(読書メモ)

2023年11月01日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

写真・争議団と家族会5千、よってたかって宮内省へ大押し出し闘争(1928.4.1)
白手ぬぐいの頬かむり、子供を背負う女も少なくない。同盟休校中の子供たちも大挙してきた。

野田醤油争議(その七) 闘い② 「よってたかって宮内省へ大押し出し闘争」 1927(8)年の労働争議(読書メモ)
参照「日本労働年鑑第10集/1929年版」大原社研編
  「協調会史料」
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉

 1928年1月1日、ついに新しい年を迎えた野田醤油争議、1日、元旦大演説会が野田劇場で開催された。東京からも大挙して応援部隊が押し寄せた。何千もの争議団と家族、応援者の気勢は大いにあがった。

(争議団と家族に食料品を売ってくれない正義団幹部の30商店に一斉投石)
 1月10日、スト破りの一労働者の自宅が火事になった。会社は、ここぞとばかりに争議団のしわざだと盛んに言い触らした。
 1月12日、東京の市電自治会大会で「野田醤油争議支援」の決議案が提出されやいなや臨監の警察官から「集会解散」が命じられた。会場で抗議する労働者数十名はたちまち検束された。ここにも野田醤油資本と田中内閣、内務省の密接な関係のもと手が回っていたのだ。
 1月14日午後7時、争議団員数百名は二手にわかれ、喊声をあげながら怒涛のごとく町内目抜き通りに繰り出した。この間争議団員とその家族や子供に食料品などを一切売らないなどの非人道的ないじめを続けている正義団商店。また、商店の子弟や従業員をスト破りの工員として工場に送り込み労働をさせるなど組合攻撃の先兵と化した正義団幹部の商店。これらめぼしい30店の正義団幹部の商店ショーウィンドゥに向かって一斉にすさまじいまでの怒りの投石闘争が行われた。この日の闘いでは80名の争議団員が検束され、留置所からは盛んに労働歌を歌う声が聞こえた。再び小泉七造ら13名幹部に拘束状が出され、騒擾事件として小泉七造、小岩井相助らは検事局に送られ30名が起訴された。会社は被害商店に争議団への悪態をつきながら金一封を配って歩いた。


          1.16家族会への弾圧(松戸駅200名全員検束)
(女房連200名内務省へ請願)
 1月16日午前5時、野田町を抜け出した約200名の争議団の妻らはひそかに徒歩で松戸駅に向かった。200名は上京し内務省に押しかける計画だった。子供を背負った者、乳飲み子を抱えた者もいた。野田駅では官憲にみつかるので、ばらばらに松戸駅まできたのだ。結局松戸署に全員拘束され、代表7名だけの上京が許可され、残りは全員野田町へ追い返されてしまった。
 1月27日、団長の田中きく等女房連代表は内務省社会局に行き、『あなた方は、野田醤油争議をどうご覧になりますか。社会局の人たちは、私たち6千の家族を見殺しになさいますか』と必死に詰め寄った。おいおい泣く者さえいた。女房連代表らは帰途千葉県庁金井警察部長にも会い、訴えた。

(「父ト共ニ戦ニ立ツ」同盟休校)
 「会社の味方をする不公平な児童の取り扱いをする学校には、俺たちの子供を預けておくわけにはいかない」と争議団は表明した。
 1月17日564名の小学生は隊伍を組み『労働少年軍の歌』を歌い、野田町中の街路を練り歩いた。尋常2年の少年が書いた「父ト共ニ戦ニ立ツ」の白旗が、ことさら人目を引いた。
 1月22日、争議団児童の娯楽大会が野田劇場で開かれた。争議団の少女少年自身が役者となって争議にちなんだ童話劇を行い500名の子供たちの喝采を受けた。

(2回目の硫酸事件)
 会社の顧問で元キリスト教牧師太田霊順は、『かかる争議を起すのは、人倫の道に外れた犯罪である』としきりに労働者を煽り、年中野田支部を攻撃してあるいていた。この男元牧師でありながら暴力団を率いて争議団の演説会に殴り込んできた時もあった。労働者からいかにあきれられ恨まれていたか。1月26日午後5時半、護衛を連れ自宅付近にいた太田霊順の前に、突如現れた一人の若者が、顔面目がけて硫酸が振りかけた。すぐに出頭して検挙された若者は総同盟東京鉄工組合員の闘士桑田清(23歳)であった。1月30日には正義団の野田町町長が乗っている人力車が、町長ごとひっくり返された事件もおきた。

(総同盟松岡に白紙委任)
 2月2日午後2時半、野田劇場で開催された野田支部緊急総会で総同盟松岡が提案した「要求条項の一切を撤回し、争議解決を白紙をもって松岡駒吉氏に一任すること」が決議された。〈要求条項の一切を撤回〉は、会社を交渉のテーブルに引っ張り出す為のあくまでも戦術だと説明された。
 2月6日第一回目の労資交渉が行われた。争議団側は総同盟松岡駒吉ただ一人。会社は並木工場長らと立会人の協調会労働課長。この日の交渉が終わった夜、組合事務所近くの路上で組合員3名が暴力団員に短刀で胸、咽喉を刺されひん死の重傷を負わされた。暴力団の犯人は逮捕され、殺人未遂罪で懲役3年の判決を受けた。労資交渉が始まったとたんにこの有様だ。

 2月8日第二回目労資交渉。2月13日の第三回目の労資交渉で、会社は初めて解決案を提案してきた。「争議団の即日解散、解雇者の内僅か150名だけを再雇用、解雇者一人あたり100円の解雇手当を支給する」という内容だった。2月15日、松岡は労資交渉の無期延期を会社に伝えた。

(町議会に抗議行動)
 2月23日、野田町町議会が開かれた。会社側の議員である茂木七郎右衛門、茂木啓三郎が出席していた。会社を擁護する町長や議員の発言が続く。それを聞いた傍聴席にいた小泉七造を先頭にした70名の争議団員は怒りを爆発させた。議場は混乱を極めた。26日争議団は町内に出て、町長排斥署名運動を猛烈な勢いで開始した。27日には野田劇場において町民大会が開かれ多くの町民が押しよせ大成功をおさめた。

(「血戦状態」)
 会社はますます暴力団を各地から狩り集め、争議団員を町のあちこちで襲撃した。暴力団は酒気を帯び路上を闊歩し、ふところには堂々とドスや短刀だ。茂木一族の全邸宅は、各数十名の暴力団によって物々しく護衛されている。工場の塀には電流を流した鉄条網すら設置され通行中の少年が触れて負傷した事件も起きた。
 
 文字通り野田町全体が「血戦」状態だ。そのため、争議団側も意気軒昂の若者で組織された行動隊「前衛同志会」が、数名づつ隊伍を組んでは争議団員と家族の防衛と重役宅付近を監視し、暴力団の襲撃にそなえた。争議団員の中には自分を守るために懐中に出刃包丁を忍ばせるものさえでてきた。争議団によるスト破り裏切者への厳しい説得行動や糾弾も続いた。3月5日深夜には第四工場の塀が破壊された轟然たる音が全町に響き渡った。

(2.7野田争議応援大演説会 東京市電自治会の島上善五郎も弁士の一人。評議会も参加)

(『民の声は天の声なり』)
 3月12日、東京墨田横網の本所公会堂において、関東労働同盟会主催野田醤油争議応援演説会が開かれ、公会堂は、駆け付けた東京下町の労働者であふれた。小泉七造は、かつての「ひろしき」時代の野田醤油労働者の悲惨な状態を野田醤油労働者自身とみなさんの応援の闘いで改善を勝ち取ってきたこと。それを再びもとに戻そうとしている野田醤油資本の暴虐振りと弾圧を徹底糾弾し、「弁士中止」となったが、満場の聴衆を感激させた。争議団家族を代表して石塚とくが壇上に立った。とくは、「夫と共に最後の血の一滴まで戦う」と自らの決心を切々と語った。これを聞いて泣かない聴衆はいただろうか。『民の声は天の声』なのだ。

(運動会・演芸会・花見)
 争議団は児童や家族も参加した演芸会や運動会をよく開いては親睦を深めた。演芸会では労働者の隠し芸や児童劇や組合員の得意の浪曲や楽器演奏を披露し、3月19日は清水公園において全争議団員と家族児童が参加した運動会を成功させた。4月14日には花見の宴も開催した。

(直訴事件勃発)
 3月20日午後1時50分頃、争議団副団長堀越梅男が東京駅前丸ビル明治屋支店前において、天皇夫妻の乗る自動車に向かって直訴をした。堀越梅男は関東醸造労働組合の主事、同野田支部理事であった。また工場内の在郷軍人亀甲萬工場分会長も勤めていた。前日19日、柴又帝釈天の旅館に一泊した堀越は、20日朝9時頃京成電車で押上に出て市電で東京駅に向かい、駅の待合室に潜んだ。東京駅前は天皇夫妻の葉山行きを見送る群衆で溢れていた。堀越は群衆を押し分け警戒線を突破し、突如往来に飛び出し土下座した。『お願い奉る』『お願い奉る』と大声で連呼した。たちまち憲兵隊らに取り押さえられ日比谷警察署に護送された。直訴文には『・・・遂に争議は半年の長きに亘って、なお解決の望みなく、馘首されたるもの一千余名、六千五百の陛下の赤子が路頭に迷っています。・・・・』と争議の原因から現在までの苦境が詳細に書かれていた。

 千葉県警察部は極度に動揺した。堀越の背後に争議団幹部や総同盟本部がいるはずだと大捜索をはじめた。会社側も狼狽し、「この事件が動機となり、争議解決の一歩を進めれば幸い」と表明した。
 総同盟本部は、20日のその日の内に、鈴木文治会長と主事の松岡駒吉の連名で「畏れ多くも直訴を企てたる事は我等日本総同盟の責任代表者として誠に恐懼に堪えられない次第であります」と謝罪の声明書を発表した。この声明書の中には「彼(堀越)が野田における六千の家族並びに五百余名の小学児童の可憐なる心情見るに忍びず会社の頑迷横暴に憤激するは勿論、その背後にある政友会内閣頼むに足らずとし、決戦身を挺し聖鑑を仰がんとしたるその心意喪情亦察し得らるるのであります。」とある。

 野田支部は全争議団員と家族を集め、小岩井団長が、「同君の犠牲的精神から争議解決の一方法として、余儀なく畏れ多い行為に出たものとすれば、我々団員はよく同君の苦喪を推察して、我らの運動を水泡に帰せしめないように、一層結束を強固にする必要があり、会社がその非を悟って一日も早く解決するよう努めなければならない」と演説した。


    写真上・全国から殺到したカンパや手紙を集約する争議団と家族会

(亀甲萬醤油ボイコット運動全国に拡大)
 亀甲萬(キッコーマン)醤油ボイコット運動はたちまち全国に拡大した。評議会やその他の労働団体もボイコット運動に積極的に応じた。全国・各地で亀甲萬醤油ボイコットのポスターが電柱などいたるところに張り巡らされた。野田争議団にカンパや手紙が殺到した。同盟休校を闘う児童たち500名にも全国の労働組合員の子供たちからノートや鉛筆などの学用品が続々と届けられた。日本中の民衆が切なる気持ちで応援しているのだ。

(よってたかって宮内省へ「大押し出し」闘争)
 野田醤油争議の特筆すべき一つに驚くべき家族(会)との結束がある。ここには老人も妻も子もよってたかって闘う大衆路線がある。1921年以来、奴隷からの解放に向けて数々の闘いを夫や息子や父と共に闘ってきた家族の姿がある。家族会は、「神社祈願」と称するデモを連日数百名規模で繰り広げていた。1月16日には内務省社会局長と千葉県庁への請願行動も起こした。
 
 4月1日、争議団と家族の5千名はいよいよ決戦的大闘争に挑戦した。大請願隊を組織し、大々的に野田の地から東京の宮内省と内務省に向けて、『野田困窮家族陳情』の墨痕あざやかな大のろし旗を押し立てた300名の女房連を先頭に、徒歩による「押し出し」上京大デモだ。荷車5台に米・味噌・野菜その他を満載させ、炊事・救護・伝令班を決め、妻も老人も同盟休校中の児童も4年生以上は参加した。乳飲み子を背負っている女もいる。午前5時に争議団本部に白手ぬぐいの頬かむりに草鞋・脚絆・弁当持ちといういで立ちで集合した。午前6時にはもう野田橋のたもとには千余名の老若婦女子が押し寄せている。刻一刻と人員は増し、留守を預かる児童たちは『父ト共ニ戦イニ立ツ』の標語を掲げながらフランス革命の歌「ラ・マルセイエーズ」の替え歌『起てよ日本の労働者』など元気のいい歌で、大人たちを励ますといった実に物々しい有様であった。午前7時、本隊が争議団本部を出発した。

(感想)
(「何たる壮烈なる場面であろう。そこには何らの偽りもなければ、てらいもない。ただ生きんがための真剣な叫びがあるのみだ。」と『野田血戦記』の筆者がおもわず感嘆している。かつて足尾鉱毒に苦しんだ谷中村ら3千(合流して1万2千とも)の人民が悲愴な鉱毒歌を唄いつつ上京し政府に迫らんとした1900年、明治33年2月13日の「川俣事件」押し出し闘争を彷彿とさせる大衆決起であった。そういえば、あの時、田中正造の直訴事件もあった。たしかあの直訴状は幸徳秋水が書いている。

 ここで注目したいのは、『野田困窮家族陳情』の押し出し先に宮内省があることだ。まるでわずか10日前の「直訴事件」を連想させる。何故押し出し先が宮内省なのか。先の直訴事件では「畏れ多くも」と謹慎したのではなかったのか。謹慎どころか宮内省を「押し出し」の標的にすることで、世間に再び直訴事件を思いださせる事を狙ったのか。「畏れ多くも」どころの話ではないではないか。皇室ご用達商人野田醤油ということで宮内省の責任を問おうとしたのか。これでは陳情や請願ではなく、宮内省への決死の大衆闘争そのものではないか。ひょっとして相手側の最高司令官天皇に対して、今度は大衆的直訴で迫ろうとしているのか。これは本当に命がけではないか。)
 
 いずれにせよ、驚愕して腰を抜かしたのは野田警察署以下千葉県警察当局であった。このまま争議団と家族を東京まで行かせれば、都内で再び「直訴事件」に続く大騒擾が勃発するのは間違いない。しかも行き先は宮内省だ。あわてた警察は前の晩とこの日の早朝に争議団幹部小泉七造以下を根こそぎ検束した。当日は隣りの埼玉県警察まで動員し、数百名の警官が総力を挙げての阻止線をはった。野田橋たもとは武装警官隊の部隊で埋め尽くされた。午前7時、それを突破しようと押し寄せる民衆の怒号罵声が飛び交う肉弾戦がはじまり、たちまち7名が検束された。ついに警察は解散命令を出した。しかし検挙を恐れない民衆は一向にひるまない。騒ぎは3時間に渡って大きくなる一方だ。警察は仕方なく小岩井争議団団長を留置所から連れてきて説得させることにした。小岩井団長は河岸の大木によじ登り5千の仲間たちに、『闘いは今日で終わらない。涙をのんで一時解散してほしい。我々は決して屈服しない。』と叫んだ。争議団・老人・家族・子供の、よってたかっての野田醤油争議最大最後の大衆闘争は午前10時にようやく終わった。この日の検束者は35名にのぼった。

(第三次硫酸事件)
 4月2日午前7時50分ごろ、茂木重役邸前で、工場課作業係主任関根安次が争議団の前衛同志会長諸町春吉により硫酸を浴びせられた。関根は、当初からの組合攻撃の旗振り人であり、かねてから争議団に憎まれていた人物の一人であった。

(衝突)
 4月13日、会社側職員十数名が、愛宕神社で争議団幹部和田喜一郎を袋叩きにした。これに怒った争議団約500名が押しかけ、会社側の兇器を手にした暴力団も繰り出し、あわや一触即発で大血戦かと誰もが構えたが、寸前で警官隊が駆け付け阻止した。警察は暴行をふるった会社職員ら8名を検束した。争議団のスト破りへのピケ行動もますます激しさを加えた。

(協調会の調停)
 調停役の協調会理事添田敬一郎は、自分の手先矢吹を使い、色々と裏工作をしてきたが、添田はここに来て協調会副会長の渋沢栄一と連日協議を重ねた。添田は会社重役を自宅に招いた。一方渋沢は総同盟の鈴木会長と松岡駒吉を呼び出し面会を重ねた。その後松岡は福永千葉県知事と数回にわたって面会した。
 4月19日、芝協調会会館において最後の労資交渉が開催され「解決案」が合意された。
 会社からは、社長茂木七郎右衛門、常務茂木七衛門、同茂木佐平治、顧問太田霊順、工場長並木重四郎。
 争議団からは、総同盟会長鈴木文治、同関東労働同盟会会長松岡駒吉。
 調停者として協調会理事添田敬一郎、千葉県知事福永尊介、横井警察部長、協調会草間労働課長が列席した。
 
 廊下には新聞記者やカメラマンがすし詰めになって待機していた。


      写真・「悲憤の涙の中に  全員黙然と祈る 声をのんだ解団式」
                           争議団解団式を伝える東京朝日新聞(1928.4.21)

(野田支部緊急総会)
 4月20日午後4時半、野田劇場において野田支部緊急総会が開かれた。5千の争議団と家族が続々と同劇場に詰めかけた。解決案「復職300名、747名解雇」を知らされたとたんに、場内は総立ちとなり会場のあちこちからは罵声が飛んだ。『なんだその条件は! 』『松岡の馬鹿野郎!』『茂木邸の門前に屍をさらすまで闘え!』『ダラ幹!』等々と次々と続く絶叫に溢れた。幹部は必死になだめる。最後に松岡は涙ながらに解決案の受け入れを訴え、万歳も労働歌もやめて黙祷に代えた。会場からは忍び泣く声さえ聞こえてくる。怒って席を蹴って退場した争議団員も少なくなかった。
 
 突如、会場から一人の女性が叫んだ。『皆さん、私に一言さして下さい』、争議団婦人部の闘士志村つやだ。彼女は立ち、茂木一族とスト破りの裏切り者を痛烈にののしり、最後に、『この争議団の中から、三百名だけが復社することになるが、皆さんは復社しても、今後の組合発達のために尽力して下さい。残り七百名あまりは、郷里に帰って百姓になる人もありましょう、また行商人になる人もありましょう。そして、これからは、お目にかかる機会もあまりないと思いますが、もしお互いが道であった節には、この悲壮な今夕のことを思いだして、堅く手を握りあいましょう』と述べた。つや自身も泣いていた。場内のあちこちにも、すすり泣く声がした。男たちは流れる涙をぬぐおうともせず、じっと腕を組んだまま歯を喰いしばった。

(協定)
 覚書
 一、争議団は昭和三年四月二十日解散する
 二、会社は解雇された中から三百名を採用する
 三、会社は、解雇手当を支給する(一人平均460円、総額45万円)
 付記 告訴は互いに取り下げる
 
(松岡帰さぬぞ)
 4月25日午後1時、松岡駒吉は帰京すべく野田駅にいた。多数の争議団員と幹部が見送りにきたが、家族会の婦人らは「失業者747名の徹底的救済の誓約をしないうちは松岡を野田から一歩たりとも帰さぬぞ」と詰め寄った。

(野田支部のその後)
 4月20日野田醤油争議団は黙祷をもって⁂解団式をしめくくった。
⁂争議団解団式
 争議団解団(解散)とは、戦前ストライキが終わった時に大抵行われた儀式。これは決して労働組合組織の解散ではない。総同盟醸造労働組合野田支部も解散はしていない。争議解決直後野田支部委員長が小泉七造から小岩井相助に代わったが野田支部の組合組織は続いている。しかし、実際問題として野田の地における労働運動はその後戦後まで起きていないと言われている。

(小泉七造)
 かの北海道室蘭で闘いぬき、再び野田の地で労働者の中に入り、幾たびも幾たびも獄につながれても、絶えず大衆の先頭に立ち続け、大衆と共に敵の凶刃の中に突っ込んでいった小泉七造。多くの組織化と創造的多様な戦術を駆使しては、よってたかっての大衆闘争を繰り広げ、野田の労働者とその家族から慕われたあの小泉七造のその後はわからない。いずこの地で三度立ち上がったのだろうか。職場を追われた同志とその家族らとどこに彷徨っていったのだろう。知りたい。

写真・右小泉七造野田支部委員長、左小岩井相助争議団団長
 

以上



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