先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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総同盟分裂まとめ(その六) 国際連帯と労農党結成(読書メモ)

2024年01月19日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

総同盟分裂まとめ(その六) 国際連帯と労農党結成(読書メモ)
参照「協調会史料」
  「社会・労働運動大年表 I」大原社研

 1925年5月の総同盟から左派の排除、総同盟の分裂というおろかな事態を、日本労働者階級はただ手をこまねいてみていたわけではない。心ある多くの労働組合、農民組合から労働運動の大団結を求める声が全国で彷彿した。それが合法的無産政党の創設と労働運動の統一を求める全国的総連合運動であった。その声は総同盟参加の労働組合の中からも湧き上がった。
 その同じ年、時を同じくして中国労働者の大決起が上海で勃発した。上海5.30闘争であった。

(数十万中国人労働者の決起、上海5.30闘争)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/298f4bfc73bad934144c807db666a38d
 1925年、中国上海の「内外綿紡績会社」など中国に侵出していた多くの日系紡績工場で中国労働者が決起した。中国人労働者を低賃金で昼夜二交替12時間労働でこき使い、その上、夜勤手当も支払わず、また貯金などの名目で給料から不当に天引きしていた日系紡績工場。中国人労働者誰もが日系紡績工場を眼のかたきにするのは当たり前であった。2月、内外綿紡績会社工場の不当解雇に怒った中国人労働者のストライキがおきた。この闘いは上海中の日系紡績工場に一挙に拡大した。日華紡績、大康紡績、豊田紡績、大日本紡、東洋紡など上海6社22工場の中国人7万労働者がストライキに決起した。

 5月30日には打倒帝国主義を叫ぶ労働者・学生のデモにイギリス警察が発砲し、死者15名、重傷者15名もの犠牲者がでた。上海労働者20数万人がストライキで呼応した。すぐに北京にも拡大した。この5.30闘争は全中国人民の反帝国主義闘争の引き金となった。
 日本軍陸戦隊が上海に上陸、軍艦、駆逐艦も入港させ、イギリス、アメリカも反日、反英、反米を叫ぶ中国人民を武力で鎮圧し多数の死傷者がでた。

(国際連帯)
 この年の5月24日に総同盟から分裂したばかりの日本労働組合評議会は、各地の組合大会で組合員たちは口々に中国労働者への弾圧に抗議の叫びをあげ、また国際連帯を求める激しいアジテーションをした。評議会は上海総工会に激励電報を送り、幹部2人を上海に派遣し、日本全国から寄せられたカンパを届けた。2人は上海労働者ゼネストの戦術・戦略も学んできた。評議会はその後も1927年の山東出兵反対や「対支非干渉」をスローガンと決め全国で熱心に国際連帯の運動をした。

 総同盟も「日本が柄にもなく欧米列強の尻馬に乗って、旧式な侵略主義を続けるならば、日本はとんでもない運命に陥るにちがいない。われわれは日本の支配階級がしんに時勢を知るならば、この際、大胆なる方向転換をおこなうて、帝国主義を捨て、英米の尻馬に乗ることをやめ、国家の内政外交を民衆化し、支那に対しては英米仏よりはなれた独自の新しい立場を持って、共存共栄の大計を立つべきである。」と日本政府を批判した。

(無産政党結成の呼びかけ)
 これら中国労働者の巨大な決起と闘いに呼応するかのように日本の分裂していた労働運動や民衆運動を一つにして大同団結しようという運動がおきた。1925年(大正14年)6月、日本農民組合が、無産政党結成の呼びかけを全国の主な労働団体に行い、この呼びかけにこたえて8月10日大阪中之島中央公会堂に日農、総同盟、評議会、官業労働総同盟、東京市電自治会、機械労働組合連合会など13団体の代表が集まった。その後全国水平社、政治研究会、水平社青年同盟も参加した。全国の労働者農民民衆はこれで再び労働者の統一した運動と組織が生まれると喜び、心から期待した。
 しかし総同盟は無産政党準備員会から左派の無産青年同盟と政治研究会の排除を要求し、受け入れられないとみるや脱退した。そのため評議会も無産政党創立のためならばと自ら準備委員会から抜けた。1925年12月1日、日本で最初の合法的無産政党「農民労働党」の結党大会が開催された。しかし結党わずか30分後に政府は「農民労働党結社禁止命令」を出し即日解散させ、この無産政党を一瞬で潰した。民衆・労働者が全国的に団結することをなによりもおそれている政府だった。

(労農党の結党)
 「農民労働党結社禁止命令」直後の1926年1月13日、日本農民組合と官業労働組合が相談し、あらためて無産政党結党の協議がはじまった。当初は評議会など左派を外した総同盟や右派や中間派だけの結集だった。しかしすぐに、評議会ら左派も招くべきだとの声があがった。総同盟麻生久、赤松克麿ら右派は、「評議会、政治研究会、無産青年同盟、水平社青年同盟のその幹部たると平会員たるを問わず、共産主義的色彩あるものは絶対に入党を拒絶すること。ならびに、其の他、党の綱領、規約に反するものはいっさい拒絶すること。」と強く要求した。

 3月5日大阪で「労働農民党(労農党)」結成大会が開かれた。その直後から各地の労働組合や日農らから「左派組合員にも門戸を開放すべし」の声が多数あがった。4月の中央委員会は、9対8の一票差で総同盟ら右派の反対を押し切って左派の門戸開放が決定し、これを受けた評議会は一般組合員にたいして積極的に労農党への入党を呼びかけた。評議会は、地方でも日農と共に労農党地方支部を次つぎと結成した。
 7月の労農党中央執行委員会において、総同盟の西尾末広は「評議会ほか左派三団体の構成員の労農党加入絶対反対」の動議を提出した。否決されたら総同盟は労農党から脱退することを脅しとする動議提出であった。やむなく日農らは妥協し、再び左翼3団体の排斥を決めた。
 評議会は「労農党を労農大衆の手に奪還する」として、「組合員は積極的に党支部を結成し、日常的地方政治闘争を起こすこと」など三団体排斥の反対運動をよびかけた。また議会解散請願運動を全国的に起こした。請願運動全国実行委員会の委員長は山本宣治であった。日農拡大中央委員会は労農党に一般(左派)門戸開放を提案することを正式に決めた。
 10月24日、総同盟、東京市電自治会らの右派委員・団体全てが労農党から脱退し、安部磯雄、賀川豊彦も辞任した。
 12月12、13日、労農党第一回大会が芝の協調会館で開かれた。106支部、16の地方支部連合会、党員7,967人と発表され、大山郁夫があらたな中央執行委員長に選出された。そののち大山は「われらの委員長」と呼ばれ党員からも民衆からも親しまれた。

(全国的総連合運動)
 政府の強硬な反動的姿勢を前に、総同盟右派はますますその右傾化を強めた。富士ガス紡績川崎工場の争議の応援を巡って総同盟は評議会らの支援を暴力的に排除した。評議会も応戦し左右の対立は深刻化した。しかし、労働戦線をなんとかもう一度統一しようとする全国的総連合運動が全国で盛り上がってきた。
 1926年(大正15年)5月には、総同盟大阪連合会と評議会大阪地方評議会を含む大阪労働組合会議が、全国的総連合を提唱した。6月には総同盟、評議会など25労農団体、51委員が大阪に集まって、全国的総連合の結成準備会を開いた。ところが総同盟の代表として出席した西尾末広が「評議会は共産党の傀儡(かいらい)と認められているので、しばらく時日をかしてその真偽を明らかにする必要がある」と主張し、結局「総連合の結成に向かって努力せんことを期す」と形だけ決議しただけで全国的総連合運動は右派の抵抗によって失敗した。
 総同盟、評議会の対立は芝浦労働組合、東京市電自治会など多くの労働組合内に反映し、多くの労働組合の中で分裂や衝突、対立が起きた。政府は左右の対立をますます煽る目的もあり、争議やストライキには徹底的な弾圧で応じてきた。ストへの弾圧は評議会、総同盟どちらの争議であっても同様であった。1925年の別子銅山スト、1926年の共同印刷会社スト、浜松日本楽器スト、1927年の山一林組、野田醤油争議など暴力団、官憲一体となった猛烈な攻撃であった。惨敗した争議も多かった。

(労農党の活動)
 1927年1月、労働農民党(労農党)は《労働農民新聞》を創刊した。3月、労農党は対支那非干渉の声明を発表し、全国各府県連は対支那非干渉地方同盟を結成し、中国侵略反対運動に奮闘した。5月には「対支那非干渉全国同盟」が成立した。7月には労農党系の「関東婦人同盟」が結成された。9月には、評議会と労農党は5法獲得運動の全国的大衆運動を繰り広げた。失業手当法、最低賃金法、8時間労働制、健康保険法改正、婦人青少年労働者保護法の5法獲得をめざし、激しい弾圧を受けながら各工場の闘争と結びつけた政治闘争だった。議会解散運動や翌年1928年2月の日本初の第一回普通総選挙に向けた運動を全国で起こした(結果は労農党2名当選で19万得票。その他の無産政党は社民党4、日本労農党1、九州民権党1の計8名が当選した)。
 労農党は、全国各地で闘われた労働争議や小作争議を、地方支部に最大限呼びかけ、我が事のように熱心に応援動員した。富山県営水力電気立山工事現場争議など朝鮮人労働者のストライキ支援の先頭に立ち、また全国水平社などと積極的に連帯した。

(4.12クーデター)
 1927年4月12日、蒋介石の上海クーデター。1924年1月以来の国共合作による国民革命は中国人民の広範囲な歓迎と呼応を呼んだ。上海の5.30闘争を機に各地で反帝闘争が高揚し、中国全土で本格的な挙兵が起きた。1925年11月国民革命に呼応する河北省の挙兵が、関東軍の干渉により敗北した。12月国民党の右派が国共合作に反対する西山会議派を結成した。1926年1月1日の広州での国民党2全大会は国共合作を評価し、連ソ・容共産・労農扶助などを強調したが、ほどなく国民党蒋介石ら右派の動きが激しくなった。7月から国民革命軍の北伐が開始された。10月23日上海第一次武装蜂起が失敗した。1927年3月21日上海で3度目のゼネストと武装蜂起で国民革命北伐軍を歓迎した。3月24日北伐軍の南京占領に際し、英米の軍隊が砲撃した(南京事件)。

 4月12日蒋介石が上海でクーデターを起こし、労働者・学生・中国共産党員を襲撃し多数を殺害した。5月28日、日本軍第一次山東出兵。7月13日第一次国共合作が破綻した。8月1日中国共産党、南昌で武装蜂起、10月井崗山に革命根拠地を建設。

(1928年3.15弾圧)
 前年の蒋介石上海クーデターを真似たかのような日本政府の労働者、民衆に対する大襲撃が勃発した。1928年3月15日、治安維持法を本格的適用した大弾圧3.15事件であった。初めての普選法による総選挙が終わって一ヶ月もたたないうちに全国の特高警察、検事局を総動員して、労農党、評議会、無産青年同盟、農民組合、水平社など左翼系団体の活動家1千数百名を一網打尽にする大検挙を行い、長期のブタ箱拘留と死人がでるほどの残酷非道な拷問によるでっち上げの調書で530名もの大量起訴を行ってきた。普選法総選の挙無産政党前進に対する露骨な大巻き返しであることは明らかであった。敵の巻き返しは必ずあるのだ。

(労農党・評議会など三団体「結社禁止命令」と治安維持法死刑導入改悪)
 3.15弾圧に続き、4月10日には労農党、評議会、無産青年同盟の三団体に「結社禁止命令」の追い打ちをかけ、さらに天皇の名による緊急勅令として治安維持法を改悪し、処罰を懲役10年から無期死刑にしてきた。政府は一挙に労農党、労・農運動、大衆運動の息の根を止めようとしてきた。侵略・戦争への道に猛進した。

(全協)
 しかし、労働者・民衆は再び立ち上がった。労農党は新労農党結成に向け準備に入った。評議会は、関東金属労働組合が新しい全国連合組織づくりを提唱した。東京市従、関東皮革、東京合同、自動車従組、関東木材など旧評議会加盟組合以外の参加も得て、1928年7月、本所公会堂において「全国単一労働組合総連合関東協議会」の創立大会を行おうとしたところ、官憲は代議員を全員検束し、「解散命令」を出した。この大弾圧で労働組合左派の全国組織結成は全く不可能となり、やむなく、1928年12月25日、「日本労働組合全国協議会(全協)」の名による半非合法的活動を強いられていった。全協組合員最大で1万2千人。
以上



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