先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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総同盟の分裂まとめ(その五)  分裂後の左右の組織化 東京鉄工組合の組織化とストライキの場合(読書メモ)

2024年01月17日 11時10分40秒 | 1927年の労働運動

上・協調会史料<東京鉄工組合昭和2年度大会議案「争議部報告」争議一覧表>

総同盟の分裂まとめ(その五)  分裂後の左右の組織化 東京鉄工組合の組織化とストライキの場合(読書メモ)
参照「協調会史料<東京鉄工組合昭和2年度大会議案>」
  「二村一夫著作集 第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928」
      http://nimura-laborhistory.jp/iwanamikoza.html
  「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋    
  「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃
  
(感想1)
 総同盟分裂後の東京鉄工組合の組織化とストライキを協調会史料「東京鉄工組合昭和2年度大会議案」からまとめていて、頭がクラクラしてきた。今の私には到底及びも想像もつかないからだ。総同盟松岡駒吉らが、評議会や組合同盟の組合員から「ダラ幹」「裏切り者」呼ばわりされているのを読むにつけ、総同盟は、相当な御用組合的なイメージを持つし、実際歴史的に労働運動から左派を排除し、戦争に協力してきた御用組合であることは事実であるが、「協調会史料」によるこの年1927年における総同盟東京鉄工組合の一般組合員、現場労働者の実際はそのイメージとは程遠く、まるで違う。野田醤油争議の時と同じ感想だ。

 鈴木文治や松岡駒吉や赤松克麿ら総同盟幹部がますます右傾化し、政府大臣らと接触を深め労働運動内部から左派を排除、分裂させ、時には会社と「団体協約」などで露骨に手をむすび、職場から声をあげる労働者を排除している。しかし、現場では先輩労働者がいかに工場主や資本家に対し果敢に立ち上がったか。32支部(3千人)の総同盟東京鉄工組合が1927年一年間だけで15もの工場でストライキを長期に闘い、熾烈な弾圧を受けて組合員の中から159人もの被解雇者という犠牲者を出し、また2人も刑務所に収監されながらも、倒れても倒れても立ち上がっていく、この先輩一般労働者の姿はどうだ。中にはたった8人でも果敢にストライキで立ち向かっている職場もある。先輩労働者は、敵の暴虐の嵐がいかに荒れようが、弾圧が強かろうが、労働者、仲間たちには、これほどの勇気があり知恵もあり、団結する力、闘う力があることを教えてくれている。

 組織化についても東京鉄工組合は、わずか一年間で13支部もの組合を結成、組織化に成功している。職場労働者が全員組合に加入している支部が13支部もある。翌年1928年にはあらたに9支部の結成だ。職場全員組合員支部は17支部に増えている。これは東京鉄工組合支部だけの話だけではない。この頃、総同盟、評議会、組合同盟どこでも共通してストライキと組織化に奮闘しているから驚きだ。何度も確認したい。総同盟右派幹部の堕落がどうであれ、先輩現場労働者は、労働者には本来これだけの力があるということを教えてくれている。こうして総同盟分裂時1万数千人前後だった総同盟も評議会も数年後には双方が3万人を越える組織に成長している。組織化が進んでいるばかりではなく、大ストライキ、大争議を双方、それこそ血みどろになって闘い抜いている。だからこそ官憲と資本はストライキに対しては評議会、総同盟問わず、どちらにも仮借ない弾圧で向かってきているのだ。

(総同盟分裂後左右の組織化の発展) 
 上でも書いたが、1925年総同盟分裂時には総同盟1万9千、評議会双方1万数千人ほどの組合員数だったのが、数年後にはどちらも組合員は3万人を超えている。総同盟、評議会ともどもあらたな労働組合結成に奮闘した結果だった。

(工場もぐり込み)
 評議会は、めぼしい工場には幹部クラスまで総動員して未組織工場に臨時工として潜り込み、組合の無い工場で、労働者と共に働きながら、あるいは地域に張り付きながら労働者の中に入り、仲間の怒り・不満を調査し要求としてまとめ闘いを起こす中で、必死に、目の色をかえ、死に物狂いとなって組合の組織化拡大を目指した。例えば京浜地域の富士電機、芝浦製作所、味の素、浅野セメント、日本トラスコン鋼材、ヒューム・コンクリート、東京製線、富士電機、富士紡川崎、コロンビア、鶴見日本鋳造、横浜禅馬鉄工所などの組織化、そして争議へと繋げた。
 勿論失敗したり、ストライキで全面敗北した経験も少なくない。現在でも有名会社「味の素」では1925年7月に20人ほどで組合を組織し、10月には職場の多くの労働者も参加した一週間のストライキに入ったが22名が解雇され敗北している。日本トラスコン鋼材でも1926年分会が結成され9月から争議に入ったが10日間のストライキは中心的人物の解雇で敗北した。富士電機では1926年6月、500名労働者中150人で分会を組織したが、10月に日本主義労資協調団体「富士電機協和会」が組織され敗北した。
 評議会の組合員、活動家は、このような辛い経験も積みながらも真剣に労働者と団結し、評議会全体としては数年間で全国の組合員を1万数千から3万人に増やし、また幾つもの熾烈な大ストライキを闘っている。評議会の組合員の多くが労農党に加盟し、各地で労農党地域支部を作り熱心に政治や反戦や地域の争議支援の活動をしている。

(総同盟) 
 労働者の組織化は総同盟も熱心に行っている。総同盟も分裂時1万9千人から数年で組合員は3万人を超えた。総同盟右派幹部得意の「上からの組織化」もある。1925年9月逓信省郵便配達労働者200人が「逓友同志会」を結成した。当局の対応は組合の中心人物を解雇するなどすこぶるよくなかったが、逓友同志会会長に就任した総同盟鈴木文治会長と赤松克麿らは巻ゲートルと地下足袋姿の逓友同志会の労働者10数名をともない逓信大臣官邸を訪問した。逓信大臣は熱心に労働者の話を聞いた。郵便配達労働者に冬に外套もないことを聞いて驚き、今は全員には支給できないが、半数だけには支給すると約束をしてくれた。この逓信大臣との面会以降、逓友同志会に対する当局の対応は大きく変化した。こうして郵便職場での組織も拡大した。この「上からの組織化」は友愛会、総同盟結成以来の伝統的やり方であった。また総同盟は「団体協約」で会社と結託して職場から左派労働者を放逐した東京製綱小倉工場や岡部電機製作所の例もある。

 しかし、総同盟の組織化のほとんども以下に見る東京鉄工組合の例をみても、現場労働者の怒りや不満を闘争へと繋げストライキを打ちながら組合を結成して組合員を増やしていった例のほうが多い。具体的な組織化とストライキを協調会史料の昭和2年(1927年)度総同盟東京鉄工組合大会報告からみてみたい。

協調会史料<東京鉄工組合昭和2年度大会議案>より 
総同盟東京鉄工組合の組織化とストライキの例 
 関東鉄工組合内の左右の抗争の結果、1924年関東鉄工組合から分裂して右派約千人が「東京鉄工組合」を結成した。残された関東鉄工組合は約2千名であった。1927年総同盟東京鉄工組合は数年で3千人の組合員を数えるほどに目覚ましい組合組織化と多くの労働争議に奮闘している。

日本労働総同盟東京鉄工組合
 設立 1924年(大正13年)12月6日
 1927年大会時の組合員数 3,050人
 支部数 32支部
 過去一年の新支部結成 13支部
 同、解散または脱退8支部(工場解散5ヶ支部、切り崩し1ヶ支部、脱退2ヶ支部)
 
 (業種)
 機械・建築器具製造 18支部
 電気器具        9支部
 亜鉛鑛金版       4支部
 鋳物          1支部
  
 (その他)
 職場全員組合員      13支部 

組合委員長 内田藤七
主事    原 虎一

東京鉄工組合昭和2年度大会開催
1927年(昭和2年)9月18日(芝公園協調会館)10時15分開会
代議員員数240人(出席代議員206名) 傍聴60名
祝電 野田争議団など
祝辞 逓友同志会石塚幸次郎発言中臨監警官より弁士中止

(東京鉄工組合一年間の組織化の報告) 
 新支部結成 13支部
 解散または脱退8支部(工場解散5ヶ支部、切り崩し1ヶ支部、脱退2ヶ支部)
 支部総数    32ヶ支部(3千名)
 職場全員組合員の支部 13支部

 翌年1928年は(1928年度大会報告より)
 支部総数  38支部
 新支部結成   9支部
 解散支部      2支部(工場解散による)
 職場全員組合員支部   17支部(前年より4支部も増加)
 また、この年、本所、川口、向島、大崎、代々幡など地方等組織拡大も順次良好と報告されている。

(感想2)
 1927年度一年間で新支部が13結成されている。全支部32支部中、職場の労働者全員が組合員になった支部が13支部もある。翌年度は9支部の新支部。職場全員組合員支部は前年より4支部も増えて17支部だ。驚くべき組織化の内容だ。しかも下にまとめたように、どの組合結成もそのまま争議やストライキに直行している。会社の残酷な組合攻撃を跳ね返しながらの組織化だ。総同盟の右傾化、御用組合化、ダラ幹・・・等言われているが、私たちが遭遇する現在の日本の御用組合のイメージとは全く違う。どのストライキも会社や官憲との熾烈な闘いで多くの解雇者をだしながら、完全に敗北した争議もふくめながら、労働者を守り組織していることが良く伝わる。以下東京鉄工組合一年間のストライキ報告。

(東京鉄工組合各職場のストライキ)
 35地方支部、組合員総数3,050名の過去1年間における争議報告。争議一覧表が示すように、争議件数は計25件もあり、その内ストライキは15件、スト参加総数は1,204名で、25件中労働者が勝利したのは12件、有利解決9件、妥協2件、敗北2件と報告されている。現在の私たちからみたら驚くべき内容です。

1927年度大会の「争議部報告」争議一覧表より(上写真)
1、争議数 合計25件

2、争議の原因
 待遇改善・賃下げ反対 10件
 事業不振 11件
 組合つぶし攻撃 4件

3、東京鉄工組合内の一年間のストライキ数
 ストライキ 15件(スト参加組合員総数1,204人)
 紛議 10件

4、結果
 勝利 12件
 有利  9件
 妥協    2件
 敗北    2件

 犠牲者(解雇) 159人
 官憲の弾圧による収監者2名

1928年の争議・ストライキ
 争議
 ストライキ     9件
  参加者   471名
  スト総日数 286日
  参加延人数 134,706人
 
 紛議    29件
 争議総数  38件

5、1927年東京鉄工組合内の過去一年の主なストライキ 
 発生工場   支部名           スト期間     原因      参加数   結果  犠牲者(解雇など)
(1926年後期から)
隅田川精鉄所(隅田支部)        8.14~9.10       組合攻撃          70人        敗北   53人
日本電線会社(向島支部)        8.21~9.3         待遇改善        120人      敗北         9人
品川ベル工場(品川第二支部)    9.10~10.11     賃金不払          36人      有利      なし
桜田機械工場(大島第二支部)    8.30~10.24  工場閉鎖         170人      勝利   2人収監
城東亜鉛メッキ(亀戸第二支部) 11.2~11.14  事業不振        41人         勝利?    全員退職
日暮里ゼンマイ(小石川支部)    11.20~11.27 組合攻撃        40人      勝利      一人罰金刑

(1927年8月迄)
成田電キ工場(本部直属)   5.4~5.14      事業不振          8人       有利    6人
アポロ鉄工所(戸塚直属)   5.17~5.27    解雇      19人          有利   全員退職
本多電気工場(三田第二支部) 5.16~5.19    事業不振          27人    有利   なし
永田メリヤス工場(巣鴨支部) 8月(ストなし) 賃金値下げ    70人     勝利   なし
東京トタン版(寺島支部)   7.18~8.15    事業不振     80人     勝利   なし
安念〇〇工場(巣鴨支部)   7.21~727   賃金値下げ      12人     妥協   6人
合同蓄音機(淀橋支部)    7.21~8.1(ストなし) 待遇改善    30人          勝利        なし
小穴電〇製作所(浅草第一支部)8.1~8.20    組合攻撃他    60人       勝利        なし
佐野鉄工所(渋谷第一支部)  8.15~9.1    事業不振        29人       勝利        6人

 
(感想3)
 過去1年あまりで、32支部3千名の東京鉄工組合だけで、25の労働争議、15ものストライキを闘っている。組合員の半数近くがストを経験している。敗北したストライキは2件、解雇者159人、官憲による収監者2名もの犠牲者もいる。どのストライキも長期ストライキだ。東京鉄工組合が闘争のなかから、あるいは闘争と結びついたなかで労働者を組織していったことがよくわかる。
  あれだけの厳しい弾圧下にあっても、これだけのストライキと組織化に立ち上がっている先輩労働者。これだけの力を持っている労働者。これだけの勇気と団結力と知恵をもっている労働者。今の労働運動、何が欠けているのか。考えたい。
以上

次回
総同盟分裂まとめ(その六) 国際連帯と労農党結成(読書メモ)



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