先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

野田醤油争議(その一) 奴隷から人間へ 1927年の労働争議

2023年10月02日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

野田醤油争議(その一) 奴隷から人間へ 1927年の労働争議
参照「協調会」史料
  『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
  『野田大労働争議』松岡駒吉

醸造労働者の過酷劣悪極まる労働環境
野田醤油
 1927年当時、茂木一族の野田醤油株式会社は野田町に16ヵ工場、行徳町に一工場、流山に味噌工場、朝鮮仁川にも工場を持っていた。醸造工1,145人、桶工202人、火夫103人、大工40人、河運送83人、陸運送74人、とび職163人など約2100余人であった。これ以外にも多くの製樽工場1,171人、機械工場など関連工場の労働者とその家族含めると6,061人いた。
 野田町は茂木一家に支配され、町民1万6千700人中、実に60%が野田醤油関係で働く労働者とその家族であった。町長、区長、町会議員、在郷軍人会、消防組等々茂木一家が占めていた。町唯一の金融機関である野田商融銀行をはじめ劇場、活動写真館、旅館、料理店に到るまで茂木一家とその縁故者が経営していた。

奴隷時代
(中間搾取)
 1921年労働組合結成前の野田醤油をはじめ全国の醸造工場の実態は、封建的奴隷労働そのものであった。どこも雇用制度は一ヶ年契約で、労働者が一ヵ年毎の契約をするには、最初に「親分」に依頼するしかなかった。野田町に4人いる親分は「ピンはね」「カスリ」という相当の中間搾取を公然と行っていた。この親分の手を経なければ労働者を会社は絶対に雇い入れなかった。親分の権限は絶大であり、労働者一人ひとりの賃金契約も親分と会社で交わしていた。

(前借り)
 1年分の賃金の約六分を前渡しで払い残り四分を毎月月割りにして支給するのである。これでは家族4人は生活できないので借金をする。あるいは結婚など到底無理なので、労働者は大抵三度の食事付きの「ひろしき」(タコ部屋)という共同宿舎で生活せざるを得ない。

(8割は請負制)
 醸造労働者の8割は、会社から命じられた作業を終わらせねばならない請負制であったので、早い者は午前1時、遅くても3時4時にはそれぞれ現場に来て仕事にかかった。残りの2割は「夜明けから日没」まで「目一杯」労働させられ、帰宅の夜道は提灯を使った。

(月2日の公休)
 一応月2日の公休とされていたが、請負制のため自分の仕事を終わらせることを優先し、実際は年中休まないで働く労働者も多かった。しかも病気欠勤や親の不幸で欠勤したい場合は、「人代わり」といって、代わりの労働者を自分で探さねばならなかったので、子供が病で倒れても休めなかった。

(「ひろしき」タコ部屋)
 独身者や家庭から離れて暮らす労働者は当時どこの醸造工場にもあった「ひろしき」というタコ部屋で生活させられた。60畳ぐらいの畳敷の一部屋に約100人もが寝泊まりする。三度三度粗末な食事と汚い布団が2人に一枚、夏などは3人に一枚支給され、まくらは木枕であった。豚小屋にも匹敵する、そこはゴーリキーの戯曲がいう人生の「どん底」を思わせるものであった。しかも、どこの醸造工場の「ひろしき」にも親分とその子分がいて労働者を暴力で支配していた。仲間が病気になっても特別の食事を与えることもできなかった。上半身裸のままふんどし一丁で労働し、裸で帰ってきて3年も洗濯しないような煎餅布団に潜り込むのだ。労働者の気風が荒むのは当然であった。酒やとばくや買春に走り、泥酔した者同士の喧嘩や殺傷事件も日常的におきた。暴力が支配する醸造労働の世界で一人ぼっちの労働者がそれに負けまいとして自ら荒くれ者、乱暴者となり、入れ墨を彫るのはむしろ当然であった。現代においても「ひろしき」はある。労働者同士の団結を知らない時、労働組合のない時、ストライキの経験がない時、労働者が一人ぼっちの時の大久保製壜所のキリスト教会ろう城闘争以前における職場が文字通りの暴力、虐待、差別の世界であり、男子寮・女子寮の生活がいかに「ひろしき」であったか。

(差別され蔑まれた「醤油屋者」)
 地域ではこのような醸造労働者を「醤油屋者」と称した。町の人々の中には醤油労働者をまるで取柄のない無頼漢のように蔑み、乱暴者、荒くれ者と怖れる人もいた。低賃金と過酷な醸造労働者は結婚して家族がいる者が圧倒的に少数であった。たまに結婚しようした女性が家族親戚から「醤油屋者と結婚するとは何事か」と叱責され、中には勘当された人もいた。

(感想・ふんどし一丁と「荒くれ」)
 威勢のよさを強調する表現に、ふんどし以外何も身に着けていない裸の状態を指して「褌一丁(ふんどしいっちょう)」と言うが、「褌一丁」には労働者自身寒風吹きすさぶ冬、あるいは猛暑の中汗まみれになりながら過酷な醸造労働をやりきり、全国でも有名な美味しい醤油を製造している誇りや労働自体が荒々しい中で、自らも乱暴者、「荒くれ」と呼ばれることのかっこよさもあったのではないか。また、長い野田醤油争議の特徴に日常的な労資双方の暴力事件や「テロ」がある。会社は野田支部結成の直後から組合のリーダー小泉七造の殺害を本気で命じたり、大量の暴力団、ならず者を雇い、町全体で「正義団」を組織し、争議団員へ繰り返す白色テロ襲撃で失明や重体を負わされ病院に運ばれる組合員は数知れない。行徳支部の組合事務所の建物も襲撃を受けめちゃめちゃに破壊された。実に乱暴な荒っぽい世界ではないか。さすがの警察も会社側の人間を検挙しているが、その数も半端ではない。
 だからふんどし一丁の荒くれ労働者側も負けてはいない。会社から命じられて小泉七造を殺しにきた奴は、小泉護衛隊の労働者からたちまち返り討ちに合い、逆に短刀で殺されてしまう。追い詰められた労働者側からの「赤色テロ」も頻繁に起きる。その最たるものが3回の硫酸事件だ。敵も味方も懐に匕首を忍ばせている当時の醸造労資の世界、それを知らないと硫酸事件など到底理解できない。

奴隷から人間へ 
(小泉七造の獅子奮迅の働き)
  日鋼室蘭大争議を闘い職場を追われた旋盤工小泉七造は、単身1920年暮れから野田醤油労働者の中に入り、ひそかに『野田の奴隷を解放せよ』の標語を掲げ、組合の組織化と闘争指導に獅子奮迅の働きをする。1921年12月総同盟野田支部を結成し、御用団体との闘い、22年のストライキ、1923年も2,600名組合員の『ピンはね』撤廃、待遇改善を巡って、ストライキに発展した。小泉七造に率いられた労働者は団結を固くし、労働学校、階級学習に励み、毎年5月1日には野田町独自の地域メーデーとデモを敢行し、関東一帯の醸造労働者の産別組織化に向け、千葉県下のみならず、埼玉、群馬などにも拡大、醸造労働者の大小の幾つもの争議を果敢に闘い抜いてきた。小泉七造は常にその先頭に立ち続けた。日本労働総同盟の中でも最強の労働組合の一つとしてと尊敬され、その中心で最大拠点が野田醤油労働者であった。

(「ひろしき」の廃止)
 野田醤油における労働組合運動の進展に伴い、非人間的な労働条件に対する労働者の改善要求と闘いも熾烈なものとなり、多くの改善を勝ち取ってきた。賃金も1922年、23年の闘いの「ピンはね」撤回もあり、日給制とさせ、8時間労働制の完全実施と時間外手当など労働者の手取りは大幅に増額した。「ひろしき」の食事、寝具の改善、木枕の廃止、1923年1月には会社に工費30万円を投じさせ、近代的第一宿舎、第二宿舎を建築させた。憎しみと軽蔑の対象であった「ひろしき」は完全に廃止されたのだ。賃金や労働条件の大幅改善が実現する中で、それまで少数であった結婚する者が激増し、寄宿舎の利用者自体も減り、その後第一の建物は野田女学校に、第二の建物は野田病院として使用された。会社に労働者向け社宅も110戸を建てさせた。1924年(大正13年)には、野田支部は退職金、解雇手当等を実現させた。

(彼らの生活は一変した。組合結成以来変わったのは、そこに漲(みなぎ)る空気である。彼らの面(おもて)は一様に希望に満ちている。)
「彼らは初めて自己の力を自覚し、強い信念を持ち得た。彼らは最早昨日までの『醤油屋』ではなかった。彼らの生活は一変した。自覚した近代的労働者として、解放戦線上の闘士としての資格を得るための修養には、あらゆる努力を惜しまなかった。工場にはパンフレットが持ち込まれ、研究会が開かれ、家庭では新聞紙上を通じ、社会事業の研究が熱心に行われ、この頃では『ひろしき』も最早昔のごとき陰惨な豚小屋たるものではなかった。家屋、寝具、食事その他待遇には何ら変わったところがなく、全く奮態そのままであるが、組合結成以来変わったのは、そこに漲(みなぎ)る空気である。彼らの面(おもて)は一様に希望に満ちている。彼らは昨日に変わる勤勉家となって、組合の建設修養と向上に努力したるため、逐日内部の整備と共に発展に発展を重ね、戦闘力も漸次加わったため、会社はもはや到底昔のようなほしいままなる搾取を続けることは不可能と悟り、大正12年1月、日給制度の設定その他工場制度、雇用制度に大変革を加えた。・・・今日の、工員の生活は、昔のおもかげを止めないくらいに向上している。」(『野田血戦記』日本社会問題研究所遍)

(労働学校ー自ら教師となり生徒となるー)
 野田支部と関東醸造労働組合は労働学校を積極的に開催した。1926年(大正15年)8月には校舎を新築した。授業は各支部から選抜された組合員を生徒とし、定員120名、毎週4日間の授業で一ヵ年で修了とした。学科は「醸造労働運動史」、「経済学」、「社会文化史」、「思想史」、「労働法制」、「労働組合論」等であった。また毎年夏季林間学校を3日から4日開催し、臨時講習会、講演会、各種研究会など組合員の教育学習に努めた。総同盟本部などから招いた講師もいたが、野田支部の主事小岩井相助も自ら「醸造労働運動史」の講師を担当した。闘う労働者自ら教師となり生徒となり、そしてストライキの先頭で闘ったのだ。

(奴隷思想からの解放)
 野田支部は、闘い学ぶ中で労働者が長年身につけている封建的・奴隷思想からの解放を目指した。その一つに組合員の賭博を禁止させ、賭博を行った組合員は除名などの制裁もあった。また野田購買利用組合(生活協同組合)を設立し、労働者が互いに助け合い、互いに仲間たちの生活改善に努力した。

(野田支部の政治運動)
 野田町は、従来茂木一族の独裁町議会であった。1925(大正14)年4月14日の野田町々会議会選挙に、野田支部は労働者の代表として3名を立候補させ、圧倒的票数で見事に当選させた。奴隷から人間と目覚めた野田醤油労働者は明らかに社会的地位をも向上させたのだ。

以上



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。